やるべきことはやった
その後、僕らは警察署に出向いた。そしてこれまで僕らが調べてきたことを話し、ケイスケさんの無実を訴えた。
応対した若い男性の警官は、賛同も反対も表明せずにただ事務的に調書を取っていた。そしてひととおり終わると、堅苦しい笑顔を浮かべていった。
「捜査へのご協力、ありがとうございました」
あまり手応えは感じなかったが、やるべきことはやったという実感はあった。あとは天命を待つしかない。水森さんもどうやら同じ思いのようだ。
警察署を出た時、彼女は「今晩、駅のピアノの前で乾杯しよう」といいだした。僕の弾くピアノを肴に、美味しいワインを飲みたいらしい。
†
その夜、約束の時間より少し前に僕は川渡中央駅にやって来た。夜の帳が下り、工事が止んでいるせいか、昼間のようなセメント臭は息を潜めている。代わりに仕事を終えて帰路につく乗客たちの人いきれが、駅構内に立ち込めていた。
そんな人混みの中から水森さんが現れた。昼間に見たよりも心なしかしっかりメイクしているように見えた。
「ごめんね、大分待たせたかな?」
「いえいえ、僕もさっき来たばかりで……」
水森さんのトートバッグの中には二本のワインボトルが入っていた。そしてどうやって入れたのか、ワイングラスまで持参していた。
「すごい、なんだか本格的ですね」
僕がそういうと、彼女は少し得意げな顔になった。
「私、こういうことにはこだわるの。ワイングラスで飲まないと、ちゃんと味わえないのよ」
「へえ……」
と、その時水森さんがピアノの上にワイングラスを置こうとしたので慌てて止めた。
「あっ、飲み物はピアノの上に置いちゃダメですよ。こぼれると大変なことになりますから……」
「あら、ごめんなさい。でも、大変なことってどういう風になるの?」
水森さんはジャーナリストらしく、色々なことに興味津々だ。
「……ずっと前のことですけど、とある中学校で生徒にジュースをぶちまけられたピアノを修理したことがあって、……弁当箱に輪ゴムを張って弾いたような音がしましたよ」
「ふふふ、何? その喩え話。全然わけわかんない」
「やったことありませんか? ホカ弁食べた後、空の容器に輪ゴムかけてペンペンって指で弾くの……」
「そんなの、やったことない……っていうか、普通しないでしょ!」
水森さんは大笑いしながら、グラスに赤ワインを注いで僕に差し出した。ラベルを見ると、Chateau Court les Mûts 2015と書いてある。フランスワイン? よくわからないけど、ワイン好きの人が良いというのだから、良いものなのだろう。一口啜ってみると、たしかに美味しい気がする。
「……美味しいです」
「ね。この銘柄、生産年で全然味が違うのよ。2015年のはちょっとクセがあるけど、私は好きなの」
僕はふうん、と返事をした。それが素っ気なく感じられたのか、水森さんは「あっそうだ。ピアノで何か弾いてみて」と話を切り替えた。
僕は何を弾こうか迷ったが、ラベルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」がワインに合っている気がしたので、これを弾いた。弾き終わると、しばらく拍手して水森さんがいった。
「これ聴いたことある。何ていう曲?」
「モーリス・ラベルの亡き王女のためのパヴァーヌっていう曲です。少し地味でしたかね」
「ううん、すごく素敵よ……羽越さん、ピアノが好きなのね。好きなことを仕事に出来るって最高じゃない」
「そうなんですけどね……」
僕はケイスケさんに話したのと、ほぼ同じ話をした。そしてドイツ行きの話に伸るか反るか迷ってることも。水森さんはしばらく黙ってワインを飲み干した後、「いいなあ」といった。「私はね、以前新聞記者だったんだけど、上司とぶつかったことが原因で子会社のデイリーキャストに出向になったの。最初の頃は返り咲こうと張り切っていたけど、近頃は諦めモードで現状に甘んじていたわ……」
「そうだったんですか」
僕が相槌を打つと、水森さんは僕の座っているピアノ椅子の隣に座った。
「私、羽越さんにはぜひドイツに行って欲しい。そうしたら、私も何だか勇気をもらって頑張れる気がする」
水森さんの美しく真剣な眼差しに僕はドキッとした。そして、僕は気がついた。自分の気持ちはもう決まっていたんだってことに。もう、迷わない。僕はそう心に誓った。