ホットケーキ 本編(4)
1.『限界』
少し無理をしすぎているかもしれない。若いつもりでいてもこんな時年かなあと思ったりする。寝る時間を惜しんで、休日を全部充てても、やはり時間が足りない。
人生とは不思議な縁の積み重ねだ。あの時あっちの道を選んでいたらどうなっていただろう、と思う事の連続だ。あの時、両親の希望通りに大学に進んでいたら?あの時、あっちの写真事務所に就職していたら?あの時、カメラマンの道を諦めていたら?あの時・・・。あの時・・・。あの時・・・。そしてあの時、あの屋上への一歩を踏み出さなかったら・・・。そしてあの時あのギャラリーの横を通り過ぎなかったら・・・。
自分の想いを伝えようと思った。でも、なす術も無く時が過ぎた。休日の暇つぶしに、カフェが隣接したお気に入りの本屋に行った時のことだった。初春を寿いでから数週間経った都会は穏やかな冬の光に包まれていた。2階のギャラリーに続く扉の前を通りかかると神経質そうな青年が画を抱えて出てきた。一度通り過ぎて本屋へ入る。新書の方へ歩きながら、画を大切そうに抱えていた青年を思い出し、彼がその画家だろうか?と思ったとき、急にそのギャラリーを自分も使えるのかもしれないと閃いた。彼はきびすを返して本屋を出ると、ギャラリーへの階段を一段抜かしに登って行った。
ギャラリーの使用申込書を受け取り、一階のカフェのドアをまたいだ。小さな木のテーブルに封筒を置いた。ギャラリーの名前が入った封筒を見つめて何もかもうまく行くと思えた。彼女のこと以外は。
それまでの足踏みのような日々が嘘のようだった。今、自分に出来ること、それは、とにかくこの個展をやってみること。その準備をすることだった。とにかくギャラリー使用審査用のポートフォリオを作ろう。審査結果が出たらどこに何を置くか丹念に検討して、写真とサイズを決めて、パネルを作って、そうだ、小さなリーフレットを作ってみよう。こんな大掛かりなラブレター、またとない。笑っちゃうぐらいすごい。
勢いに乗って、ポートフォリオをつくり、審査書類を書いた。力強い文字ですべての欄を埋め「使用目的・テーマ・企画」を打った。キーボードが楽器のように一人の部屋に響いた。すべての提出物を揃え終わった時、青い絵の具が薄まっていくような朝方の部屋で、彼は、早起きの烏が一声鳴いたのを聞いた。朝聞くと、それはとても爽やかな声だ、と思った。
それから数週間、彼は寝る間を惜しんで、休日を全部当てて、全力で「ラブレター」を作り上げている。仕事に支障がないように、それだけは気をつけながら、でも、もう体力の限界かもしれない。
人物撮りの撮影で都内のスタジオに半日詰めていた。アシスタントの大沢君と昼食に出たがどうしても食欲が湧かない。どこか具合が悪いのではないかと、心配そうな大沢君に「大丈夫だってば!」と少しぶっきらぼうにと答えたけれど、午後の分の撮影を終えた時、仕事を終えて少しほっとしたせいなのか、少しも大丈夫ではなかった。事務所に戻る予定でいたけれど、どうも戻れそうにない。
「湖山さんはそこに座っててください・・・!」
大沢くんがいつになく強い口調で言って、事務所に電話をかけて事情を説明し、機材、書類の処理などすべてを手早く片付けて車を取りに行く、と出て行った。テーブルの上に乗った紙コップの水を飲み干した湖山は少しだけ休むつもりで、そのままテーブルの上に突っ伏して眠りに落ちていった。
2. 『黒焦げの円盤』
「一体、何をやってたんすか?」
何って・・・
「そこのポジの山、このパネルの束・・・。これのせいなんでしょ?最近なんかオカシイって思ってましたよ。でも楽しそうだったからいいのかなって思った。言いたかないならもう訊きませんけど、体を壊したら元も子もないでしょ?健康管理も仕事のうちですよ?いつもそう言ってるの、湖山さんじゃないですか!」
「うん。分かってる。迷惑かけた。ごめん」
「ごめんじゃないすよ・・・。心配したけど、俺はいいんですよ。どうせ湖山さんが仕事できないなら俺の仕事だって大したことは何もないんだから。ただ、ただ、なんつうか・・・、こんなんなるまで何かやりたい事があったなら、どうして俺に一声かけてくんないのかなって。・・・水臭いじゃないですか・・・」
