オレをつけても何も出ねえぞ
キヨシのスタジオを出たオレは、〝本業〟であるティッシュ配りをするため、広告会社に向かう。ふと気がつくと、また、あの〝気配〟が追いかけて来た。「だるまさんがころんだ」よろしく、振り向いては気配が止まり、前に歩いてはついてくる、という動作を繰り返した。
オレは目に見えぬ〝気配〟との追いかけっこを、ゲーム感覚で楽しんだ。
……なんて嘘だ。
本当はビビっている。
めちゃくちゃビビっている。
オレは〝気配〟を振り切ろうと、猛烈にダッシュした。4kg近くあるエレキギターを背負ってのダッシュは相当キツい。それでも本気で走ってしまうのは、どれほどオレがビビっていたのかを物語っている。会社に着いた時には息切れぎれであった。
「どうした田村ちゃん。そんなにハアハア言って。大丈夫か?」
そういうのは、会社のバイト担当の加藤さん。
「ハアハア、大丈夫です。電車に駆けこんだんで、ちょっと……」
「あ、そうなの。この後中央駅でダンボール二箱だけど、いける?」
「はい、余裕っす」
「おお、いい返事だねえ。そうそう、ポスティングもあるけど、田村ちゃん、ティッシュの後にやる?」
「やります、ぜひやらせてください!」
オレはギターを事務所に置かせてもらい、ダンボール二箱抱えて川渡中央駅に向かった。
オレが笑顔を浮かべるのは一生のうちでもこのティッシュ配りの時だけだ。厳しい先輩に仕込まれたのだ。最初は、急に始めた筋トレの翌日のように、顔中筋肉痛になったものだ。それが徐々に慣れてきて、今では〝優秀な〟ティッシュ配り要員となっている。
しかし、そのプロであるはずのオレが、仕事中に思わず素の顔つきをしてしまった。
〝気配〟がそこにいたのだ。しかも今度は堂々と姿を見せている。スペックは、そこらの量販店でツルシで売っているような黒のスーツ。長い髪を後ろに束ね、どうにも残念な瓶底メガネで微妙に素顔を隠している。そしてなにげないフリを装いつつ、たまにチラチラとこちらの様子をうかがっている。
見ていると、どうも警官ではなさそうだ。しかし、昨日のゴミ箱蹴り以外には、誰かにつけ回されるようなことをした覚えがない。ともかく、恐怖を克服するにはこっちから立ち向かうこと……誰かに教わった教訓通り、オレは瓶底メガネ男に近づいた。と、その時……
「あっ、歌のお兄さん!」
オレを呼ぶ声。振り向くと、例のフレアちゃんだった。グレージュのフレアスカートをヒラヒラさせ、ニコニコしながら近よってくる。
「ゲッ……」
「今日も歌うんですか? ぜひ聞きたいです!」
「今仕事中なんだよ、これやるから、あっち行っててくれ」
オレはティッシュ二十個をフレアちゃんに手渡して、追い払った。彼女がいなくなると、あの瓶底メガネ男の姿も見えなくなっていた。
結局、なんだかんだと集中力を削がれ、ダンボール二箱分のティッシュを配り切るのに普段の倍の時間がかかってしまった。しかも、会社に戻ってみると、加藤さんの機嫌がよろしくない。加藤さんが手招きするので、そのデスクの前に立つと……
「田村ちゃーん、困るんだよ。知り合いの女の子に配布用のティッシュ二十個あげたんだって? 今日ね、本社から監視員が来て抜き打ち検査だったのよ」
あの瓶底メガネの男……本社からの監視員だったのか。
「すみません、ちょっとしつこくされている女の子につきまとわれたもので……ティッシュをたくさん渡して追い返したんです。いつもはそんなことしていないんです、信じてください!」
「んー、まあ、いつも田村ちゃんはよくやってくれるから今回は見逃してあげるけど、こういうの、信用問題だから気をつけてよ」
「はい、すみませんでした……」
クソッ。どうして監視員が来ている時にあの女に出くわすんだ! オレは頭に来たが、信用回復のために、ポスティングの仕事をキッチリ成し遂げた。