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ピアノのある終着駅  作者: 東空 塔
第一章 羽越喜一(うえつ・きいち)
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ピアノが悲鳴を

「じつは……昨晩、酔っぱらいの女性に絡まれましてね……」

 駅長の紫原健むらさきばるたけしは、調律の依頼に至った経緯を説明するにあたって、このように切り出した。


 駅長の話によれば──終電から降りてきた女性が、改札を出ると千鳥足でピアノに向かっていった。年齢は四十前後、中世の貴婦人を模したような妙ちきりんな格好をしていた。ピアノの前に座るや否やいきなり派手な曲を弾き出したが、感動とは程遠い、やたらと耳障りな演奏だった。

 とその時、〝貴婦人もどき〟は突然「ジャーン‼︎」と鍵盤を乱暴に叩いたかと思うと、立ち上がって駅長室にツカツカとやって来た。

「駅長! 駅長を呼びなさい!」

 貴婦人もどきは駅長室に入るなり怒鳴り散らした。かなり酔っている様子だった。

「私が駅長ですが、……何のご用件でしょうか?」

「ピアノ! あのピアノめちゃくちゃじゃないの! 今日中に調律して!」

「そんな、今日中になんて無理です。せめて明日にならないと……」

「わかった。それじゃ、もし明日直ってなかったら、ネットでこの駅のこと、思い切りこき下ろしてやるわ! そしたら駅長さん、あんたもクビよ、クビ!」

 そして酒臭い息を散々()き散らしながら、貴婦人もどきは出て行った。

 紫原駅長が上司に相談した結果、楽器店に連絡して即日調律してもらえるところを探すことになったのだ、という──


「私にはどこが悪いのか、よくわからないんですけど」といいながら、駅長は僕をピアノのところに案内し、そして駅長室に戻っていった。

 僕はピアノの前に座ってみる。正面に「Wandererヴァンデラー」というすすけた金文字ロゴマークが見える。きいたことのないブランド名だが、ドイツ製だろうか。ポロポロと試弾してみたところ、かなり状態はひどかった。くだんの酔っ払い女性が怒るのも無理のないことだ。

 鍵盤を押したら戻ってこないところが数箇所。鍵盤を離しても音が伸びっぱなしで止まらないところが数箇所。僕たちの用語でスティックと呼ばれる症状だ。早速外装を外そうとするが、イタズラ防止のためか、至る所がむやみやたらネジ止めされている。

(これは面倒だな……)

 僕は無造作に取り付けられたそれらのネジを一つ一つ外していく。そして全てのネジが外れて通常の状態になるまで15分もかかってしまった。さらにそこから外装を外し、スティックを修繕する。グランドピアノは外さなけれならない部品が多い。結局、調律を始めるまでに一時間を要した。

(まあいいか。すぐには会社に帰りたくないし……)


 スティックを直し、どうにか〝音が出、そして止まる〟状態になってからチューニングメーターで基準音Aのピッチを確認する。435ヘルツしかない。国際標準ピッチである440ヘルツよりかなり低い。


 やれやれ……


 僕はチューニングハンマーをチューニングピンに刺して音を合わせようとした。ところが、だいたいのところまでは合ってくるのだが、どうしてもツメのところでピッタリ合ってくれない。なぜか、重山課長の常套句が頭をよぎる。


──ツメが甘いんだよ!──


 全く使われるべき場面は異なるが、この時ばかりは重山課長のいうことが理解できる気がした。どうして、この最後のツメが決まらないのか、その苛立ちで頭がいっぱいになる。

 と、その時だった。


「ピアノが……悲鳴を上げてますよ」


 振り向くと、声の主は先程見かけたホームレス男だった。世捨人のような風貌には似つかわしくない、しおらしい言葉づかいだった。それでも僕はちょっと面倒くさく思いながらこたえた。

「うるさかったらすみません。でも、これは私の仕事ですので……」

 暗にうるさいなら他所へ行けばいいだろう、という半ばシニカルな含みを持たせたつもりだったが、しかしホームレス男は首を左右に振った。

「いえ、大きな音が迷惑だというわけではありません。ただ、あまり乱暴に鍵盤を叩いたらピアノが嫌がるんじゃないかと思いまして……」

 僕はハッとした。たしかに音が合わない苛立ちで僕の打鍵は荒くなっていた。

「そうですかね……」

「何者かの思惑に無理矢理()められようとすれば、誰しも嫌がります。……ピアノも同じことではありませんか?」

「はあ……」

 漠然としてはいるが、その人のいうことには妙に説得力があった。それで僕は〝正しい音〟を追うのをやめ、〝音が留まりたいところ〟を探しながらチューニングハンマーを回した。すると、あるところで安定して伸びやかな音のする部分に当たった。

「これは……!」

 他の弦もその音に合わせてみた。すると、グーンと伸びのある良い音に仕上がった。こんな適切なアドバイスができるとは、いったいこの人は何者なんだろう、と僕は思った。

「あなたは、もしかして音楽関係者ですか?」

 その人は恥ずかしそうにこたえた。

「私には音楽の素養はありません。でも、あなたより年齢を重ねている分、年寄りの考えることはわかります。年寄りというのは、居たいところにずっと居たいと思うものです」

 年寄り、とはこのピアノのことだろうか、と僕は思う。そしてこのホームレス男の視線の先を追ってみると、〝寝そべり、座り込み禁止〟と書かれた看板があった。

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