誰かに協力を求めることなんて考えてもみなかった。どこに自分のラブレターを一緒に書いてくれと頼む奴がいるんだ。言葉を選んでいる湖山がしおらしくみえたのだろうか、強く言い過ぎたと思ったのだろうか、大沢君は黙って俯いていた。
「とにかく・・・。とにかく、今日の予定チェックしたら撮影入ってなかったから休みにしておきました。XX社のROMの事は、もし湖山さんが任せてくれるなら俺がチェックして持って行きます。さっきコンビニでレトルトのお粥買ったのを、台所においておいたから良かったら食ってください。そいじゃ。なんかあったら連絡してください。直ぐに来ますから。仕事中でも、夜中でも、大丈夫ですから。」
玄関のドアが重たい音を立てて閉まった。湖山はベッドに腰掛けてパネルの束が作る谷を眺めていた。朝日が差し込んでパネルに階段のような影を作っていた。
水臭い、か。
年だな・・・。徹夜明けで仕事なんてちょっと前までやってた気がするのに。
ここ数週間不足していた睡眠を15時間分貪ったところだった。目が覚めると、大沢君がいて、たったいまお説教を食らった。ほんとだよな・・・。バテて仕事に穴あけちゃうんなら手を抜いて仕事すんのと同じ(おんなし)だよな・・・。少し空腹を覚えた。お粥があるって言ってたな・・・。ゆっくりと立ち上がって湖山は足元を確かめながらキッチンに向かった。
(お粥・・・お粥・・・)
カウンターの上に白いレトルトパックが置いてあるのが見えた。食器棚から大き目のどんぶりを出す。ハサミをとろうとガス台の方へ回った時、見慣れないものが目に入った。
(こ、これって一体・・・?)
フライパンの上に真っ黒こげの円盤状の物体が乗っている。真っ黒焦げの円盤を呆然と見つめていると、いつ戻って来たのかダイニングの入り口に大沢君が立っていた。
「それ、ホットケーキの、成れの果てです」
「・・・!?ホットケーキ!?」
「うん。湖山さんがホットケーキ、食いたいって言ったから。」
「俺が?」
「そう。」
「いつ・・・!?」
「昨夜」
「ゆうべ・・・」
「夜中に」
「夜中に・・・」
「寝言だったみたいなんです。お腹すいたんだなって思って。コンビニに買いに行ったんだけど、ホットケーキとかパンケーキとかよくわかんないけど、そういうのは売ってなくって・・・。でも、ホットケーキくらいなら作れるかなって思ってホットケーキミックス買ったんです。そんで、作ってみたんだけど・・・。なんか、うまく行かなくて・・・。ホットケーキじゃねぇとだめかなーって部屋覗きに行ったら、湖山さん、ぐっすり寝込んでて何か食う感じじゃなかったから。ま、いっかって・・・。」
「なんだ、それ・・・」
笑った。腹を抱えて笑った。こんな風に腹が痛くなるまで笑ったのっていつ以来だろう?大の男がホットケーキミックスと格闘している姿を想像するだけで可笑しい。焦げるホットケーキにあたふたする大沢君が目に見えるようだった。フライパンに乗ったホットケーキのほかに3枚のホットケーキ(の、成れの果て)が皿に乗っていた。どれも真っ黒で、半分にちぎったあとがある。生焼けでカスタードクリームのような中身を見せていた。
「バカだなぁ、バカだなぁ、お前。そんなこと・・・。俺にやるなら彼女にやってやれよー。お前って・・・ほんとになぁー」
目じりの涙を拭いながら湖山が言った。
「やってあげますよ。いつかね。本番前に練習しただけですよ。」
大沢がほっとしたように笑った。
「で、どうした?」
「パンケーキ、買って来ましたよ。」
白いコンビニのレジ袋をカウンターに乗せた。
「俺、なんか知らないけど、具合が悪い時ってイコールお粥、って思っちゃうんですよ。でも、考えてみたら湖山さん、風邪とかそういうんじゃなさそうだし、お粥とかじゃなねぇかもって思って、コンビニの前通ったら思い出したから。今朝は売ってましたよ、パンケーキ。あと他の色々。買いに行かなくて済むように昼の分とか、おやつとか。夜はまた来ますから。今日は家で寝ててくださいね、ちゃんと。パネルとかそういうのやらないでください。すっかりよくなったら、俺、手伝いますから。二人でやれば一日二日、取り戻せますよ、絶対。だから、ちゃんと休んでください。湖山さん、運がいいっすよ。仕事の神様がついてるんすよ。今日は撮影ないし、明日から三連休だし。」
「普段の行いが良いからだろ?」
