何事も笑えなければ価値はない
何事も笑えなければ意味がない。
薄々感づいていたことだが、思っていたよりも他人は自分に興味がないようで、もしも自分に関心を向けてほしいと思うのならば、他人に対して価値のある、実りのあるものを差し出さなければならない。
例えばそれはためになったり、役に立つようなことだったり、あるいは心に刺さるような感動的なものであったり…。
だけど、あっと驚くような知識を与えられるほど博識でもなく、期待を超えられるような働きができるほど器用でもないし、ましてや誰かの心を動かせるほど感動的な言葉を表現できるわけもなく…これといって芸のない俺がそんな高尚なものをおいそれと差し出さるわけもなくて…。
他人にとって有益な働きができない俺に、たぶん価値はない。
だけど、そんな無能な俺にもたったひとつだけ、人の与えられるものがある。
たった一つだけ、俺という存在に価値を与えてくれる道がある。
それは…
「第二ボタンってそんなにほしいものなのかな?」
中学最後の行事である卒業式を終え、中学を卒業した俺は特に教室に残る理由もなくなったので、帰るためにトボトボと下駄箱へと向かっている途中、俺は隣を歩いていた友人の櫻井にそんな話題を振ってみた。
「現実で第二ボタンをねだったりするやつなんていないだろ」
櫻井は呆れ交じりにそんな言葉を返してきた。
「いないのか…。一応、予備のボタンを何個か持って来たんだけどなぁ…」
「無駄に準備がいいな、加藤」
「実費で8個もボタン買ったのになぁ…」
「8個は自惚れすぎだろ」
「仕方ねえだろ。第二ボタンをいつ貰われてもいいように、3年前から予備のボタンを買ってたんだからさ」
「中学の入学前から狸の皮算用してたのか?加藤」
「ああ。数学は苦手だったけど、昔から皮算用だけは上手くてな…」
「悲しい才能だな」
櫻井はそう言ってひそやかに笑みをこぼした。
そう、これこそ俺に残された唯一の生きる道…笑いだ。
たとえ役に立つ知識や、心に突き刺さるような感動を与えることはできずとも、人を笑わせるくらいなら俺でもなんとかできる。
そう、笑いだけが俺に残された唯一の生きる道。
人に実りあるものを与えられなければ…人を笑わせなければ…俺に価値はない。
だから…何事も面白くなければ意味がない。
笑えなければ意味がない。
そのことに気が付いた時から俺は、笑いのために身を削る覚悟を決めた。
この第二ボタンだってそうだ。
なにも俺だって本気で第二ボタンを8個も必要なるハーレム状態になるだなんて思っていない…そうなればいいとは思うけど…。
ただ、今日という卒業式にこの大量の第二ボタンの在庫余りというネタを披露するために俺は3年前から…つまりは中学の入学当初から必要になるはずもないボタンを実費で8個も購入しておいたのだ。
そう、この一瞬の笑いのために、俺は準備を惜しまないのだ。
なぜならば、これだけが俺の生きる道だからだ。
…しかし、これだけ入念に準備してきたのにいまいち反応が悪いな。
まあ、相手が櫻井じゃ仕方がないか…。
こいつとは親が友人同士で家も近くて同級生ということもあって昔からの腐れ縁だが…こいつは普段から表情も硬くてリアクションも薄いから笑わせがいはないんだよなぁ…。
しかし…入念に準備を重ねてきたこの第二ボタンネタはもう披露してしまったし…一度披露してしまったのに他のやつにもう一度披露してまで笑いを取ろうとするのは作為的なものがあっていやらしい気がする。
名残惜しいが、このネタはここまででおしまいだ。
…しかし、やはり入念に準備を進めてきたことだけあって名残惜しい……よし、決めた、高校の卒業式でも同じネタをやろう。
