遠い、でも私のいるべき場所
私が悲しみと怒りを胸に抱いて帰ってくると、玄関の前でアヤノとバッタリあった。私の顔を見るなり、彼女は鷹のような目をさらに吊り上げていった。
「何してるの、どうして外に出ているの!」
「……ちょうどいいわ。アヤノ、話があるの」
私が中に入ると、アヤノも続き、黙ったまま私が何か言い出すのを待っている。
「私、ここを出る」
「ちょっと、何を言い出すかと思えば……いったいなんで……」
「大した理由じゃないけど……あえていうなら〝性格の不一致〟かな。アヤノ、あなたとの……」
「ふざけないで、熟年離婚じゃあるまいし。そりゃ、私もちょっと言い方がキツいところがあったかもしれない。でも、それだけあなたの命に危険がさし迫っているということなのよ!」
「もうたくさんなの! そうやって、あなたのため、あなたのためって人を縛りつけて! 私は自由に生きていきたいの。束縛された安全なんてまっぴらごめんだわ!」
私がそう言い切ると、アヤノは黙って私をにらみつけた。そうしてしばらくにらみ合いが続いた。やがてアヤノが再び口火を切った。
「あなただけが……あなただけが不自由な思いをしたと思うなら大間違いよ。私だってどれほどあなたのわがままに振り回されたことか……まあいいわ。タケモトさんに連絡して担当を替えてもらうから。性格の一致しない相手との暮らしは苦痛かもしれないけど、それまで何とかこらえて!」
アヤノはそういって自分の部屋に入り、バタン!とドアを閉めた。私も自分の部屋に入った。初めてのアヤノととのケンカ。後悔はしていない。今後、何日も互いに口をきかないかもしれないけれど、それもまたいいと思う。それよりも……
朝、目が覚めて起きてみると、まだアヤノが寝ている様子だった。珍しい、彼女は朝型なのに。別に顔を合わせたからといって気まずいとか、逆に昨日のことを謝りたいとか、そんなことは何も思わない。ただ、アヤノがまだ寝てる、その事実だけがそこにあった。それは動物園のパンダが寝てる、くらいの認識だった。
この家、出よう。
たしかに、出るなら今だと思った。私はいつものブラウスとフレアスカートに着替えると、財布とパスポートだけバッグに入れ、黙って家を出た。
私の居場所はここじゃない。目指すはまず成田、そして……アメリカ。でも、そこまで行くには所持金がまったく足りていないことに気がついた。とりあえず今行けるところまで行こう、そこで何とかお金を工面して、それから次へ進もう。そう思って私は川渡中央駅へと向かって歩き出した。
街頭ビジョンでは、あいかわらず内村麗二のコマーシャルを流していた。なんだか懐かしい気持ち。これを見ていたらゴミ箱を蹴って警察に捕まった人がいて、その人がピアノで弾き語りをしていた……。つい先日のことなのに、もうだいぶ前の出来事のような気がしてしまう。
さよなら、歌のお兄さん。
できればこの町を出る前に、またあの人の歌が聴きたいと思った。でも、そんな虫のいい話……
……と思ったら、なんとピアノのところにあの人が!
でも、いつもと様子が違う。もう一人、別の男の人がついていて、何か録音でもしているようだった。私は邪魔にならぬよう、離れたところで成り行きを見守る。
歌はなく、ピアノのフレーズのみだった。でも私は満足だった。彼らが機材を片付けに入った時、私は惜しみない拍手を送りながら彼らに近づいた。
「また聴けてうれしいです。今日はレコーディングですか?」
「うるせえな、近寄ってくんなよ」
彼はまたもや憎まれ口を叩いたが、その隣の男の人がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「お姉さん、この前コイツの歌聴いてくれたんだって? もしよかったらオレたちと一緒に昼メシでもどう?」
私は遠慮しようと思ったけど、おなかがぐうと鳴ってしまい、恥ずかしい思いをした。考えたら、朝から何も食べていなかったのだ。