「そうっすね。本当にね。じゃ、俺、行きます」
「うん。なぁ、あのさ、ありがとうな。本当に。」
今度こそ大沢くんが出かけて行った。湖山はホットケーキになれなかった円盤を一枚一枚ゴミ袋に入れた。
「もったいねぇな。」
棄てたホットケーキではなかった。大沢くんという人物が自分の傍にいてくれることを心底自分にはもったいない奴だと思ったのだった。
3. 『鍵』
「ごめんなさい、湖山さん、寝てました?」
大沢くんの遠慮がちな声が聞こえる。
「あぁ、いや、うとうとしてただけ」
「そういうの、寝てたっていいます。スイマセン、ちょっとだけ時間ください。
あの、XX社のROMの件、どうします?先方に連絡したら火曜日でも良いっていってました。どうせ三連休だからって。」
「あー、うん・・・。うーん、でも、お前に任せてもいい?向こうさん、三連休だからこそ早めに欲しいと思うから。」
「ハイ、分かりました。じゃあ、今日チェックしてROMを提出したら直帰でそっち寄ります。後でまた電話しますね。」
「ほんと、悪いな。ありがとな。」
さぁ、一回休み。1しか出ない双六のような恋だ。
ベッドの上に起き上がる。つらつらと双六について考える。スタート、デパートの屋上、1が出て進む、事務所、菅生さんを見る、一個進む、1が出て進む、菅生さんを見る、一個進む、1が出て進む、菅生さんいない、1が出て進む・・・菅生さんチームに入る、5つ進む、菅生さんに娘、ふりだしに戻る・・・。
なんか、サイダーが飲みたい・・・。大沢くんが買ってきてくれた袋に何か入ってたっけかなあ?冷蔵庫にビニール袋のまま押し込んだのを出して、がさごそと中身を確認する。
あいつ、かあちゃんかっつうの。
中には、おにぎり、サンドイッチ、プリン、ゼリー、りんごジュース、野菜ジュースなどが入っていた。
あー、サイダー、飲みたい。
沢山寝たら、すっかり良くなった気がする。コンビニまでサイダーを買いに行くか、と財布を持って玄関まで行った所で、鍵が無い事に気付いた。鍵は・・・?大沢くん、持ってッちゃった?
携帯の履歴ボタンを押す。[オオサワ] でも・・・仕事中にかけるほどのことじゃぁない。家を出るな、ってこと、おとなしく寝てろってこと、そういうことだ。クリアボタンを押す。湖山は廊下を戻りリビングのソファーに横たわった。テレビをつけると教育テレビが掛かった。子どもの頃に風邪を引いて休んだ時のことを思い出した。天井の模様を飽きずに眺めていた、熱っぽく、だるい、蒲団の中で。湖山は番組を耳で観ながらまたうとうとと眠りに落ちて行った。
電話が鳴っている。大沢くんだ、出ないと。眠りすぎたんだろうか、かったるい。電話に出ようとしたとき、呼び出しベルが切れてしまった。履歴を確認してみるとやはり大沢くんだった。2度も掛かってきている。気付かずに寝ていたのだ。掛け直そうとした瞬間、またベルが鳴った。
「はい」
声が掠れた。
「よ、よかった・・・!湖山さん、倒れてんのかと、思った・・・!」
「いや、大丈夫。寝てた。ごめん、電話出れなかったんだな。気付かなかったんだ」
「いや、生きてるならそれでいいです。何か欲しいものありますか?今駅です」
「ある。サイダー。サイダーが飲みたい。おまえさ、鍵持ってった?」
「持って出ましたよ。湖山さん、必要ないでしょ?鍵を俺が持ってるって気付いたってことは、出ようとしてたんですね?」
大沢くんの歩調に合わせて、声もバウンドするように小さくなったり大きくなったりしながら聞こえる。
「サイダーが飲みたかったから。」
「サイダーが飲みたくて、買いに出ようとしてたんですか?我慢できなかった?分かりました。直ぐに買って帰りますよ。他にありますか?」
「ない。」
「サイダーだけね?了解です。飯は、うどんかなんか、店屋もんでいいですか?コンビニも飽きるでしょ?」
「うん、うどん、いいな。」
「おっけぃです、じゃ、後で。」
ほんと、かぁちゃんみたい。ソファーの上に体を起こす。つけっぱなしのテレビは手話ニュースをやっていた。
4.『パネル』
