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ピアノのある終着駅  作者: 東空 塔
第一章 羽越喜一(うえつ・きいち)
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自己啓発本が何と言ったところで

「ピアニストじゃなくても、ピアノ関係の仕事ならいいやって……そんな安易な気持ちで調律師になったんです。でも、やってみたら全然自分には向いてなくて……」

「お仕事、好きではないのですか? 昨日は楽しそうにやっているように見えたのですが」

「ピアノを調律したり、直したりするのはすごく楽しいです。でも、会社ではピアノを売る営業成績ばかりが評価の対象になっていて……それが嫌なんです」

「ほう、調律師というのはそんなことまでしなくてはならないのですか」

「ええ。でもその営業というのがくせものでして、……何というか、僕にはどうも攻撃性というものがなくて、みんな僕を見ると変に安心感を覚えてしまうらしいんですよ」

「それはいいことだと思いますが」

「でも、営業はそれじゃあダメなんです。とにかくなんか理由つけて、『このままじゃダメだ』みたいな焦燥感を相手に起こさせる。それが商品の販促材料となるんですよ」

「……よくわかりませんが、いっそ営業のない職場に転職なさったらよろしいのではありませんか?」

「そんな職場があれば苦労しませんよ」

 すると、その人は何かを思い巡らすように宙を見上げていった。

「ないと思っていると見つかりませんよ。……あなたは自分が本当にやりたいことを探した方がいいと思います」


 ピアノから離れ、ホームレスと別れた僕は、駅に隣接したショッピングモールの本屋に入った。「自分探し」「好きなことの見つけ方」などの自己啓発本を手に取ってみる。すると、

──興味が湧いたら、とにかくやってみる。

──嫌いなことは人生からなくしてしまう。

 ……等々。まあ、そうはいってもねえ、というのが正直な気持ち。努力しても、もがいてもそうそう環境が変わるわけじゃない。毎日通勤で目に入る景色。繰り返し、繰り返し同じ景色が見えてくる。その度に、いったいあと何年、いや何十年この景色を見続けることだろうと考えてしまう。そしてうんざりを通り越して、ひどく虚しい気持ちになってしまうのだ。


      †


 それから僕は度々川渡中央駅に足を運び、あのホームレスと懇意になった。彼はコダマケイスケだと自ら名乗った。本当の名前なのかどうかはわからない。でも、その人が名乗ってくれたおかげで、僕はより心を開くことが出来た。僕はその人をケイスケさん、と呼ぶことにした。

 僕はケイスケさんと色々な話をした。といっても、僕の悩みの相談や愚痴を聞いてもらうばかりで、ケイスケさん自身のことについてはあまり語ってもらえなかった。

 それでも、ケイスケさんは昔結婚していたこと、そして僕と同年代くらいの息子さんがいたことが会話の断片からわかった。だけど、奥さんや息子さんが今どうしているのか、どのような経緯で家族と離れたのかは皆目判らない。


      †


 そんなある日、外勤から戻ってきた僕に店頭の女の子から伝言があった。

【羽越さんに会いたいというお客様がお店に来られています】

 それを見た僕は、すぐに店頭に出た。伝言をくれた店員にきくと、彼女は楽譜を閲覧中の婦人を指差した。厚化粧というよりは少し品のある、丹念に施されたメーキャップ。その匂いは数メートル先からでもプーンと漂ってきた。

「お待たせしました、羽越です。僕にご用とのことですが……」

 その女性は僕を見ると、満面の笑みを浮かべた。

「まあ、あなたが川渡中央駅のピアノを調律して下さった調律師さん!? また随分お若いのね!」

「ええ、まあ……」

「ホント、ボロボロのピアノだったのにこの前弾いてみたら、すっかり良くなって! どんな腕のいい方かしらって思ってたの!」

「それは……恐れ入ります」

 僕は彼女が駅長さんに言っていたところの〝貴婦人もどき〟だと合点がいった。まあいずれにせよ褒められて悪い気はしない。

「それでね、もしよかったらお礼も兼ねてお茶でもご馳走したいんだけど、いかが?」

 僕は思った。あれは仕事でやっただけで、見ず知らずの女性から奢ってもらう筋合いはない。しかし、楽譜を眺めていたことを考えると、きっと音楽関係者、おそらくはピアノ教師というところだろう。そうすると、営業的な話も手土産として期待出来ないこともない。そんな勘定が頭の中をグルグル回った。

「少しばかりの時間でしたら、おことばに甘えてお供させていただきます」

「嬉しい! 近くにアップルパイの美味しい店があるの。そこにいきましょう!」

 そして僕は半ば貴婦人もどきに引き摺られるようにして〝アップルパイの美味しい店〟に連れて行かれた。

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