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ピアノのある終着駅  作者: 東空 塔
第一章 羽越喜一(うえつ・きいち)
3/76

おたがいさま

 ひととおり調律を終えて辺りを見渡すと、あのホームレスの姿はなかった。


 予想以上に作業時間や手間がかかったので、割増料金を請求した。ところが、そのことで紫原駅長と口論になった。

「割増料金が発生するなら発生するで、最初から言ってもらわないと、こちらも困るんですよ。予算だってあるんですから……」

「そうおっしゃられても、料金規定もございますので……」

 仕事を受託した段階で料金について説明されているはずである……もしかしてちゃんと話していなかったのか? 僕は上司の重山課長に電話した。すると、

「割増はなしで、基本料金と出張費だけ請求しなさい。それで定期調律に結びつけた方が得策だ」

 これを聞いて、重山課長がお客さんにキチンと料金規定を説明していなかったのだと悟った。これは重山課長のミスだ。しかし、今日の僕は商談を破談にしてしまった後ろめたさで強気にはなれなかった。


      †


 重山課長も後ろめたさを感じていたのか、営業に失敗した僕への態度も緩めだった。

「いつも言っているように、営業は時間が勝負だ。そのことを肝に銘じて次からはもっと積極的に動くように」

 重山課長は形ばかりの小言で済ませて僕を解放した。課長の料金伝達ミスのおかげで僕は迷惑を被ったわけだが、それも怪我の功名というべきだろう。


 タイムカードを切ってから、僕は音楽教室の空いている部屋にこもってピアノを弾いた。誰もいない、誰の声も聞こえてこない防音室が心地よい。

 僕は小さい頃から人と関わるのが苦手だった。自分ひとりで上手くできることでも、誰かが手伝ったり、誰かが助言したりするとたちまち出来なくなる。それで、誰の干渉も受けず、一人で出来る仕事としてピアノ調律師という職業を選んだ。

 だけど現実はセールスエンジニアという色が強く、絶えずコミュニケーション能力を求められた。常に営業成績で評価され、クレームはヒューマンスキルの乏しさから生じていた。やればやるほど、この仕事を選んだのは間違いだったとつくづく思う。

(そんなこと……言ったって何も始まらない!)

 僕は押し寄せる後悔を払拭するように、激しくピアノを弾いた。


      †


 次の日、出社すると机の上に僕あてのメモ書きが貼ってあった。

──今日、午前中調律予定の加藤様、キャンセルしたいそうです──

 調律師にとって当日キャンセルは辛い。予定の穴埋めが効かないのだ。今から調律に行ってもいいですか? などといっても応じてくれるお客さんはまずいない。丸々空白の時間ができてしまうのだ。とはいえ、このまま事務所でボーッとしていても仕方ない。とりあえず適当な訪問先を行動予定表に書き込んで外出した。


      †


 どこへ行こうかと考えた結果、川渡中央駅に行ってみることにした。昨日調律したピアノがどのようになっているか確認してみたいと思ったのだ。


 午前中のラッシュアワーを過ぎた時間帯とあって、駅にはあまり人がいなかった。ピアノを弾く人もいなかったので、僕はためらうことなくピアノに近づき、その前に腰掛けた。パラパラパラと適当に音階やメロディーをなぞってみる。作業前の状態を考えれば、まず上出来と言えるだろう。

 通り過ぎる旅客たちを前に、僕はショパンのノクターンなど奏でてみる。誰も足を止めて聴く者はいない。でもまあ、そのように適度に放っておかれる感じも悪くはない。

 ところが、しばらくすると一人の男がピアノの前で足を止め、僕の弾くノクターンに耳を傾けた。例のホームレスだった。曲が終わるとその人は力強く拍手をしてくれた。

「ピアノ……上手ですね」

「いえ、お恥ずかしい限りです。小さい頃から習っていて、音大に行こうかと思ったこともあったんですが、受験指導の厳しさについていけなくなって……結局やめたんです」

「そうですか、もったいない気もしますが、人の道は百人百様ですね。私も息子にピアノを習わせていたことがありましたが、すぐにやめてしまいました。もし続けていたら、あなたのように弾けたのかもしれない……」

 息子さんいたんですか、ときこうとしてやめた。その人が〝息子〟と口にした時、一瞬顔を曇らせたような気がしたからである。

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