第五十二ノ契約 魂の子守唄
『駄目だよお兄ちゃん!そんなことしちゃあ!』
唐突に響いたその声に、『神祓い』は不意を突かれたかのように一瞬にして動きを止めた。地震もヒビ割れも粒子も渦も、全てが一時停止したかの如く動きを止め、ゆっくりと彼へと戻っていく。それはまるで逆再生を見ているかのようで、秘色色の粒子が星のように美しく輝くその様は夜空を写す海のようだった。こんな状況でなければ、感動に声を上げていたことであろうが、それよりも大事な事項がある。先程の、無邪気な声は一体誰のものだ?無邪気な声を発しそうな茶々を見れば、「違う!」と首を振るのも忘れて混乱のあまり茫然としていた。哉都はまさかと『神祓い』を振り返った。彼は、瞳から涙を流していた。憎悪にまみれ、光を失った彼とは思えぬほどに透明で美しい涙。その涙は頬を優しく伝い、ポタッと血が滲む片手へと落ちて行った。そうして、茫然と空を見つめる彼の視線の先。そこにいるのは刻と紗夜だけだったが彼の視線はその後ろに向けられていた。なんだと二人が警戒しつつも後方を振り返れば、そこにいたのは透明な姿をした幼い少女だった。鈴花のような漆黒の髪は利発そうに一本に首根っこ辺りにお団子になっており、瞳は透明な体とは裏腹にキラキラと宝石のように輝いている。『神祓い』と対になるようになのか、制服を着ており、背伸びをしているようにも見えて可愛らしい。
気配もなく、突然の出来事に二人がサッと道を作るように少女と『神祓い』から距離を取った。二人がずれたことで少女の姿を認識した茶々も「ぎゃっ」と悲鳴を上げながら国久の背に隠れた。片手の拘束から解放された彼の腕は哉都達を攻撃することもなく、ダランと力なく垂れた。鈴花と紗夜が驚愕と新たな人物に警戒で身を寄せ合う。刻も警戒した様子で哉都のもとへ後ろ足でやってくる。と、哉都は少女の足がないことに気がついた。空中に浮いていて足がない、だなんて考えられる事は一つしかないじゃないか。
「ゆ……幽霊?」
「や、やめてよカナ!そんなことぉ……」
「……でも、話の流れからしてもそうとしか思えないよな?」
幽霊と聞いて「ヒィイイ」と怯え上がる鈴花を紗夜が宥める。そう、話の流れから考えても現れて良いのは『神祓い』の元主。死んでしまったあの子。でも、確証はない。哉都達はその事実も、答えも知らない。けれど、茫然と涙を流しながら空中を浮遊する少女を見る『神祓い』の目と、愛しい眼差しを彼に向ける少女を見れば、一目瞭然だった。
「……い、ず……み……?」
『もぉー!お兄ちゃんったら!そんなことしたら駄目でしょ?』
「なんで……オマ……死んだ……恨まれて……」
『神祓い』のうわごとにも似た問いかけに少女は何処か悲しそうに微笑むと、クルンッと哉都達の方を振り返った。スカートがヒラリと翻る様は『神祓い』のマフラーと無数の腕を暗示させ、少しだけ怖かった。
『お兄ちゃんがごめんなさい。怒らないであげて……って言ってもしょうがないよね』
「……君は、誰?」
『もう、分かってるでしょ?わたしが誰だったか』
にっこりと、「当ててごらん?」と云うような挑戦的な笑みと幼子らしからぬ落ち着き様に哉都達は面食らい、そして理解した。彼女が、彼女こそが『神祓い』が守りたかった契約者だと。刻の言う通り、彼の消滅を防ぎ、繋ぎ留めていたのだと。でも何故、今になって現れた?