そんな風に俺がひそかに一瞬の輝きのために3年後を見据えていると、俺達は中学最後になるであろう下駄箱へとたどり着いた。
…中学最後だっていうのに、このままじゃなんの面白みもないよなぁ。
長年慣れ浸しんだ母校との別れを前に、俺には感動とか後悔とか、不思議と別れを惜しむような気持ちはなかった。
だけど、このまま終わってしまうのは…なんだかつまらない。
なにも面白みもなく終わってしまう。
…笑えなければ、価値はないのに。
「神様、どうか最後に私に女子からのラブレターという施しを…」
俺はせめてなにか最後の最後に面白いことが起きないかと期待して、わざとらしくそんな言葉を口にしてフラグを立ててみた。
ここでなんか入っていれば…せめて落ち葉の一枚でも入っていれば笑いは取れる…。
そんな打算を企てながらも下駄箱を開けてはみたものの、そこにはラブレターはおろか、靴以外にはごみの一つも入っていなかった。
「はぁ…悲しいなぁ。…こんなことなら自分でラブレター書いて自分で下駄箱に入れとくんだった…」
…そしたら笑いくらいは取れただろうにな。
ため息交じりにそんな言葉を口にした俺に櫻井が声をかけてきた。
「それ、もらって嬉しいのか?加藤」
そんな櫻井の質問に俺はさも当然のようにこう返した。
「無いよりはマシだろ」
笑えないよりは、全然マシだ。
せめて最後にもうひと笑い取りてえなぁ。
物足りない幕引きに俺がそんなことを考えていると、櫻井がそれを察したかのようにこんなことを提案してきた。
「加藤、もう少し学校の中を見て回らないか?。最後なんだし、ちょっと思い出巡りくらいしようぜ」
普段は不愛想で主体性のない櫻井にしては珍しい提案だった。
「なんだよ?櫻井にしては珍しい提案だな?」
「もしかしたら、お前に第二ボタンもらい損ねた女子がまだ残ってるかもしれないだろ?」
「それもそうだな、俺を待ってくれてる女の子のためならやるしかないな」
まぁ、別にこれは本心からそう思っているわけではないが…もしかしたらなにか面白いことが残っているかもしれないから。
こうして、俺たちの卒業式はロスタイムに突入することとなった。
学校の中を見て回ることにした俺たちは、まず体育館を訪れた。
俺たちはこれでも中学の3年間は卓球部に所属していたため、ここは思い出深い場所の一つだ。
部活に入るのが当たり前みたいな風潮に流され、楽そうだからという理由で選んだ部活で、めんどくさくて何度も練習をさぼったりもしたけど、3年間も練習していたここなら、なにか面白いものがあるかもしれない。
そう期待した俺たちが体育館の扉を開けると、卒業式の片付けをする大人達に混じって、隅の方で制服姿のまま卓球に勤しむ2人の姿が見えた。
1人は卓球部の部長だった倉本、もう1人は副部長の本田だった。
この二人は仲の良い友達というわけではなかったが、卓球の実力が拮抗しており、よく試合をしていた。良く言えばライバル、悪く言えば犬猿の仲。そんな二人が試合をしていたのだ。
「なるほど、卒業を機に決着をつけてるわけだ」
そんなことを俺は口にして二人の最後の決闘の高みの見物を決めることにした。
いつも歪み合いながらも互いに切磋琢磨していった因縁の二人の戦い。
実力が拮抗した面白い戦いになる…かと思いきや、意外にも試合は3対0で副部長の本田があっさりストレート勝ちした。
「俺の勝ちだな。俺が勝ったところお前らも見てたよな?」
試合に勝った本田が嬉しそうに俺たちにそう聞いて来た。
「因縁の最後の戦いが呆気ないな、もうちょっと粘れよな、部長」
期待外れのつまらない試合結果に俺は思わずそんな言葉を口にした。
「負けたもんは仕方ねえよ。この借りは高校で返すさ」
「返せるといいな」
そう言ってガッチリ握手をした二人、俺はそんなまじめな空気を前になんだか気恥ずかしくなり、なんとか笑いで茶化せないかと打算しながら見ていた。
