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ピアノのある終着駅  作者: 東空 塔
第一章 羽越喜一(うえつ・きいち)
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ツメが甘けりゃ煎じて飲め

 まだ建てて間もないその家の玄関をくぐると、フローリングのむせ返るような匂いに襲われた。家の奥には廊下といくつかの部屋が見えたが、その前に立ちはだかるように神谷節子が立って僕を見下ろしていた。そしておもむろに口を開いた。

「すみません、知り合いからピアノを譲ってもらうことになりまして……」

「え……」

 僕は何といってよいかわからず、文字通りの絶句。かばんから出そうとしていた契約書類をつかんだまま離せずにいた。彼女はといえば、二人目を宿しているという腹部をこれ見よがしにさすっている。まるでこれ以上の長話はできません、と訴えているかのように。

「大変申し訳ないんですけど、これから検診に出かけますので、お引き取りいただけませんか?」

「あ、すみません、これで失礼します……」

 僕はきつねにつままれたように愕然(がくぜん)としてその家を出た。新鮮な外気を堪能したのもつかの間、やがて重くるしい挫折感と焦燥感が僕を襲う。


──ツメが甘いんだよ!──


 これから僕を待っているのは、こんな上司の叱責の言葉だ。見上げれば雲一つない青空が広がるというのに、うつむいた僕の目には灰色のアスファルトしか映らない。


 僕の名前は羽越喜一(うえつ きいち)。株式会社川渡楽器という小さな楽器店に、ピアノ調律師として勤めている。こういった小さな楽器店でピアノ調律師に求められるのは、まず第一にピアノの販売だ。技術面での評価など皆無に等しい。僕はもう勤続三年となるが、未だにまともな営業実績がなかった。

 それで上司から音楽教室の入会者名簿を渡されて、片っ端から電話しろと命じられた。そして、何十件も電話した後にようやく神谷さんの見込情報をつかんだ。何度か訪問し、これからいよいよ契約という段になって……破談という最悪の結末となった。

 いつだったか、楽器メーカーの決起集会でピアノ販売台数全国一位に輝いた営業マンのいった言葉が思い出された。


──営業は、断られた時からがスタートです──


 あの営業マンなら、この状況をどう乗り切るのだろう、と想像してみる。しかし、不向きな営業に嫌気がさしている僕に、表彰台で熱く語る気合根性論者の思考などわかるはずもない。


 このまま会社に戻っても小言が待っているだけだ。心の準備をするために、少しカフェでサボろうとする矢先……。


 携帯が鳴った。上司の重山課長からだ。スルーしたかったが、今取らないと、後々もっとややこしいことになる。

「……もしもし」

「おう、羽越か。これから商談か?」

「……ええ」

 少し嘘をついた。でも、今本当のことを話すには心の準備が足りない。

「そうか……ところで羽越、午後の時間空いてたよな」

「ええ、午後はフリーです」

「じゃあ、用事が済んだら川渡中央駅に行ってくれるか。あそこのグランドピアノ、調律して欲しいって依頼が来たんだ。技術で他に行ける奴いなくてな、お前行って来てくれ」

「了解しました」


 川渡中央駅は県庁所在地にあるJR港堤駅から伸びる川渡高速鉄道の終着駅である。同鉄道は県とJRそしていくつかの民間企業の参加からなる港堤県都市開発株式会社という第三セクターの一事業だ。川渡市は県の副都心として開発が進められているが、川渡中央駅はその玄関口ということで、魅力的なものにしようと官民連携で心血を注いでいた。その一貫として、誰でも自由に弾くことのできるグランドピアノがコンコースに設置された。

 はじめは雑誌や新聞で紹介されたことも相まって多くの人がこのピアノを弾きに、また聴きに集まった。しかし、徐々に人々の関心から離れていき、最近では単なるオブジェと化していた。メンテナンスも(おろそ)かになり、調律は狂いっぱなしで出ない音もあるという話も耳にする。


 近未来的な川渡中央駅の改札を出ると、セメントの埃っぽい匂いが立ち込めていた。この辺りはまだ建設中の建物が多く、周囲あちこちで工事を行っていたのだ。そしてしばらく歩いていると、セメントの匂いに混ざって突然すえた匂いが鼻をついた。見ると、どこか寂しげな目つきをしたホームレスの男性がそこに座り込んでいた。僕はまるで何も見ていないかのようにそこを過ぎ去り、そして駅長室の扉を開いた。

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