大沢くんは何も訊かなかった。パネルをどこで使うのかも、いつ使うのかも。ただ時折冗談をいいながら、いつも湖山の撮影をサポートする時と同じ表情で、何をどうすれば良いのか指示を仰ぎ、時折湖山が何か訊ねればそれに受け答えて意見を言ったりしながら、次々とパネルを完成させていった。こうやって作業をしていると、良いものを作り上げるために必要な事が何なのか改めて考えさせられるような気がした。ラブレターのようなものだと思うこの初めての試みが誰かの手を借りて完成していくように、自分の恋心というものすら本当はどこかで誰かの手を借りて、心を借りて成り立っているのかもしれない、と思う。
「明日また来ますね。これ、鍵」
「明日?休みだろ?」
「パネル、片付けましょ?手伝いますから。」
昨晩、店屋物のうどんを食べた後少しゆっくりニュースなどを見て、帰り際に大沢くんがそう言い出したとき、湖山はやはり「誰かと作り上げる」事に抵抗があった。なんて説明したらいいんだろう、と思っていると、大沢くんが何かを察したように続けた。
「・・・そうか、じゃ、こういうの、どうです?今回俺、すごい役に立ったと思うんですよ。スタジオでふらふらになった湖山さんを車でココまで運んで、甲斐甲斐しくも、まめまめしくですねぇ・・・?」
と半ば強引に脅迫めいて切り出したのを湖山はもう何もかもこうなる事になっていたような気がして「頼むよ」と答えたのだった。それで、良かったと今は思う。
土曜日、パネルは残すところ三分の一まで完了して、大沢くんが作業をしてくれている間ポジの山と格闘した湖山も殆ど納得の行く仕分けを終わった。後は一人でできそうだけれど、大沢は明日も来る、と言い張る。
「とにかくさ、飯、食いに行こ?うまいもん食って、パワーつけようぜ」と笑った湖山はすっかりいつもの湖山だった。良いものを作っている、自分のやるべきことを精一杯やっている、という満足感で一杯だった。
「彼女と結婚しないの?」
いつもならそんなことまで口を出したりするような湖山ではないけれど、何故なのか自然とそんな疑問が口をついて出た。
「・・・けっこん・・・?・・・・うううん」
「あ、ごめん、ごめん、深い意味はない。なんとなく不思議に思って訊いただけなんだけど、彼女と結構長いでしょ?今回思ったけど、お前、いい旦那になれそうなのになって思ってさ」
「いい旦那、ですか?」
「うん。ほら、マメだし、甲斐甲斐しいし」
「うーん・・・なんつーか、それは・・・。」
「んん?」
「なんでしょうね、湖山さんだったからみたいな気がするんです。彼女だったら、どうなんだろ?こんなふうに出来たかなあ?」
「なんでだよ。同じだろ?」
「同じじゃないですよ。湖山さんと彼女は同じじゃないでしょ?」
「や、違うけどさ、そうじゃなくて。なんかこんな事自分で言うの恥ずかしいけど、大沢くんにとって大事な存在っつぅか、そういうことでしょ?そういう人が具合悪くなったり、しんどい時っていうか、そういうときにああやって面倒見てもらえると、なんかほんとありがたいし、・・・大事にしてもらってんなぁって思う。彼女だってきっと同じだろ?彼女のほうは、大沢くんと結婚したいんじゃないの?」
「どうなんでしょうね。こんな事になったことないし、分からないです。でも・・・。」
「うん、でも?」
「うん、やっぱ、分かんない、分かんないな。」
大沢くんが白いご飯を頬張る。店員さんに手を挙げて大きな声で「みそしるー、おかわりくださーい!」と叫んでいる彼は、面倒くさい事は考えない主義、という顔をしていた。
5. 『フライヤー』
菅生さんにフライヤーを渡す時、なんて言おうか考えていた。告白するつもりだから、是非来て欲しい、って言ったら、もう告白しちゃったことになるし。くしゅくしゅと自分の髪を手櫛でまぜっかえす。どうしたいんだろう?彼女と、どうなりたいんだろう?なんどもなんども、同じ事を自分に問う。頭の中で廻り続ける問いはきっと答えなんかなくて、宙ぶらりんのままだ。本当は、もういいのだ。こうやって想い続けてきたこと、それを伝えたいと思ったこと、それをどうやらカタチにして表現できたこと、それだけで案外十分に、少なくとも九分目位は満足していた。でもやっぱりこの写真たちを見てもらって、この写真を撮った経緯を彼女に言葉で伝えるまではこの「作品」が完成しないような、そんな気がした。
実際は意外と簡単だった。フライヤーが出来上がったのをチェックしていると、大沢くんがやってきて横から覗き込み、
「いいですねー」