だって、こんなお熱い友情も、笑えなきゃ価値がないし…。
「ところで、お前らは高校行っても卓球を続けるのか?」
「俺はパスだな。さすがに飽きたし」
部長の倉本の質問に、俺は素っ気なくそう返事をした。
「櫻井、お前はどうすんだ?」
何かを期待するような目をしながら、本田は櫻井に聞いて来た。
「僕は…」。
本田の期待を込めた視線に櫻井は目を伏せた。
「加藤と違って櫻井は3年間も真面目にやって来たんだ。ここで辞めちゃうのももったいないだろ」
倉本の言う通り、俺とは違って、櫻井は真面目にやって来た。
卓球に人生かけて全力で取り組んでいたというわけではないが、櫻井は練習を休んだり、サボったりしなかった。
技術もそれなりに身についたし、そのおかげで大会でも櫻井は団体戦のレギュラーとして活躍していた。
誇れるような結果は残せていないが、それでもこれからも練習を続ければもっと上手くなるだろう。
だから…俺は櫻井は高校に行っても卓球を続けるのかと思っていた。
「僕はやめとくよ」
だから、櫻井のその言葉は俺にとって意外な答えだった。
そっか…櫻井も卓球辞めるのか…。
そんなことをしみじみと感じた後、ふと、目の前に置かれた卓球台に目がいった。
…次に卓球なんかやるのは、いつになるだろうな?。
なんとなく、そんなことが頭によぎった。
倉本と本田と別れ、体育館を後にした俺たちは学校の色んなところを見て回ろうと歩いていたのだが…大体どこの教室も、普段部活動で使っていた部員達が占領していたため、中に入りにくかった。
「お、美術室なら誰もいないぜ」
校舎の隅の方にあるひっそりと寂れた美術室は静かだった。
授業でたまに使用するくらいなので、あまりここに来ることはなかったが、いざこうやって来てみるとなんとも考え深いものがある。
人がいなくなり、静かに佇むその様はまるで役目を終えた遺物のように思えた。
「ここで絵とか描いたんだっけ?あんまり覚えてないな」
「俺もあんまり覚えてないな。ここで櫻井とよく授業中にこっそり五目並べしてたのは覚えてるけど」
「そういえばそんなことしてたな」
ここにきて真っ先に脳裏をよぎったのは、授業中、暇だったので紙に描いたマスに五目並べをしていて櫻井と遊んでたことだった。
うーん…もっと面白いエピソードはないものか…。
俺がそんなことを模索していると、櫻井が話しかけてきた。
「そう言えば、うちの学校って1年前くらいに部員不足で美術部ってなくなったんだよな」
「そりゃあ部員は減るばかりで増えることはそうそう無いからな。他にも何個か部活無くなってるだろ」
俺たちがそんなたわいの無い話をしていると、後ろから声をかけられた。
「あら?珍しいわね。加藤君と櫻井君がここに来るなんて…」
話しかけて来たのは美術の朝倉先生だった。
教師歴15年のベテランで、この学校には12年前からずっと勤めていたそうだ。
…ただ、俺たちとは接点が僅かな授業だけしかなく、正直あまり話したこともなかったのでどんな先生かはよく分かっていなかった。
「いくら最後だからって、こんなところに来るほど思い入れがあったかしら?」
少し意地悪な自傷が混じりつつも、朝倉先生は気さくに話しかけてくれた。
「も、もちろんですとも!ここで朝倉先生に教わったことはこの胸にいつまでも刻まれてますから!」
こちらとてエンターテイナーを自称していることもあって、俺は相手をがっかりさせないためにもそうはっきりと答えた。
「いや、ここに来て加藤が真っ先に思い出したことって僕と五目並べやったことだろ?」
「櫻井、それ言っちゃあかんやつや」
しかし、櫻井は俺のそんな気遣いを台無しにするようなひとことを放った。
