魔王の要求
「すまん!櫻井」
あの日の翌日、俺は櫻井に会うなり両手を合わせつつ、深く頭を下げて謝罪をした。
「…え?なに?」
あまりにも唐突な平謝りに当然のごとく櫻井も困惑していた。
「実はだな…」
俺は櫻井に昨日のことのあらましを話した。
先輩たちのバンドのベースが突然次のライブに出られなくなったらしく、その代役を探していたこと。
俺は初心者ということもあり、その代役が務まる自信がなかったことと、自分のバンドを差し置いて代役を務めることに抵抗があり、初めのうちは頑なに断っていたこと。
そしてなんやかんやで手伝うはめになってしまったこと。
だいたいそんな感じのことを櫻井に説明した。
「で、加藤はそれで了承したってわけか?」
「女の子の涙を拭き取ることが俺の使命だからな」
櫻井とは長年の付き合いだから、とりあえずこう言っておけば呆れながら納得してくれることはわかっていた。
「それにさ、言い訳に聞こえるかもしれないけど、先輩達に直接教わる機会が出来るのはいいことだと思うんだよね。ほら、なにすればいいか分からない俺たちだけじゃ、昨日みたいにまともな練習にすらならないだろ?」
「…それもそうだな」
「俺たちのバンドも疎かにはしないし…だから許してくれ」
そう言って俺は櫻井に頭を下げた。
「…まぁ、いいか。そこまで言うなら断る理由もないし…。谷口にもちゃんと話しておけよ」
「さすが櫻井、お前なら分かってくれると思ったぜ」
櫻井の了承をとった俺はその足で谷口の元へと向かった。
谷口とはクラスが違うため、俺は教室の入り口から谷口を探した。
するとそこには窓際の席で一人で何をするでもなく窓の外を眺めていた谷口の姿があった。
なんとなく少しの間そこから谷口の姿を見ていたが、谷口は窓辺の自分の席から全く動く気配も、誰かに話しかける気配もなく、ただただ外の景観を眺めているだけだった。
…もしかして、友達いねえのかな。
そんな谷口の様子から俺の頭にそんなことがよぎった。
あんまり観察するのもどうかと思い、俺は教室に入って谷口の元まで歩き、声をかけた。
「よう、谷口、ちょっといいか?」
俺の言葉が耳に入った谷口はゆっくりと窓から目を離し、黙ったまま俺へと視線を移した。
「実は先輩達に誘われて6月まで先輩達のバンドと掛け持ちすることになっちゃったんだけど…いいか?」
「…わかった」
俺のそんな言葉に谷口はなにを聞くでもなく、ただ一言そう返事した。
「じゃあ、そういうことだからよろしくな。あ、それとバンド名決めたいんだけど…なんか適当に考えといてくれよな。それじゃ、また後でな」
もうすぐ始業の時間となることもあって、俺はそれだけ言い残して谷口の元を去った。
谷口…物静かな奴だな、無表情なところも櫻井と似てるわ。
でも…なんか櫻井とは根本的に違う気はするんだけど…まぁ、別にいいか。まだ決めつけるには早いだろ。
谷口に関してはまだその程度のことしか認識していなかった。
そして時は流れて昼休み…俺は先輩達に昨日の音楽準備室へと呼び出されていた。
「こんちゃーす!!これから女の子にモテまくる加藤でーす!!」
エンターテイナーとして当然の名乗りで部屋へと入った俺を相沢先輩が出迎えた。
「よう、来たな…ラストチルドレン」
そう言って相沢先輩は俺に分厚い紙を手渡した。
「…これは?」
「俺たちがライブでやる曲の楽譜とお前のTAB譜だ。明日合わせるから、弾けるようにしとけ」
「…へ?明日?」
あまりにも唐突で無茶な要求をあまりにも平然としてきたので、俺は一瞬先輩の言葉を理解できなかった。
「おい、相沢、加藤君は初心者なんだぞ!?。そんなの出来るわけないだろ!?」
流石に初心者の俺にやらせるには無茶と分かってくれたのか、黒枝先輩がそう言って相沢先輩を咎めた。