と満足げに言って、フライヤーの半分を持っていった。事務所で仲間に配った後、クリアケースに大事そうにしまって持ち歩いてくれた。それを仕事先でもさり気なく置いてきてくれる。例の撮影の時もスタッフの皆に爽やかに宣伝してくれた。菅生さんには、自分で渡したいような気がしたけれど、彼女だけに渡す訳には行かないよな、と思ったし、どんな顔していいのか、どんな風に言っていいのか分からないから、それでよかったな、と思った。
自分に少しでも興味があればきっと来てくれるだろうし、義理で来てくれるとしても、それ以上の何を望もうか。来てくれないとしても(それが一番可能性は高いかもしれないが)仕方ない。来てくれなかったんですね、って、あれは、あなたの事を想って撮った写真の個展だったのに、って、いつか言えたらいい。
ところが、撮影の終わりになって、菅生さんがやってきて声を掛けてくれた。多分個人的に話をするのはそれが初めてだった。
「個展、やるんですね。すごい!」
しゃがんで作業していた湖山の後ろから少し屈んで声を掛けた菅生さんは、耳元の後れ毛をかき上げるようにしてフライヤーと湖山を見比べ、少し微笑んでいた。そして、ちょっと照れくさそうに続けた声はあちこちで機材をしまっている物音に消されてしまうのではないかと思うくらい小さな声だったが、確かにその声は「行きますね」と言ったようだった。
「来てください・・・!この個展は僕が君に見て欲しくて…」
湖山が立ち上がってそこまで言った時、彼女はフライヤーを抱きしめるように持って、反対の手で彼を制した。その手は、彼がそれ以上の言葉を言おうとしていることを制しているのに彼を迎え入れている手だった。「分かっています。もう言わなくていい」と、彼女の手がそういっている声が湖山には確かに聞こえたのだった。
「土曜日に行きます。」
彼女は静かに彼に背を向けて仕事に戻って行った。
ひとつに束ねた髪の後頭部に一筋、たわんで浮いている毛が午後の冬の光に光って、まるでそれは天使の羽根がそこに落ちてきて乗っかっているみたいに湖山には見えた。
「ド ヨ ウ ビ ニ イ キ マ ス」
少し離れた窓際に置かれたテーブルを片付けていた大沢くんが手を止めて湖山を見ていた。でも多分湖山は気付かない。湖山が振り向いて作業に戻った時、大沢くんはもう普通に片付け作業に戻っていた。でも、大沢くんの脳天についた「湖山アンテナ」はまだぴぴぴと湖山に向かっていたかもしれない。
6. 『菅生さん』
「教えてくれた人がいて・・・」
「僕があなたを見ている、と?」
「そうです。そう言われてみると、そうなのかもしれないって思っていたんです」
「そう、でしたか・・・」
「あの日、湖山さんの個展のフライヤーを見たとき、思ったとおりの写真を撮る方だなって思いました。まっすぐで、なんていうか、そう、本当に、<まっすぐ>な写真。」
菅生さんはロイヤルコペンハーゲンのカップを持ち上げて、珈琲をを一口、口に運ぶとカップをゆっくりとソーサーに置いた。かちり、と音が鳴った。菅生さんはカップを手で包んだまま、ゆっくりと目を上げて湖山をまっすぐに見つめた。
「もっと見てみたいなと思いました。」
「え?」
「湖山さんの写真です。仕事の写真じゃなくて、湖山さん個人の撮る写真。」
「それは・・・・つまり・・・」
「それは、でも、湖山さんが私に抱いているような気持ちとは違うと思います。その事も、もし、本当に湖山さんが私を見ていてくださって、なんていうか、特別な気持ちを抱いて下さってるなら、ちゃんと言わないと、と思って・・・」
「知っています」
湖山は、それ以上の事を彼女の口から聞きたくなかった。知っている。何もかも知っていて想い続けてきたのだ。湖山はしっかりと彼女の目を見据えた。こうやって彼女を見ると、菅生さんはとても気の強そうな目をしていた。
「2年前、あなたをデパートの屋上で見ました。最初、あなただとは気付かなかった。綺麗な人だな、と思いました。小さな女の子が、あなたとそっくりな笑い方をする少女が屋上の遊具とあなたのところを行ったり来たりしていた。娘さんだなって直ぐに分かりました。その子を見つめるあなたの目や微笑や、その子を抱きしめるあなたの腕や、僕は、なぜなのかすごくあなたに惹かれて、その日からずっとこの二年間想い続けて来たんです。どうしてなのか分からないんだけど、自分でも、本当に分からないんだけど、ずっと。可笑しいでしょう?あなたのこと何も知らないのにね。」