「なんで今、此処にいるんだい?」
『なんでって、望まれたから。と言うよりはわたしが望んだから』
「なにを?」
『お兄ちゃんの……時雨の幸せを』
長い睫毛を伏せ、何処か悲しげな表情で少女は言う。幽霊でなければ、今頃は美しく成長していたであろう片鱗がコロコロと少女が動作をする度に落ちてくる。それは絶望に陥り狂った『神祓い』とは恐ろしいほど対称的に見えた。少女はチョコンと『神祓い』の視線の先の空中でしゃがみこむと小さく笑った。
『わたしは、死んだよ。でも、あなたたちもたくさん言ったでしょう?』
たくさん、とは『神祓い』に言ったこと全部だろうか。あれは自分達の……周りの考えを受け入れて欲しかった。与えると押し付けるじゃ、意図も理由も違う。気持ちが全部分からないとは言わないけれど、一人で抱え込む事はなかったんじゃないかと……そう言いたかった。『わたしの神王をなにいじめてるの?』と怒られるのだろうか?そう一瞬でも警戒した哉都達だったが、少女は『だよね』と一言言っただけだった。
『わたしだって最初は死んだ時、怖かったし絶望した。お兄ちゃんと……時雨ともう二度と会えないって。時雨はわたしにとってお兄ちゃんで、神王で、家族だった……あの人の隣は心地よかった。揺りかごの中みたいに安心した。愛してた。だから、時雨があの時、わたしが死んだ時、同じ気持ちで嬉しかったんだよ。嗚呼、わたしたちは一つだったんだって……でも、違った』
少女は彼を振り返り、優しく微笑む。そうして、彼に向かって透明な両手を差し出した。涙の筋を作った頬に手を当てる。透明な両手なのに、温もりを感じられた事に少女は茫然とする彼を前ににっこりと笑う。
『ねぇ時雨。わたし、あなたといれて嬉しかったんだよ。守ってくれて愛してくれて……幸せだった。あなたが絶望に呑まれてしまった時もわたしをこんなにも思ってくれたんだって嬉しかった。嬉しかったけど……けどね、駄目なんだよ。それじゃあ……!』
「……な、んで……」
ピクッと彼の腕が動いた。動いたがそれは『神祓い』の呟きに溶けて消えてしまった。オマエのために、絶望をもう与えたくないからやったのに……なにが、駄目なの?
『あなたがやったことは、あなた自身では正義かもしれない。でもね、それは現実逃避なんだよ。絶望して、世界を恨んだって、巻き込まれた事実を呪ったって戻らないの。わたしは、もう、時雨と一緒にいられないのっ!……ねぇ、前に話してくれた神王・神姫のお話し。誰もが幸せにはなれない現実的すぎるお話し。あれは、わたしたちのことなんだよ……あなたを愛してた、だからわたしはあなたをこの世界に繋ぎ留めた……ねぇ、なんでか分かる?』
無邪気に首を傾げて問いかける少女を見つめる彼。その瞳に徐々に光が戻るのを哉都達は見た。哉都達が言っても届かないと思っていた感情は、物語は、心の扉は、今、ようやっと闇から抜け出すことを決意する。光が戻りつつある瞳から大粒の涙を流しながら、彼は拘束から解放された腕を動かし、首を捕らえていた武器を外すと少女の手に片手を重ねた。いつの間にか、彼を捕らえていた拘束は全て外され、消えていた。そうして、紡がれた言葉は意思を持ち、自信を持っていた。その感情から、抜け出した。
「あ……嗚呼……悪い。オレ、は、オマエを守れなくて……恨まれてると思ってて……だから、だから呪った、憎んだんだ……自分を、世界を……守れなかった自分も……敵も、みんな……絶望で殺してしまえば、オレもみんなも死なずに済むと思って……オレは、なにを……っ」
『大丈夫、大丈夫だよ時雨』
頭を抱え、嗚咽を漏らす彼を少女はギュッと抱き締める。正気に戻ったが故に思い出してしまった自らの行為。感情に埋もれて行ってしまった許されざるべき行為。これは、罪だ。『神祓い』と云う絶望に侵されたが故に望んだ願い。哉都達に敗北して、伸ばしながらも目を逸らした現実を見て、ようやっと思い出した。這い出した。でも、もう遅かった。破棄した縁は直せない。
「……あ、あ……わかってたのに……オレ自身が、一番……なのにっ、それを……相手に押し付けた……オレは……っ!」
『時雨、自分を責めないで。哉都達も言っていたでしょ?時雨の仲間はあなたに気づいていた、だからこそ願いを籠めた。それは絶望であって希望なんだよ……ねぇ、時雨、生きてね』
「……え?」
涙でぐじゃぐじゃになった顔を上げ、彼が問いかければ、少女はにっこりと笑う。哉都達にはなんとなく分かっていた。いや、『神祓い』である彼もであろう。元契約者である少女が現れた理由なんて一つしかないでしょう?彼女の願いは
「……『神祓い』の、幸せ」
『うん、そうだよ。わたしはもう、いらない。時雨の側にわたしはずっといるけど、もういらないんだよ』
「……和泉、どういう……」
