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ホットケーキ 本編(3)


11.『大きな一歩』


顔色が変わったのが自分でも分かった。頭に血が上ったが早いか、体中の血液という血液が全部心臓に集まって彼の心臓をバクバクと動かした。湖山に気付いたスタッフ達が口々に挨拶の声を掛けてくれているのに、彼は声を失っている自分にも気付かないほどだった。


「湖山さん?どうしました?」


「・・・!・・・あぁ、いや。」


荷物をテーブルに放りだして急いでトイレに駆け込んだ。バレたんじゃないか、いま、自分が彼女を見て赤くなったこと、皆が見てたんじゃないか。なんでココに彼女がいるんだ?彼女、だったろうか?似た人?いや、間違える訳ない。間違える訳がない。


男子トイレの個室に入って心臓がおさまるのを待った。「具合が悪かった事にしよう」と、ちょっとずつ落ち着いてくると個室を出た。汗をかいた手を洗って打ち合わせの部屋に戻って行った。



「…という訳なので上山の代理、菅生すごうです。一年半の予定です。宜しくお願いします。菅生さん、こちらがカメラマンの湖山さんと、湖山さんの右腕で大沢さん。」


「宜しくお願いします」

初々しく丁寧に頭を下げる彼女はやっぱり可愛らしかった。


「宜しくお願いしまーす!」「よろしくお願いします」

大沢くんの元気な声にかき消されて聞こえなかったかもしれない。でも、「よろしくおねがいします。」というその一言を心を込めて声にした湖山は、そんなただの挨拶の一言でも彼女に向かって自分の心を伝えたと思えるその満足感で自然と笑みがこぼれてくるのを抑えられなかった。


準備台の前で確認作業をしている立ち姿、引継ぎの打ち合わせをメモしている横顔、果てはカメラを構えている自分の後ろを歩くスニーカーの音。浮き足立った気持ちで始まった撮影は珍しく行程表にズレが生じた出だしだったが、彼はファインダーを覗きながら次第にいつもの自分を取り戻して行った。仕事に集中し始めると何も気にならなくなる。行程表とのズレを見ながらもくもくと、淡々と写真を撮った。大沢くんがいつものようににこやかに冗談を言っている。それでも、湖山が思うレフ板の位置、湖山が思う照明の向き、ほんの少しの違いを湖山が発する何から感じ取るのか、それとも単純にともに過ごしてきた年月から分かる何かだろうか、湖山が仕事に集中し始めた事も察したように彼も熱心に行程表を追いかけていった。


大分遅れたが無事撮影を終えると、親睦会をかねて一緒に行かないかと飲みに誘われた。こんなチャンスを逃す訳にはいかない。どうせ大沢くんと夕飯を食べて帰ろうと思っていたのだ。親睦会というからには彼女だって少しは出るのだろう。屋上で見かけたあの日の彼女、それからはひと月に一度だけほんの数秒やほんの数分を惜しみながら眺めるだけだった一年と数ヶ月を思うと、彼女と同じテーブルを囲むだけでもまたとない十分大きな進歩だった。


薄黄色い電灯の下にテーブルを囲むみんなの好みが様々に並び楽しい。属している組織は違うけれど、あるひとつのものを作り上げるチームとしてこの仲間を大事に思う。かつてこのチームにいた人たちといまこのチームで活躍する人たちの逸話、チームの失敗や成功、年に2度あるかないかのこんな席で必ず誰かが語りだすくだらない伝説。「談笑」という言葉はこんな時間のためにあるんだろうといつも思う。


初めて聞く話の数々に耳を傾け、驚いたり笑ったりする菅生さんを、湖山は新鮮な気持ちで眺めた。さりげなく、さりげなく、できるだけさりげなく菅生さんを観察する。もう慣れたものだ。


教科書を読むようにメニューを眺める表情。

隣の人が見ているドリンクリストを覗き込む時の体の傾き加減。

箸を置く時に手を添える様や、何か訊ねられたときに右手を小さく挙げる仕草。

低くなり高くなる声。笑い方。少し仲が良い人と話すときの口調、他の人と話すときの口調。


何のご褒美だろう。このひと時に惜しみなく与えられた、目の前で動き喋る彼女。どうしようもなく嬉しい。どうしようもなく楽しい。小学生の頃、キャンプファイヤーのフォークダンスで好きな子と手を繋げたときと同じ興奮を覚えた。





