急展開に迂闊さはつきもの
駅のピアノのところに来ると、どこかのボンボンが得意げにクラシック曲を弾いていた。オレは無遠慮にピアノに近づき、オレの〝チャームポイント〟である目でソイツをじっと見た。するとボンボン野郎は恐れをなしたのか、弾くのをやめてどこかへいった。
オレがピアノの前に座ると、舞香は数メートル離れたところに立ってオレが弾くのを待っている。
「そんなところに立ってないで、コッチ座れよ」
オレは椅子の右半分を空けて、舞香にそこに座るように促した。彼女は魅惑のスマイルでオレの横にヒョッコリ座った。
「私、ぜんぜん弾けないのに、こんなところに座って申し訳ないです……」
「大丈夫だ、ピアノなんて誰でも弾けるんだよ」
「えええ、弾けるわけないですよ〜」
「じゃあ、教えてやるよ。ペダルをベタ踏みして、黒鍵だけ適当に弾いてみな。そうしたらそれっぽく聞こえるから」
「黒鍵って、この黒い鍵盤ですか? やってみます」
舞香はオレにいわれた通りにやってみた。すると、もともとセンスはあったのか、イージーリスニングっぽい曲に仕上がった。
「すごーい、本当に弾けちゃった! こんな裏技があるなんて!」
「別に裏技でもなんでもねえよ。オレたちミュージシャンもアドリブのソロなんかは同じ原理でやってるんだ」
オレが説明しているのも聞かず、舞香は〝でたらめ弾き〟にはまってえんえんと弾いていた。彼女が動くたびに、すごくいい匂いが漂う。それが人間の肉体から生ずる匂いでないことは百も承知なのに、オレの脳はそれが彼女のフェロモンだと認識する。だめだ、がまんできん。
「あ、あのさ、舞香……」
「えっ?」
舞香はピアノを弾く手を止め、驚いた顔でこちらを見る。そういえば彼女の名前を呼んだのはこれが初めてだ。
「その、オレ、舞香のこと、す、す……」
「す?」
「す、すごく楽しかったな、今日」
「はい。楽しかったです!」
アホか、オレは。すると、舞香はまたドキッとさせる発言。
「楽しかった……だから、帰りたくないですね」
「もしよかったら、……オレんち来ない?」
オレのありったけの勇気を振り絞った誘いに、舞香は笑顔で承諾した。
†
「むさ苦しいところだけど、まあ上がって」
「おじゃまします……」
上がってはもらったものの、彼女に喜んでもらえそうなものは何もない。とりあえずテレビをつけると、絶対に手術に失敗しないと豪語する女医を主人公とした医療ドラマがやっていた。
「このドラマ、毎回同じような展開なのに、みなさんよく飽きないなって思います。何かそういうところが日本人って不思議です」
オレはインスタントコーヒーを彼女にさし出していった。
「舞香ってどこか日本を客観視してるのところあるよな」
「そうですか?」
「ああ。もしかして、日本人ではない、とか?」
オレがきくと、舞香はもともと真面目なのが、さらに真面目な顔になった。
「もし、……私が日本人じゃなかったら、カイさんは私のこと、キライになりますか?」
「バカいうな。舞香は舞香だろ。何人とか関係ねえよ」
「うれしい……私、やっぱりカイさんが好き」
そういわれてオレはたまらなくなって、舞香を抱きしめようとした。と、その時……
ロン!
テレビの中から声がした。このドラマおきまりの麻雀シーンだった。
「ちくしょう、良いところで……」
オレはブツブツいいながらテレビを消した。そして舞香の顔を見たオレはギョッとした。
彼女は何かにおびえているような、異様な形相でガタガタと震えていた。文字通り、震えているのが目に見えるほどだった。
「どうした、大丈夫か?」
すると舞香は両耳を押さえて両目を大きく開いた。
「い、いやあああああっ‼︎」
凄まじい大声で舞香が叫んだので、オレは反動で尻もちをついた。
「おい、いったいどうしたんだよ、テレビ、まだ見たかったのか?」
そんなわけない。百も承知でバカな質問をした。この時のオレにはそれ以外言葉が浮かばなかったのだ。舞香はこたえるかわりに、なにやらオレには理解できない言語(たぶん英語)でブツブツ言っていた。そんな状態が30分ほど続くと、彼女は気を失った。オレはどうしてやるのが正解かわからなかったが布団を敷いて彼女をそこに寝かせた。オレはその横でパソコンを開いてネット検索などをやっていたが、いつの間にか机に突っ伏して寝てしまった。
†
朝起きると、舞香はいなくなっていた。置き手紙もなく、何の痕跡もなく。布団だけがきれいに畳まれていた。オレは電話しようと思ったが、うかつにも連絡先を交換していなかったことに気がついた。