だが、そんなぶっちゃけトークは先生を傷つけることなく、先生はクスリと笑ってくれた。
む?意外にも笑いをとれたか…さすがは櫻井だ、いいアシストを決めるぜ。櫻井は笑わせがいはないやつだが、こういうアシストは抜かりのないやつだからな。
俺がそんなことを考えていると、朝倉先生は俺たちにこんなことを話し始めた。
「いいのよ。どんな形であれ、あなた達に何かを残せたのなら、それより嬉しいことはないわ」
そんな朝倉先生の言葉にどこか気恥ずかしさを感じた俺は別れを前にしんみりとした空気を茶化すかのようにこんな言葉を口にした。
「どんな形でもって…五目並べした思い出でもですか?」
「それでも、この美術室は思い出として残っていくから…」
俺のそんな期待とは裏腹に朝倉先生は優しい口調でそう言ってどこか遠くを見つめた。
12年間通い詰めた学校との別れは、たった三年間しか通っていない俺たちの母校との別れとは比べ物にならないものなのだろう。
朝倉先生のその言葉は確かに胸に響くものがあった。
だけど…そんな言葉も、面白くなければ価値はない。
別れを目前にしたしんみりとした空気の中で俺がひとり冷めた目でそんなことを考えていると、朝倉先生がこんなことを言ってきた。
「そうだ。せっかくだから彫っていかない?」
朝倉先生の唐突な提案に、俺たちは首を傾げた。
そんな俺たちを差し置いて、朝倉先生はどこからか彫刻刀を取り出した。
「卒業記念に彫刻刀で机を好きに彫っていいわよ」
「…え?いいんですか?」
「いいわよ。どうせ、もう誰も使わないんだし…」
朝倉先生は寂しそうにそうつぶやき、俺たちに彫刻刀を渡してきた。
普段ならやったら怒られそうなことを先生に勧められる…卒業ならではの特別なイベントを目の前にして、俺の心は…歓喜で震えていた。
これは…笑いをとる大チャンスだ。
言わばこれはある種の大喜利…『卒業式にどんなものを刻みましたか』というお題の下で繰り広げられる大喜利…。
ここで笑いをとれないようじゃ、自称エンターテイナーの名が廃る!!。
今こそ、俺のセンスの見せ所だ!!。
しかし、いざ何かを彫るとなると困ったものだ。
何を掘ってもいいという自由度の高いお題であるが故に方向性を絞るのが難しいのだ。
いや、だいたいの方向性は見当がつく。
ここで求められるのは『お前、卒業式にそれはないだろ!?』というお題との絶妙なギャップ差!!。
普通ならここで『お前らのこと忘れないぜ!!』とか、『別れてもズッ友だよ』とかそんなお寒い言葉で締めくくるだろう。
だが俺は違う。
エンターテイナーとして求められるのは笑いだけ、それ以外の別れを惜しむような余計な感情は捨てて、ただひたすらに笑いを追求するのがエンターテイナーだ!!。
俺に残された道はただひとつ、笑いだけ。
なぜならば…笑えなければ俺に価値はないからだ!!。
穏やかに最後の時を迎える美術室の光景とは裏腹に、俺の心は激しく燃えていた。
しかし、いざ彫刻刀を手に机を前にしても、これといって有用な案は思い浮かばない。
例えばここでとてつもなく精巧にできた芸術作品を作れたならば、『お前、卒業式になんてもん作ってんだよ!?』という絶妙なギャップが笑いを誘ってくれるだろう。
だがしかし、当然ながら芸のない俺にそんな荒業ができるはずもない。
だったらここは逆に思いっきり下手でもいいから卒業式とはなんの関係もないものを掘ってみるか?例えば…猫とか…。
そうしたら猫かどうかもわからないめちゃくちゃな芸術作品を前に櫻井が『なんだよこれ?』と冷たい言葉で訪ねてくるだろう。
そこで俺がすかさず『猫』と答えれば、『なんで卒業式に猫なんだよ?』とシュールな笑いが取れる。
しかし…猫ってなんか安直すぎないか?