しかし、そんな黒枝先輩の言葉に怯むことなく、相沢先輩は堂々と答えた。
「俺のバンドに入った以上、初心者も経験者も関係ねえ。ベースはバンドの土台だ。この良し悪しで演奏の全てが左右される、初心者だろうが何だろうが、一切妥協はしない。ここで妥協したら真島を辞めさせた意味がないだろ」
「そりゃあ演奏を妥協出来ないお前の立場もわかる。だからってこんな無茶な要求ばかりしてたら真島の二の舞になるぞ!?」
「妥協するくらいなら、こいつなんていらねえよ。いいか?明日までに出来るようになって来い」
相沢先輩は俺にそれだけ言い残して部屋から出て行ってしまった。
取り残された黒枝先輩はバツの悪そうな顔をして頭を抱えていた。
「ごめん、加藤君。あいつ無茶言う奴でさ…」
「な、なんか大変そうっすね…」
ここで引いてしまうリアクションを見せてしまっては黒枝先輩の気を悪くしてしまうと考えた俺は笑顔を取り繕ってそう口にした。
「とりあえず…今日の放課後空いてないかな?加藤君。明日までにこれを弾くのは無理だろうけど、教えられるだけ教えておきたいんだ」
「だ、大丈夫っすよ!。俺、放課後遊ぶような女の子もいないですし、時間ありますから!」
「うん、なんか色々ごめんね…じゃあ、放課後にまたここに来てくれない?」
「了解っす!」
場の空気を悪くしないために、平気そうな顔してそう言ってみせたが…あの様子を見るに、相沢先輩は俺にマジで明日までに演奏できるように要求してきた。
そんな応えられるわけがない要求を前に、正直俺は不安だった。
昼休みの終わり頃、そんな不安を抱えながら教室に戻ると、櫻井が話しかけてきた。
「おう、おつかれ、加藤。難しい顔してどうした?」
「いや、まぁ…ちょっと初心者にこれはなぁ…」
そう言って俺は櫻井に渡された楽譜を見せた。
「これはなんだ?暗号文か?」
「どうやらこれは世間ではガクフと呼ばれているものらしい」
「ほう、これがガクフなるものか…」
そういって訝しめに楽譜を見つめるその姿はとてもじゃないが軽音楽部に所属している人間のものではなかった。
「よく分からないが難しいそうということだけはわかった」
「俺もよく分からないが難しいということだけはわかった」
「大丈夫なのか?それは」
「正直かなりきつい。でも引き受けたからにはやるつもりだ」
流石に明日までに演奏するのは無理だろうが、それでも足を引っ張らないためにもやれるだけやるつもりでいた。
「さすがは献身的なピエロだ」
そんな俺に櫻井は冗談っぽくそんな言葉を突きつけてきた。
そしてその日の放課後、俺が音楽準備室を訪れると、そこにはすでに黒枝先輩と西田先輩が待機していた。
「お待たせしました!あなたの救世主、加藤が只今参りました!!」
胸に抱えた不安を不穏な空気ごと吹き飛ばすように、俺はテンション高めで部屋の中へ入っていった。
「お疲れ様、加藤君」
黒枝先輩はにこやかにそう挨拶をしてきた。
「また相沢が無理難題要求してきたんだって?。ごめんね、ほんとアイツ他人の気持ちがわかんない奴だからさ」
「いや、大丈夫っす!。皆さんの足を引っ張るわけにもいかないっすから!」
俺はそう言って早速持ってきたベースを取り出して練習の準備をした。
「さっそく練習しましょう!」
「やる気満々じゃん!加藤君!」
気合の入った俺の態度に西田先輩はどこか安心したような顔をしてそう言ってきた。
そしてベースを構えた俺に黒枝先輩がこんなことを言ってきた。
「じゃあとりあえずチューニングして、それから弾いてみようか」
そんな黒枝先輩に俺は一つ、こんな疑問をぶつけた。
「すいません、チューニングって何すか?」
その言葉を耳にした黒枝先輩と西田先輩の絶望に満ちた表情で固まってしまった姿はずいぶん印象的だったとさ。