彼から少し離れ、少女は彼を見る。眩しそうに、愛おしそうに目を細め、微笑むその姿は少女と云うよりも成長した女性のようで。嗚呼、脳は分かっているのに心は分かってくれない。紅い穴と云う華が咲いた片手を両手で包み込むと、優しく甲を撫でる。
『そのままの意味だよ時雨。わたしはあなたを守りたくて繋ぎ留めていたの。でも、その役目ももう終わり。あなたに、眠れなかったあなたに子守唄は必要ない』
額同士を擦り合わせて少女が言う。その言葉に彼はゆっくりと瞳を閉じた。分かっていながらも分からない振りをしたい事実を噛み砕き、受け入れようとするように。そうしてもう一度開かれた瞳は、眩いほどに美しい秘色色だった。濁ることさえ忘れたかの如く輝きを取り戻していた。
『ねぇ、神王さん神姫さん。時雨はまた契約出来る?うんん、しなくちゃいけない。償いのために』
真剣な二人の眼差しが刻達『神の名を冠する者』達に向けられる。刻達は一瞬顔を見合わせると哉都達を振り返った。彼らが頷く。
「出来ることには出来るだろうけど……」
「問題は、契約印ですよね……」
茶々は左耳の房飾りを、紗夜は右袖を片手に触った。不安そうな二人と同じように刻も少し不安そうに言う。
「強制破棄をしたことによって契約印は消えかけている。縁を示すとも言われる証で、この世界との結び付きであり形あるもの……存在の証で、全ての証。消えかけている以上、彼は召喚の輪にすら帰れない。だって証がないんだから」
『でも、わたしが繋ぎ留めた事によって、その筋書きは大きく変わった。多くの縁を紐解き、結び直した事で時雨の縁は変わった。だから……』
少女が言わんとしていることは容易に想像がついた。罪滅ぼしのために契約を結びたいのだろう。『神祓い』として多くの縁を破壊してきた彼は容易に全てを元には戻せない。繋ぎ留めていた少女と云う拠り所がなくなる以上、必要となるのは新たな居場所、縁だった。国久と鈴花が顔を見合わせる。はっきり言ってしまえば、『神祓い』と契約を結ぶのは怖い。強制破棄をしてきた彼が契約を結んだとしてもまた起こさないとは限らないし、こちらに影響が出るとも限らない。それに、本当に彼は罪滅ぼしを望んでいるのか……?
「……貴方は、どうしたいの?」
紗夜に手を握られながら鈴花が言うと、『神祓い』は秘色色の瞳を哉都達に向けた。その瞳に宿るは新たな決意。
「……オレは、絶望に呑まれて身を委ねた。そうして引き離した縁をオレは正しいとは到底言えない。未来を、運命を奪ったんだからな。なら、何処にも居場所がないオレに、なにが出来る?また、和泉に会うために、全てに許しを得るために出来るのは……やるべきことは罪滅ぼししかないだろ?」
先程までの、狂っていたと言っても良い彼とは大違いだった。考え方も見方も全て。今の彼が、本当の彼なのだろう。先程までの彼は絶望に呑まれ、全てを投げ出し憎んだことで生まれた『もう一人の彼』だ。表裏一体、その言葉に尽きた。例え、償いが終わっても『もう一人の彼』は消えない。先程までの彼がそう言っているように、脳裏にちらついていた。彼の決意に国久と鈴花は再び顔を見合わせた。彼の言いたいこともわかる。けれど、同情で行ってしまっても良いの?いや、同情だけじゃないってことは分かってる。でも、揺らいでしまうんだ。そこで二人はなにも言わず、視線を合わせずにいた哉都のことが心配になり、彼を見た。哉都は左手に薄く刻まれた刻との契約印を撫でると少女と彼の前に歩み寄った。なにを、と驚く少女と彼を抜かした彼らの前で哉都は言う。
「はっきり言えば、俺はお前が怖いよ。強制破棄して狂って絶望して……でもそれ以上に足掻いて……俺にはその苦痛も分かんないし、自分の感性でしか測れない……嗚呼!こういう時ってなに言って良いんだかわかんねぇわ」
「さっきは怒ってたのにね」
「だぁまらっしゃい鈴花」
頭を軽く掻く哉都に鈴花がクスクス笑う。国久もクスクス笑っていた。哉都が言わんとしていることもやろうとしていることも分かる。だから。哉都は仕切り直すように二人に言った。
「さっきは怒鳴って悪かったな。同情だと捉えられるかもしれないけど、それでも良い。お前と契約する、それで十分だろ。罪滅ぼしになるか分かんないけど、お前なら出来るよ。お前には『神の名を冠する者』がいるんだからさ」
ニッと笑って言う哉都に小さく刻も頷いていた。
和泉ちゃん出てきたんで、プロフィール出すとこも多分今後ないと思われるので……なにが言いたいかって言うと、和泉ちゃんのプロフィール出したいんです!えーい!
八雲和泉
『神祓い』である時雨の契約者である少女。彼のことを兄と慕い、愛し守られ守りそうして依存した。が、神王・神姫とモノノケの戦いに巻き込まれ死亡。絶望に狂った時雨が自分のために此処までやることに一瞬の高揚を覚えたが、それで良いはずないと悟った。絶望から希望へ、彼が舞い戻れるよう本来ならば消滅してしまう時雨をなんとか繋ぎ留め守った。