なんというか…とりあえずなんでもいいから単語を10個浮かべてみてって人に聞いてみたとき、90%くらいの人が猫って言いそうな言葉だ。
誰にでも安易に思いついてしまうものはダメだ、もっと変わり種なものでないと…いや、だが考えるのに時間をかけすぎるのもダメだ。
こういうのはもっと直感的に…それでいて人が思い浮かばないようなものでないと…くそ、俺にはそんなの思いつかん、センスが足りない!!。
「櫻井、お前はなにを彫るか決まったか?」
「いや。加藤は?」
「俺も分からん」
何か着想を得るために櫻井にそう尋ねたが、大した答えは聞けなかった。
くそ、何かないのか!?
『この状況でそれ!?』と思えるような何かが…。
俺が一人でそんな風に悶々としていると、櫻井が彫刻刀を手にしながらしれっと俺にこんなことを言ってきた。
「加藤、五目並べやろうぜ」
「…は?」
思いもしなかった櫻井の提案に思わず櫻井の方に視線を向けると、櫻井の目の前の机には五目並べ用の囲いがすでに掘られていた。
こ…ここで五目並べだとおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!
櫻井の唐突な提案に俺は思わず心の中でそう叫んでしまった。
この卒業を迎えて、慣れ親しんだ母校との別れを目前にして、遺言ともいえる最後の思いで作りに、お前は五目並べをするというのか!?。
卒業式に五目並べという計り知れないギャップ!!
しかもそれだけじゃねえ!!
事前に仕掛けておいた五目並べという伏線をここで回収しているだけに、その選択肢がそんなにも不自然ではない!!
ここであるまじき選択であるはずなのに、伏線があるゆえに笑いをとろうといういやらしさを感じさせない自然な完成された笑い…それが五目並べ!!
なんてやつだ…この短時間でその最善の選択を思いついちまうなんて…やっぱりお前はすごいやつだよ、櫻井。
己のセンスの完敗を認め、俺は何も言うことなく素直に櫻井の提案に乗っかった。
こうして、俺と櫻井は母校との別れを目前に五目並べに勤しむことと相成り、俺は笑いのセンスでも五目並べでも櫻井に完敗を記したとさ。
美術室を後にした俺たちは学校をひとまわりして教室へと戻って来た。
気が付けば時間はかなり過ぎており、もうじき日が暮れようとしていた。
そういうわけで、すでに教室には生徒は残っておらず、いろんな意味でこの部屋は教室としての価値を無くしていた。
「俺、一度でいいからこういう誰もいない夕方の教室で女の子から告白されたいわ」
卒業の時とは言えど、俺にしんみりするのは許されないので、そんな空気をぶち壊すべく、俺は己の欲望をオブラートに包むことなくそのまま口にした。
「『一度でいい』って言ってる割には、第二ボタンの予備は8個も持ってるんだな」
「一度に8人の女の子から告白される可能性だってあるからな」
「加藤が8人の女の子に取り囲まれてるところが想像出来ないわ。…いや、加藤をリンチするために囲んだとすれば考えられるか」
「8人の女の子からリンチとか…ご褒美やん」
「でもリンチなら第二ボタンの予備は要らないだろ」
「いや、リンチされてボタンが損傷した際に補填として使えるだろ」
「そんな悲しい第二ボタンの使い道があってたまるか」
俺たちがそんなくだらない会話をしていると、後ろから担任の坂本先生が話しかけてきた。
「まだ残ってたのか。そろそろ帰りなよ」
教師歴2年の新米教師だが、若さと親切心に溢れる坂本先生。…きっと女子にも人気だったのだろう、俺とは違って…。
ちなみにあだ名はサカもっちゃんだ。
「そんなこと言わないでよ、今日でサカもっちゃんも見納めなんだし…」
「そう言われると、僕も君らを帰したくなくなるよ」
「えっ…そんな…今夜は帰したくないだなんて…」
サカもっちゃんの帰したくない宣言を極大解釈して俺は照れくさそうにモジモジしながらそんなことを口にした。
茜差す夕焼けの教室でかわいい女の子にそうされたならば少しは絵になるだろうが、俺がそんなことをやっても嫌悪感しか与えられないのはわかっている。
だが、それでもやるのがエンターテイナーとしての務めだ。
しかし、俺がこのような行いをするのはいつものことなので、二人は冷めた目で俺を見るだけでなんのリアクションもなかった。
む?これはすべったか?