湖山はそこで一息入れた。それは、その先を続けていいかどうか躊躇ったのではなく、自分の気持ちをしっかりと伝える為の一瞬の充電だった。
「あなたが誰のものでも構わないんです。先の事なんて、どうでもいいんです。どうしようもなくあなたに惹かれて、あなたが今ここにいたらと想いながらシャッターを切った写真が今回の個展の写真になりました。その事を伝えたかった。」
伝えられた。これでいい。任務完了。湖山は大きく息を吸って大きく息を吐いた。やっと、微笑むことができた。その微笑につられたように、菅生さんも微笑んだ。
「ありがとう。本当に、ありがとう。そんなこと言ってもらえるなんて私、本当に女冥利に尽きますね。」
そういって菅生さんは笑った。そして急に真面目な顔になって言った。
「きっと、何かがシンクロしたんですね。うまく言えないけど、私にも、湖山さんにも、共鳴しあう何かがあったのでしょう。だから私は、湖山さんの写真に魅力を感じたのかもしれない。それなら、納得できます。」
菅生さんは冷めたコーヒーを一息に飲んだ。カップをソーサーに置いて菅生さんの小さな細い手が、ソーサーの上のスプーンをゆっくりとカップのこちら側に運んだ。
「大事な友人になれるかもしれない人を一人、みすみす逃したくないんです。だから、もし出来るなら…」
7. 『大沢くん』
呼び出しベルが7回か8回鳴ってダメかなと思うと、10回目に大沢くんは出た。
「もしもし?どうしたんですか?」
「うん。」
「湖山さん?」
「うん、あのさ、つきあえよ、ちょっとだけでいいからさ。」
「はいはい。いいっすよ。いま、どこです?」
よく考えてみたら、土曜日だし、久々の休みだったから、彼女と一緒だったんじゃないかという気もした。悪かったかな・・・。でももう呼び出しちゃったし。土曜日の新宿は混みすぎていて好きじゃない。でも、学生時代から慣れているせいなのか、どこかその喧騒が落ち着くような気もする。駅からは少し歩くが程ほどに混んでいて程ほどに空いている飲み屋は小洒落た郷土料理を出す店で以前大沢くんに教えてもらったところだった。気に入っているからよく二人で飲みに行く。
カウンターの端っこで先に一杯飲んでいた。玉砕記念にしこたま飲んでやる気だった。「本番」は終わったのだ。個展は明日、明後日まであるけれどもうやり切ったも同然だった。
「だっ・・・大丈夫っすか?」
大沢くんは走って来てくれたのだ、肩で息をしていた。
「うん。大丈夫」
大沢くんがどすんと小さな座面の高椅子に腰を下ろす。コートをぐるぐる巻いてカウンターの下のものいれに突っ込んで、ビール!と大声で叫んだ。あいよっ!カウンターの中から大きな声が答える。湖山は急に力が抜けて、カウンターの上に突っ伏してみた。カウンターの板が頬に冷たかった。
「湖山さん?大丈夫?何杯目ですか?」
「まだ2杯、3杯目か、な?」
「それじゃ、酔っ払うにはまだ早いんじゃないっすか?」
「うん、まあね。」
大沢くんは何も訊かない。湖山が今は何も言いたくないことを分かっているからだ。個展のこともそうだ。パネルを手伝ったり、フライヤーを配ったりしてくれたけれど、それ以上のことは彼は少しも口にしなかった。不思議な奴。いつも、湖山が欲しいときに手を貸してくれる、けれどけして出すぎたりしない。すごく微妙な距離感で傍にいる。
醤油豆。ジャコ天。ビール。何も言わない湖山。「うまい」とか「湖山さんもどうですか?」とか時折思い出すとテレビで見た薀蓄を小刻みに挟み込んで、今日はふざけた事も言わない。自分の話もしない。黙って、あるいは、心地よいくらいの明るさで、ただ、湖山の隣にいる。
いつになくピッチが早い湖山を時折心配そうに横目で見る。大沢くんはジョッキをぐいっと煽って、「おっし、湖山さん。飲みましょう!今夜は飲みましょう!」と表情と裏腹なことを言うと、店員に両手の人差し指でバッテンを作って見せた。
タクシーを湖山のマンションに乗り付けて、エレベーターを待つ。
「湖山さん、鍵、鍵」
だらしなく大沢くんの肩に腕をかけて、肩が目一杯上がっていた。引きずられるようにエレベーターに乗り込む。
あああ~~~!