12.『小さな川』


ひと月に2度、会えるようになった。同じチームで仕事をするようになった気安さからか、事務所にROMを届けに行った時に交わす短い挨拶にも少しだけだが親しみがこもっているように感じる。


けして華やかではない。むしろ撮影の現場に入るときの彼女は動きやすい格好をしているせいでデスクワークをしている時よりももっと地味に見える。でも湖山は彼女がスタジオのどこにいても彼女を感じることが出来た。真面目に丁寧に仕事をしている彼女の姿が目に入ると、自然と優しい気持ちになって、カメラから、行程表から一瞬だけ目を離してしまうのだった。


そうかと思うと、不意に屋上にいた彼女を思い出したりする。彼女が男性スタッフと話しているときの身長差は仕事場ではないところにいる彼女を急に際立たせて湖山を不穏な気持ちにさせ、彼女は仕事場ではあんな風に笑わないけど、どこかで、そして誰かの前で、あんな風に笑うんだろうかと思うと自然と眉間に皺が寄った。


そんな風にして、ひと月に一度見ていただけでは想像することすらなかった湖山にも嬉しさや楽しさだけではない何かが訪れ始めた。チームに菅生さんを迎えるようになってから間もなくのことだった。


多分、ひと月に一度ちらりと彼女を見る位なら忘れた振りをすることもできた。彼女を一目見る事の嬉しさだけをことさらに思えばそれで良かったのだ。菅生さんは左手の薬指に指輪をしていない。先日の懇親会のときもそれとなく聞き耳を立てていたけれど、彼女の「プライベート」に関する話題には残念ながらならなかった。そして湖山が「もしかしたら」と少し淡い期待を抱いたとしてもそれは致し方ないことだった。


でも同時に胸のどこかで「忘れるな!」という声が聞こえる。それは、自分を守る声なのにどうしても従いたくない。でも聞こえないふりもできない。そうやって綯い交ぜになった想いが吹き零れてしまわぬ前にどうにかしなければいけない、できるだけ早めに。



冬将軍が訪れ始めた頃だったろうか。いや、クリスマスが近かった気がする。湖山はいつもの通り30分前、もしかしたらもう少し前ににスタジオに入った。少しでも長く同じ場所にいたいと思う。なんて健気な自分だろう。でもその日、彼女の姿が見えなかった。打ち合わせの部屋にも、撮影の準備をしているグループにもいない。今日はまだ入っていないのかな、と軽い気持ちでいたが彼女は打ち合わせが始まるギリギリに息せき切って現れて自分の席についたのだった。その様子が明らかに何か私用で突然に遅刻してきたらしいのを見たとき、彼は急に胸にざわざわとしたものを感じた。


菅生さんに何か都合があって遅れて現れたからといって行程に遅れが出そうだった訳ではない。準備が整っていなかった訳でもないし、とくに迷惑している訳ではないのに、なんでこんな些細な事に苛立ちを覚えているのか。それはちょうど細い川の流れの向こう岸に彼女がいて、もう少しで渡れそうなのに渡れない、でも橋や飛び石も無い、そんな苛立ちだった。彼自身がこの一年半に作り上げた「菅生さん」と本物の菅生さんに間に流れる川なのかもしれなかった。


そうか、こうやって何かが食い違いながらこの恋も終わっていくのかもしれない。ほんの一瞬ではあったが、ふとそんなことを思った。湖山はどうしたって渡れない川を前にいつまでも地団太を踏んでいるような男ではないし、そこでロマンチックに佇み続けるほどほど若くもなかった。


それなのになぜ、その一言を聞いたとき、彼はそんなにも傷ついたのだろう。心のどこかで覚悟していた事、きっとそうだ、と思い続けてきたことが現実だと分かった瞬間。



「・・・ちゃん、大丈夫ですか?」


菅生さんに話しかけた声が聞こえた。小さい声だったけれど、確かに菅生さんが受け答えをしていた。振り向きたかったけれど、振り向けなかった。彼はその時スタジオへ向かう廊下以外、何も目に入らなかった。違う、廊下すらも目に入っていなかったかもしれない。


