化粧の匂いで味わからないし
貴婦人もどきが美味しいと絶賛したそのアップルパイは、想像を遥かに上回って巨大だった。一回の食事分としても充分な量だ。
「正確にはアップルパイというよりアプフェルシュトゥルーデルね。私、ドイツでよく食べていたの。あの頃が懐かしくて、たまにここに食べにくるのよ」
彼女は市崎美和子と名乗った。若い頃、音楽留学でドイツに滞在していたが、その時に知り合ったドイツ人男性と結婚してしばらくドイツに住んでいたらしい。ところが、絶対菜食主義思想に気触れた夫とそりが合わなくなり、離婚して日本に帰ってきたとのことである。
「だって、アプフェルシュトゥルーデルに生クリームつけたら怒るのよ、あの人。そして彼に連れて行かれたヴィーガンの店で食べたスイーツのまあ、まずかったこと、まずかったこと。一生こんなものしか食べられないんだったら、死んだ方がましだと思ったわ!」
「……それは大変でしたね」
それほどスイーツにこだわりがない僕は適当に生返事をした。でも貴婦人もどき……もとい、市崎女史は相手の反応などまるで意に介さず、生クリームをたっぷり盛ったアプフェルシュトゥルーデルにガツガツ喰らい付いた。まるでヴィーガンの元夫への当てつけのように……。
「ところで、ドイツってどんなところなんですか?」
僕は何とはなしにきいてみた。
「いいところよ。日本みたいにせかせかしてなくて。ちょっと堅苦しいところはあるけど、みんな変に気負ったりしていないし」
「それはいいですね」
僕は気負った人間というのがどうも苦手だ。そして自分自身がその気負いの渦に飲み込まれていることに焦りを感じたりもした。
「音楽に興味のある人なら、一度は行ってみるべきね。ちょっと散歩したらバッハやブラームスの所縁の地に出会ったりして楽しいわよ。何だかんだ言ってクラシック音楽の揺籃なんだって実感するわね……」
僕は想像してみた。バッハやベートーヴェン、ブラームスの轍。それを知ると知らぬとではピアノの音に対する考え方も変わるだろう。そんな僕の想像を察したかのように彼女がいった。
「羽越さん、ドイツに行ってみる気はない?」
「もちろん、一度行ってみたいとは思います。でも海外旅行に行けるほどまとまった休暇を取るのはなかなか難しいんです」
すると彼女は化粧臭を振りまきながら頭をブンブン左右に振った。
「違うのよ、会社を辞めて向こうで働かないかってこと」
「えっ……!」
「昔世話になっていた調律師さんが日本に本帰国することになってね、その工房で後任を探しているらしいの。その調律師さんの働きぶりが評価されていて、優秀で若い日本人の調律師がいたら是非紹介して欲しいって言われてたの」
彼女のもたらした情報に僕の心は踊った。ショパンが毛嫌いしたというウィンナワルツが頭の中で鳴り響く。まるでドナウの川面が燦然と煌めくように。
†
市崎女史から件の調律師の連絡先を教えてもらうと、僕は食べきれない量のアプフェルシュトゥルーデルを残してカフェを出た。
その日の仕事を終え、一人暮らしのアパートに帰ると、真っ先にパソコンのスイッチを入れた。そして、紹介された調律師──坂本大輔といった──のメルアドを宛先に入力し、僕は彼に宛ててメールを書いた。
坂本大輔様
はじめまして、僕は羽越喜一と申します。市崎美和子さんからご紹介を受け、失礼を承知でご連絡させていただきました。
僕はピアノ調律師をしておりますが、日頃の義務を繰り返す中で、心の底から自分が求めているものは何かと自問しておりました。そのような時、市崎さんからドイツで坂本さんの後継者を探しているとのお話を聞き、興味を持った次第です。お忙しい中恐縮ですが、詳細についてお聞かせ願えれば幸いです。
羽越喜一
僕は書き終えた文章を何度も読み返した。何度も送信ボタンを押そうとしてはやめた。そんなことをくりかているうちに、
──あなたは自分が本当にやりたいことを探した方がいいと思います──
というケイスケさんの言葉を思い出した。
そうだ、せっかく出会ったチャンスなのに、何を躊躇しているんだ。そう思って震える手で送信ボタンを押した。
翌朝、パソコンを開くと新着メールの通知が出ていた。送信者は坂本大輔、件名は「ご連絡ありがとうございます」であった。
僕は恐る恐るそのメールを開いてみた。