すっきりした。
すっきりしたな~~~。
砕けたな~~~。
がっくりしたみたいな気持ち半分すっとした気持ち半分、泣きたいような、笑いたいような気持ちで、湖山は大沢くんの肩にぐっと乗っかった。
「オモイ、オモイ、オモイって!!」
大沢君が湖山を背負いなおすようにしてエレベーターを降りる。鍵を確認しながら、大沢くんは迷わずに湖山の部屋のドアを見つけた。
鍵を開ける。綺麗に片付いた玄関には湖山のサンダルが一足あるだけで他に何も無い。
「おい、おまえ!帰るな!傷心の先輩を一人にして心配じゃないのか?」
鍵を下駄箱の上に乗っけて「ちゃんと戸締りしてくださいよ!?」という大沢くんに、湖山は酔っ払い丸出しの口調で騒ぐ。仕方ないなあ、という顔をして大沢くんが湖山に言い聞かせるように
「寝ちゃったらいいんですよ。明日には元気になりますって。」
と肩を叩いたけれど、湖山は何も言わない。明日、元気になれるかどうかなんてどうでもいいんだ。今、誰かにいて欲しいと思っているだけだ。
「フラレタ」
湖山は俯いたまま白状する。大沢くんは何も言わない。
「菅生さんに」
湖山はそれも白状する。
「うん」
大沢くんが聞こえている、という様に返事をする。湖山は思う。ほら、全部分かってるんだ、と。熱帯魚の水槽のポンプの音が響いている。その音が静かさを教えている。大沢くんは意を決したように湖山の肩をもう一度抱えた。
「さ、行きましょ?寝ましょ?明日は会場、行くんですか?ほら、気をつけて・・・。」
大沢くんが靴を脱いで湖山を寝室に運ぶ。十分に注意して運んでいるのに、湖山はベッドの前に来るとどさりと倒れこんだ。大沢くんも急に力が抜けたようにベッドの上に腰を下ろして、ベッドに寝っ転がった湖山を揺らした。
「湖山さん、湖山さん、布団に入ってくださいよ、ねえ、風邪引きますよ?ねえ、湖山さん?」
湖山のからだの下に引かれた毛布を引っ張った時、大沢くんは湖山が寝息を立てているのを聞いた。
8. 『ホットケーキ』
トイレに行きたくなって、目を覚ました。湖山はベッドの下に丸まっている大沢くんを見つけた。
「おい、そんなトコで寝てたら風邪ひくよ」
あれ?そういや、なんでこいつこんな所で寝てるんだ?リーバイスに包まれた長い足が寒そうにちぢこまっている。コートを着たまま腕組みをして丸まっている。大沢くんを起こさないように、そっと毛布をかけてやる。蒲団のがあったかいかな?蒲団をかけて、今度は毛布をベッドに戻す。忍び足でトイレに向かいながら記憶を紐解く。そうだった。酔っ払った。
トイレから戻ってきてベッドに腰をかけると、なんだか自分だけがベッドの上で寝るのは悪いな、と思う。でも今こいつを起こしたらきっとタクシーでも帰ると言い出すだろうな。それはあまりに忍びないな。俺も床で寝ればいいのか。蒲団も半分こできるし。湖山は丸まっている大沢くんの背中側にコロンと横になって、毛布と蒲団をかけてもう一度眠りに落ちた。
朝方、寒くて目が覚めた。床で寝たからか体のあちこちが痛い。菅生さんを想い続けた二年間を思う。屋上で見た菅生さんの優しそうな笑い方、少しボサボサといってもいいくらいの束ねた髪で事務処理をしている眉をひそめた表情、まとめ髪の首筋がほっそりと色っぽかったワンピースの後姿、そして、湖山を説得した力強い目。不意に、ホットケーキの夢を思い出す。彼女がホットケーキを焼いてこちらに振り向いて微笑む。今、思い出す夢の中の菅生さんの目はやはり力強かった。
「ねぇ、大沢くん、起きてよ。ホットケーキ、食いたい。買いに行こうよ。」
「ううううん・・・・」
「ねえ、ホットケーキだってばよー」
「あぁー・・・はい?ほっとけーき?」
「うん、ホットケーキ。」
「うぐぐぐぐーーーーー」
大沢くんは大きな伸びをひとつして、
「つくりますよ。」