やっぱり・・・

やっぱりそうだったんだ・・・


あの日、屋上で彼女の愛情を一身に受けいていた少女。彼女によく似た笑い方。彼女によく似た黒く真っ直ぐな髪。幼い手で菅生さんの頬を挟んでいた少女。


こんな時は、仕事をするに限る。湖山はいつになく険しい表情を浮かべて行程表を睨んだ。それはもちろん苛立ちではなく、悲しみでもない。ただ、しくしくと痛む彼の心臓が、縮こまって絞られるように痛む彼の胃が、胸の中で彼の体の中で暴れている何かが、湖山が仕事に集中しようとすればするほど、彼を苛むからだった。仕事をしながらこんなに集中できなかった事はなかったのではないか、と思う。シャッターを切る一瞬に集中する、そのシャッターと次のシャッターまでの、ほんの小さな隙間を縫って、彼を集中力の鎖からプツリプツリと解いていくものがその日ずっと彼を苛んでいた。



「湖山さん、焼き肉、食いたいですね」


と、大沢くんが言った。機材をしまう手が休まる事無く動いている。


「焼肉か。いいな。そうしよう。」

一人になりたいような、なりたくないような複雑な想いを抱えた湖山の気持ちを大沢くんは察しているのだろうか。時折手を止めてスタッフに挨拶を返す大沢くんの手元を見ていた。つい、溜息が漏れた。







13.『芯』


大沢君はいつもと変わらず白いご飯を美味しそうに食べていた。友人達の近況の中に思う色々なこと、長いこと付き合っているのに踏ん切りがつかない彼女とのこと、最近大きな検査を受けた父親の話や実家の話。そうやって普段と変わらない大沢君の様子に、湖山の張りつめたものも少しずつ緩み、焼肉屋を出るときにはやっと湖山も笑顔を見せた。

多分大沢君は分かっているのだ。菅生さんが視界に入るたびに湖山の集中の弓が緩む事も、ROMを届けに行く日にいつもどこか浮き足立っている事も。もしかしたら、その事で一つ前の恋が終わってしまった事すら。いつからか湖山の胸の中にほぐれない糸があり続けて、解こうとしたらまた結ばってしまうみたいな、そんなおかしな恋を一年半も続けているその事を。



焼肉を食べて最終に近い電車で帰った湖山は、水槽にぱらぱらと餌を振って、またぼんやりと水槽を眺めていた。息せき切って席に着く菅生さんの姿が目にちらつく。水槽の中を熱帯魚が何か自分の気持ちの振れ具合と共鳴するように行ったり来たりしていた。湖山は何十分でもそうしていた。青い水槽を見つめながら彼は不意に写真のことを思い出した。この一年間撮り続けてきた休日の写真がいい加減溜まっていたのを整理してみようと思っていたのだ。いまがその時だと思った。写真を整理しながら、うまくすれば自分のこの気持ちにも整理がつくかもしれない。



青葉の美しいトンネル、まぶしい光の中に戯れる子ども達、宇宙船の忘れ物のような遊具、一年の内ほんの一ヶ月だけ異次元になるような真夏の海、そしてそのポケットが閉じた後の砂浜、燃える紅葉が囁いている冬の訪れ、寺社の白壁が続く道、冬の中に閉じ込められてしまった光のページェント、極楽の入り口のような梅林・・・。


どうして、彼女に惹かれたんだろう。

どうして、こんな風に想い続けることができたのだろう。

彼女に抱き続けてきた幻想を一枚、一枚と剥いでいったら、一体何が残るのだろう。



それを見てみたい、と思った。何が残るのか、見てやろうじゃないか。あの日に始まった自分の恋は「幻」に対する恋だったかもしれない。自分が作り上げた菅生さんという幻に対する恋。でも、この恋心は、幻ではない。幻に抱き続けたホンモノの恋心だ。一枚一枚剥いだ先に僕は何を思うんだろうか?青いトンネルの向こうに見えるもの、遊具に戯れる自分の想い、波間に浮かぶ何か、砂浜に埋められたもの、訪れる足音、その道の先に閉じ込められたもの。そして始まるもの。


この写真を見てもらいたい。彼女に。そして伝えよう。君の幻に恋してきたのだ、と。君の手で、この幻を一枚一枚剥いでいって欲しいのだと。幻を剥いで行った後に残る本物の君の芽を、僕は慈しむことができるのだろうか、それを知りたいのだと。



ひたひたと、彼の素足が床を鳴らす。静かな夜更け。たった一人でいることに慣れ過ぎてしまった。湖山はグラスに一杯の水を飲んだ。




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