嘲笑すら得られないこのさび付いた状況を打破すべく、俺はさらに身を削って恥ずかしそうにこうつぶやいた。
「いくら今日で生徒と教師の関係が終わりだからって…物事にはもっと手順っていうものがあって…」
そう言って追撃してみたはいいものの、これ以上このくだりを続けてもすべり続けることは目に見えていた。
くっ、まずい…どうする?着地点が見つからない!!。
己の存在意義をかけてエンターテイナーをしている身としては相手を困惑させるだけのすべり続ける展開は何とかして避けたかった。
そんな風に俺が助けを求めている中、すかさず櫻井が俺の失態をこの空気ごとなかったことにすべく、俺をガン無視してサカもっちゃんに話しかけた。
「先生、まだ残ってたんですね」
「まぁね。それにしても、櫻井がこの時間まで残ってるのは意外だな。てっきりさっさと帰ったかと思ったが…それとも、櫻井は何かやり残したことがあるのか?」
「やり残したこと…ですか…」
櫻井の空気ごと洗い流すアシストにより、なんとか氷雪地帯から生還した俺をよそに櫻井はさかもっちゃんの質問に言葉を詰まらせていた。
櫻井は基本的には口数が少なくて自己主張のないやつだが、こいつでもそういうものはあるのだなと俺はひそかに感心していた。
「逆に先生はなにかやり残したことはありますか?」
「僕がやり残したことか…。そうだね…僕が中学校の教師になった時から、あと2年しか教師が出来ないのは分かってたから、これでも後悔しないように精一杯頑張ったつもりさ。それでも…やり残したことはいっぱいあるんだ」
「いっぱいって…例えばなんですか?」
「一番は姫浦のことだな。…結局、不登校のまま卒業させちゃったからね」
サカもっちゃんの言葉からは肌で感じ取れるほどの後悔の念が読み取れた。
「他にもたくさんあるよ。例えば…櫻井、君を泣かせられなかったこととかかな」
「僕をですか?」
「そう。ほんとは君だけじゃなくて生徒全員卒業式で泣かせたかったんだけどね…さすがに厳しいや。…まぁ、僕にはもうチャンスはないけど、櫻井達はまだ高校生活が残ってるし、そこで取り戻せばいいさ」
そう言ってサカもっちゃんは櫻井の背中を軽く押した。
「そういえば、サカもっちゃんはこれから仕事どうなるの?」
「そんなことを子供に心配されるほど落ちぶれちゃいないよ。教師になるにあたって、親には『教師になんてならないで』と泣きつかれたけど、それでも僕は教師をやりたかったんだ。それくらい、覚悟の上さ。…さぁ、もう時間も遅いし、そろそろ帰るんだ」。
サカもっちゃんに見送られながら俺たちは再び下駄箱へと向かった。
「そういえばサカもっちゃん、俺にはなにかエールはないの?」
その道中、俺はサカもっちゃんにそんなことを尋ねてみた。
「加藤ならどこに行ったってうまくやっていけるさ。だからそんなに心配してないよ」
「櫻井とは違って俺の場合は雑だなぁ…」
「それだけ信頼してるってことだよ」
「えー、なんかそれじゃあつまんない」
最後の最後になにか面白いことを引き出したくて、おれはそう言ってサカもっちゃんにごねてみた。
するとサカもっちゃんは少しなにかを考えるそぶりをした後、静かにこうつぶやいた。
「…それじゃあ、君にも僕からひとつだけアドバイスを…」
「よっ!!待ってました!!」
俺の茶化すような口調とは裏腹に、サカもっちゃんは少し真剣な表情で俺を見つめながら、俺にこう言ってきた。
「笑えるようなものじゃなくたっていい、君のやりたいことをやりな」
