何年連れ添ってもわからない女心
「ただいま……」
帰宅した僕に「おかえり」と声をかける者はいない。廊下のフローリングをミシッミシッと音をさせながら、僕は居間へと向かう。そしてもう一度いう。
「ただいま」
返事はない。しかし、〝彼女たち〟は暖かい目で僕を歓迎してくれた。その優しいまなざしに囲まれて、僕はソファーに腰掛ける。
リア充世界へと転生していったオタクたち。だが、その伴侶となった者たちの多くはオタク文化の理解者ではなかった。新生活を始める前に、彼らが愛してやまなかったフィギュア、ゲーム、ビデオなどのオタクグッズはことごとく処分させられ、オタクアイデンティティーを押し殺すことを誓わされた。僕の場合もそうだった。
しかし、僕にはどうしても捨てられないものがあった。それはアルティメット☆まどかというアニメのフィギュアだった。値段はピンキリで、千円程度から数万円するものまでさまざまだ。だけど、値段の問題ではない。中にはとても愛着があって、愛着を超えて愛情にまで発展してしまったものもある。僕は〝彼女たち〟を匿い、妻の目の届かないところに隠しておいた。
それが数カ月前に、妻に〝彼女たち〟を発見されてしまった。怒った妻は幼い娘を連れて出て行った。
だけど僕は事態を甘く見ていた。そのうちほとぼりが覚めれば帰ってくるだろうと考えていた。ところがしばらくすると、彼女の弁護人がやって来て、離婚を申し出てきて、高額な慰謝料まで請求された。そこで僕も、弁護士をしている友人の木村新に弁護を依頼し、離婚の意志はないこと、最悪離婚に応じたとしても、慰謝料は払えない旨を相手側に伝えた。そのまま話は平行線をたどり、離婚話はこじれた。
僕は日を追うごとに衰弱していった。顔はやつれ果て、中年太りが気になりだした体型もげっそりと痩せた。そんな僕に声をかけたのが、職場の後輩である望月であった。
「先輩、大丈夫ですか? 最近顔色悪いですけど」
「ああ、さすがに離婚話っていうのは消耗するよ……」
「もしよかったら、今度教会に行きませんか? もしかしたら、少しは元気になるかもしれませんよ」
望月がクリスチャンだということは前から知っていた。以前の僕なら宗教なんて、と突っぱねていただろう。でも、僕は望月の誘いを無下に断るにはあまりにも打ちひしがれていた。
結局、僕は次の日曜日、望月に連れられて川渡中央教会に行った。ところが、その日、牧師が急病で説教できなくなったと報告があった。そして牧師に代わって説教をすることになったのは……まだ神学校を卒業したばかりという、若い女性だった。
講壇に立った彼女は場違いなほどにキャピキャピしていた。身なりこそ清楚にまとまっていたが、話し方はその辺の若者という感じだ。僕は落胆した。こんな娘に僕の魂を癒やせる説教ができるものか。やがて彼女はこんな話をした。
「みなさんが一番落ち着く場所ってどこですか? 私はやっぱり自分の家です。家族と一緒にいると、不思議と落ち着くんですよね。一番自分らしい自分でいられる、そんな場所が家だと思うんです」
僕はため息をついた。そんなことは子供だから言えるのだ。父親っていうのはな、自分を押し殺して妻や子供に気を使って生活してるんだぞ! と思っていたら、彼女はまるで僕の心を見透かしたようにいった。
「あ、でも中には恐妻家の方や、家族に気を使って窮屈に思われている方もおられるかもしれませんね。……あ、うんうんって頷いている方が何人かおられますね」
そこで笑いが起こったが、僕は笑う気にはなれない。それほど現実はつらいから。
「でも、それでも家族はやっぱりいいものだと思うんです。家族関係、今は難しくても、きっと良くなっていくと思いますので……」
その時、僕と心はその言葉に止まった。「きっと良くなっていく」……それは人生経験の浅い一女性の、根拠のない楽観論には違いない。でも、そこには不思議な期待感があった。それから彼女の語ることに僕の心は素直になった。そして、僕は彼女のことを心の中で〝マリアさま〟と呼んだ。