起き上がった。
「ホットケーキを?おまえが?おいおい、勘弁してくれよ。黒焦げのホットケーキならいらないよ。」
「まぁまぁ。とにかく行きましょうか。材料買いに。」
小麦粉、卵、砂糖、牛乳。ハカリが無いとか軽量カップがないとか文句を言いながら大沢くんは材料をボールに混ぜていく。ちょうど暗室で薬品使っているみたいな顔をしている。混ぜ終わったあと、匂いをかいで人差し指をクリーム上の生地に突っ込むと少し舐めたりしている。湖山は黙ってそれを見ていた。本当に作れるらしいよ、こいつは。
フライパンを熱して、濡らした布巾に乗せ、じゅじゅじゅっと音がする。その姿はまるでコックさんのように手馴れていていったい大沢くんに何が起きたのか不思議に思う。
ホットケーキの生地を上手に丸くフライパンの上に落としていく。落とし終わると、まあるくぷっくりしたホットケーキ生地を見張るみたいな顔でじぃっと見つめている。
「なあ」
湖山が声を掛けても大沢くんはフライパンを睨んだままだ。
「なに?」
「いつの間に覚えたの?」
「何が?」
「ホットケーキだよ。ついこの前ここでホットケーキミックスで黒こげのホットケーキを作った奴が、なんでまた小麦粉からホットケーキなんか作れるんだよ?」
「ああ、それは・・・あ、ちょっと待って。ちょっと待ってくださいね。」
大沢くんはフライ返しで慎重にホットケーキをひっくり返すと、やっと湖山の方を見る。
「それはね、あの後調べたんですよ。ホットケーキの作り方。考えてみると、ホットケーキってすっごい簡単そうなイメージなのになんで作れなかったんだろうなって思って。親とかが作ってくれた時、ホットケーキ食いたいって言うと、混ぜて焼けば出てくるみたいな思い出があって、あの時もそんな調子で作れると思ってたのにできなかったから。いっこくらい得意料理があってもいいな、と思ったし」
大沢くんはフライ返しでホットケーキの端っこを少し持ち上げると、覗き込むようにして焼け具合を確認する。もう少しみたいだ。
「案外難しいんだなって分かりました。混ぜて焼いて終わり、なんてそんな簡単な事じゃないんですよね。手順が分かればね、混ぜて焼いて終わり、そうなのかもしれないけど、そうなるには色々あるんですね。だから美味いんですよね、ホットケーキって、きっと。」
大沢くんはもう一度ホットケーキの裏側を覗き込むと今度は白いお皿の上に乗っける。バターを乗っけて得意げに笑う。
「ほら、出来た。」
キツネ色をしたホットケーキの上でバターがとろりと溶けて滑っている。湖山は白い皿を受けとり、カウンターの上で半分に、また半分にちぎって、一口かじりつく。
うまいな。
家族以外の誰かが、自分の為に焼いてくれたホットケーキを、いつか食べることがあるんだろうか、と思う。菅生さんのホットケーキは食べ損ねたけれど、いつか・・・。
失恋したなあ、ちゃんと、失恋した。やっぱり恋だったなあ、と思う。食器棚に寄りかかって湖山を見守っていた大沢くんが身体を起こして湖山に手を伸ばすと、大きな手が湖山の頭を撫でた。
「ね、湖山さん。また、いい出会いがありますよ、きっと。」
そうね、また、次の出会いがある。家族以外の誰かが自分の為に焼いてくれたホットケーキを、いつか食べてやろう。もしかしたら自分が焼いてやってもいい。
大沢くんが二枚目のホットケーキを焼いている。フライパンを睨みつけている。
「美味いよ」
湖山は言う。大沢くんはホットケーキをひっくり返しながらこちらを見ないでにっこりする。
「まあね。」
ひっくり返し終わった後、湖山を見てもう一度笑う。
もったいねえな、と湖山は思う。
『混ぜて焼いて終わりなんて、そんな簡単な訳がない。そうなるには、色々あるんですよね。だから、美味いんですよ、ホットケーキって』
お わ り