俺はなにかを見透かされたかのようなサカもっちゃんの言葉に、一瞬返事を詰まらせてから、作り笑いを浮かべてこう言った。
「はは…なにそれ?ウケるわぁ」
そう言って茶化すことしかできなかった。
そうしているうちに気が付けば俺たちは再び下駄箱に戻ってきていてしまった。
「今度こそ、ラブレターが入っていますように…」
俺はサカもっちゃに言われた思わぬ言葉を払拭すために、気持ちを切り替えてエンターテイナーを演じて下駄箱の戸を開けた。
当然、中にラブレターなどない。
…やっぱり、なんだかつまらないな。
「さっき中見たばっかじゃん、それなのにあるわけないだろ」
櫻井は俺の隣でそう言いながら冷静に下駄箱を開けていた。
靴を履き替え、いよいよここにとどまる口実がなくなった俺たちは校舎の外へ向かって歩み始めた。
「それじゃあ、サカもっちゃん。また会おうぜ」
「…いままでありがとうございました。それと…お疲れ様でした」
俺たちの旅立ちを前に、サカもっちゃんはどこか浮かない顔をして、俺たちに告げた。
「うん…卒業、おめでとう…ラストチルドレン」
静まり返った校舎に恩師からの門出の言葉がこだました。
三年も通ったこの学び舎を背に、いつもの通学路をたどっていた俺の脳裏に、サカもっちゃんの言葉がこだましていた。
『笑えるようなものじゃなくたっていい、君のやりたいことをやりな』
その言葉の真意はわからないが…なんとなくその言葉が頭に焼き付いて離れなかった。
いいわけないじゃん…だって…笑えなきゃ俺に価値はないんだから…。
最後の通学路をしばらく歩くと、櫻井が口を開いてきた。
「サカもっちゃんに言われたこと、気にしてるのか?」
長年の付き合いだけあってか、櫻井は俺の心を見透かしていた。
「気にしてるっていうか…エンターテイナーの俺から笑いを取ったらなにも残らないだろって話だ」
強がってそう口にする俺に櫻井は静かにこう言ってきた
「加藤なら大丈夫だよ。だって…」
櫻井の言葉に俺は一瞬足を止め、櫻井の言葉を待った。
そんな俺を振り返りながら、櫻井は続けてこういった
「だって…元から別に面白くないから」
「おい、そりゃないだろ」
「じゃあ、加藤。僕はこっちだから…」
帰り道の分岐点に差し掛かり、櫻井はそう言って俺に背を向けた。
「おい!待てコラ!櫻井!!」
先ほどの言葉に文句を言うため俺は櫻井を呼び止めた。
「なに?」
そう言って半笑いで振り返った櫻井に文句を言ってやろうと思ったが…櫻井の俺が面白くないという発言が的外れでもないことを自覚して、言葉に詰まってしまった。
冷静に考えてみれば、櫻井の言う通り、俺は別にそんな面白い人間ではないと思う。
今日だってボケてみてはすべってばっかりだし…たぶん笑いのセンスが人並みなんだ。
それでも俺が臆せずボケられるのは…きっと櫻井がうまくアシストしてくれるおかげでなんとか笑いになるわけで…。
逆を言えば、俺がつまらなくても櫻井とならもっと面白いことできるんじゃないのか?
それこそ、笑いなんかよりもずっと面白いことを…。
そんなことを考えた俺は、ぶつけてやるはずだった文句の代わりの言葉を探して、直感的にこんなことを口にした。
「バンド…組もうぜ」
「…なんで?」
自分でも予期しなかった思わぬ言葉に自分で戸惑いつつも、なんとか少しでも笑えるように強がりながら俺はこう答えた。
「そりゃあ…モテたいからだよ」
「…まぁ、いいけど」
こうして、なんやかんやで俺たちはバンドを組むことになったのだ。