水森羊子(みずもり・ようこ)
水森羊子は川渡市役所第二庁舎にある、民宜党の会派控室を訪れた。控室といっても、一般企業のオフィスほどの広さがあり、会派の議員は実務のほとんどをここで行っている。室内は必要に応じて簡易的なパーティションで区切られており、ある程度プライバシーは確保されている。
「ごめんください、週刊鏡星の水森ですけど……」
水森が声をかけると、パーティションの陰から初老の男が現れた。
「ああ、秘書への取材だね。どうぞどうぞ」
この男は民宜党所属のベテラン市議会議員・堂之前陽一郎である。堂之前議員は一旦パーティションの向こうに姿を消すと、秘書を伴ってやって来た。
「今日は比較的時間に余裕がありますので、じっくりやって下さい」
といって堂之前議員はまた奥へ引っ込んだ。秘書は水森に席を勧めて自分も腰掛け、落ち着いた態度で口上を述べた。
「お久しぶりですね、水森さん」
「ええ、お久しぶりです……児玉さん」
児玉啓介……以前、関東勧業銀行川渡支店の小池哲夫副支店長殺害の容疑で逮捕されだ元ホームレスである。無罪が確定となり釈放後、水森が書いた記事を堂之前議員が読み、児玉啓介を私設秘書として雇い入れることを決めた。
「水森さんの記事、私も読ませていただきましたが、正直なところ、むず痒い気持ちです」
「いえそんな、ホームレスから議員秘書なんて、それだけですごいニュースバリューですから」
「たしかに堂之前の秘書に抜擢されたのは光栄なことです。しかし、私が何か優れているというわけではありません。地方議員の私設秘書は仕事がハードな割に給料が安く、その上いろいろなスキルが要求されますので、あまりなりたがる人がいないのです。その点、私のような極楽とんぼは適任と言うわけですよ」
「ご謙遜を。お仕事は大変ですか?」
「毎日楽しくやらせていただいています。……ときに、羽越喜一さんは元気にされていますか?」
羽越喜一の名前が出て、水森はわずかに顔を赤らめた。児玉はそれに気づいたが、あえて冷やかすようなことは言わなかった。
「ええ。最近試用期間が終わって、正式採用されたそうです。その途端に忙しくなって、時々泣きごと言ってくるんですが……その都度お尻叩いてハッパかけてやってます」
水森はフフフと笑った。その蠱惑的な笑みには、カカア天下の匂いがプンプン漂っていた。
「それはよかった。……ところで水森さん、今日はただの取材に来たという感じではなさそうですね」
「さすがに児玉さんは鋭いですね。実は折り行って相談したいことがあって参りました」
「相談ですか? 何でしょう。私でお役に立てることでしたら何でも尽力いたしますが」
水森は一度居住まいを正して話し始めた。
「実は……私たちが羽越さんと出会うきっかけにもなった、駅のピアノなんですけど……」
「ああ、川渡中央駅に置いてあるフリーピアノですね。あれがどうかしましたか?」
水森は一段あたりを見回した後、児玉に顔を近づけて小声で耳打ちした。
「ちょっと小耳に挟んだんですけど、市の方であのピアノを廃止にする話しが持ち上がっているとか……」
と言うや否や、児玉が立ち上がって「何ですって、あのピアノを廃止に!?」と大声で言うので、水森が慌てて口に指を当ててささやいた。
「こ、声が大きいですよ……どうやら児玉さんの耳には入っていないようですね」
「ええ、初耳ですよ。ご相談というのは、私にピアノが廃止にならないよう働きかけて欲しいということですね?」
「はい、ご迷惑にならない範囲でいいんですけど……」
「迷惑だなんてとんでもない。堂之前に話してみますよ」
「ありがとうございます。でも、くれぐれも無理なさらないように……」
といって水森は席を外したが、なにやら児玉がムチャなことをしでかしそうな気配を漂わせていて、内心不安だった。でも、あのピアノはどんなことをしても廃止させてはいけないと、水森は拳をしっかり握りしめた。