恋は盲目 花音は恋に盲目
「······えー、常用対数の例題として、基本問題2を解説するので、問題集を開いて······」
春も終わり、徐々に夏が本格化しだした頃のある日。最近まであった春の残り香も、いつの間にか姿を消した。とは言え、まだ教室備え付けの冷暖房を使うほどの暑さは襲ってきてはいない。それは、美雨がカバンを盗まれかけた日曜の次の日のことだった。
教科書をあらかた予習済みの花音は、そんな教師の言葉を聞き流し、頬杖をつきながら考えごとをしていた。花音たちの通う鳳凰学園は、進学校であり授業のスピードが異様に速いので、本来そんなことはできない。のだが、学校はあくまで、藤堂家の子供が学校に行っていないなどという不祥事があってはいけないから通っている、というだけの花音にとって、自分で理解できることをわざわざ教師に教えてもらう必要もないのだった。
そんな花音が考えていたのは、昨日の家族会議のことだった。家族全員が揃った夕食の後、大地が突然、話があると言ったのだ。
「いやあ、実は今日彼女がカバンを盗まれそうになってねえ」
花音は、にこやかに言う大地を本気で殺しかけたが、なんとか腹パンに留める。
大地は呻いていたが、それでも10秒もかからずに回復した。
「まあ、それが本題じゃないよ。その、盗もうとした1人が、面白いナイフを持っててね」
そう言って、大地は食卓の上にナイフを放り出した。それは、刃の形が独特で、なるべく相手を傷つけるように設計されていた。
「いいナイフだな」
源竜は、ナイフを手に取ってそう呟いた。そしてすぐに、柄の部分に彫り込まれた国破産業の文字を見つけた。
「国破産業か。国破の悪事はあらかた調べつくしたつもりだったが、こんなものを作っていたか。国破産業は潰したから、もうこのナイフは造られていないが、このナイフを受け取っていた何らかの組織が国破の人間を匿っている可能性があるな」
その言葉に賛同し、妻の美晴が情報を付け足す。
「それだけど、最近メディアにも取り上げられ始めた、反政府組織があるでしょう。調べてみたら、できたのはこの1年以内なのに、成長速度が異常に速かったわ。何らかの後ろ盾があったとみて、間違いないでしょう」
美晴は、過去様々な仕事に就いた後、現在公安に所属している。その経験から、独自のルートで多大な情報を入手することができ、藤堂の安穏な生活を守るのに一役買っていたりする。
「そうか。なら、その組織が国破家と何らかの関係があるとみて、間違いないだろうな」
源竜の言葉に頷きつつ、花音は美晴に尋ねた。
「その組織って、何を目的としているの?」
美晴は、苦虫を嚙み潰したような顔で答えた。
「組織の名前は、非超能力者解放軍。超能力を持たない人たちに特権を与えて、非超能力者主体の社会を形成するのを目的としているわ。ただし、非超能力者で形成された組織を正しい方向に導くという幹部は、どうやら超能力者たちで構成されているようね。超能力を持たない人たちに甘い言葉をささやいて仲間を集め、組織を大きくしたいのでしょう」
ごく普通の市民をたらし込み、組織に引き込むという悪質な手法。もし関与した場合、厄介なことになるのは必至だった。
相も変わらず、教師の解説が続く教室の中。面倒なことになったなあと、花音はため息をついた。
ふと、窓の方をちらっと見た。窓からは、ほとんど雲のない快晴が見える。特に面白みもないので、何となく視線を下に移す。
すると、隣に座っている心と目が合った。うわっ、と心の中で呻き、花音は慌てて視線をそらし、前を向いた。昨日のことについて考えるのはやめたのに、授業には集中できないままである。
花音は、それまで真面目に書いていなかったノートを、集中して書き始めた。隣からの熱い視線は無視する。
書いていた字が何となく汚く思えて、何度か書き直した。隣からの熱い視線は無視する。
グラフもバランスが悪いように思えて、描き直す。熱い視線は無視する。
だらけていた訳ではなかったが、何とはなしに姿勢を正した。視線は無視する。
視線は無視する。
無視する。
無視。
無視。
無視······。
「何かしら」
無視しきれず、花音は授業に差し支えない程度の小声で、心に話しかけた。
その瞬間、心の顔がぱっ、と明るくなったのを見て、花音は辟易する。
「いや、その、なんでもないんだけどね」
「もう少し声を抑えて」
あまりにも嬉しそうな声に、花音はむしろいらいらし、心の言葉を途中で遮った。
「なんでもないなら私を見ないで。気が散るから」
そう言って、花音は前を向いた。だが、心はめげなかった。
唐突に、心の机から消しゴムが転がり落ちた。消しゴムは、丁度花音と心の席の中間で止まった。
わざとらし過ぎるだろっ、とこっそり突っ込みを入れつつも、花音は努めて無視をした。心は花音が拾うまで何もしないつもりのようだった。
そんな状態が1秒、2秒、3秒と続き、8秒目に、花音の前の席の女子が、見かねて消しゴムを拾い上げた。心が少し残念そうに礼を言う。
頼むから、迷惑はかけないでくれ、と花音は心底願う。基本的に、花音は放任主義だ。大地がいくら落ちこぼれだと罵られようと、藤堂の名さえ汚されなければ、花音に害が及ぶことさえなければ構わないのと同じように、誰が何をしようと構わない。ただ、花音が被害をこうむることだけは絶対に避けたい。花音は、なるべく気の休まる人生を送りたいのだった。
場面は変わる。
壁から天井、床まで全て黒の部屋の中、ぼんやりと照らす明かりの下、部屋の中央に置かれた長机の周りで、9人ほどの人間が席に着いていた。その様子を、国破厳気は壁際から見ていた。
9人のうちのほとんどが超能力者である。組織を引っ張る幹部9人全員、計り知れない力を持つ。その中でも、特に5人が組織の核となっていた。
少数派の非超能力者でありながら、ありとあらゆる武器に通じ、それを活かして何度も組織を助けてきたマッチョマン、笠居。この時期は海の家を経営し、そこで様々な情報を集めている。
個性的な能力を用い、近接戦においては無敵の青年、疎及。暗殺に長け、組織の障害となる人物を屠ってきた。
このような場には似つかわしくない、16歳ぐらいの見た目の双子、望と叶。だが、組織の重要任務はこの2人が行うなど、間違いなく組織のキーパーソンであり、2人の息の合った戦闘スタイルは脅威である。二人ともツインテールでほとんど見分けがつかないが、短パンの方が姉の叶、ミニスカートの方が妹の望という判断方法がある。
そして、組織のリーダー、刈谷。特殊な能力ゆえに対超能力者の戦闘では最強、身体能力も高く、近接戦から狙撃まであらゆることをこなす30代の男。捨て子だった望と叶を拾って育て、組織に加入させた張本人である。
そんな、国破からしても脅威の5人を含む9人の会議を、国破はただ見ていることしかできなかった。もともと国破産業が秘密裏に組織を支援していたということもあり、保護はしてもらっているが、お荷物扱いでありこうした会議には参加できていないのが現状である。
そうした状況の中で、国破はすることもなく会議の内容を聞き流していた。ところが、会議の合間に藤堂という単語が聞こえ、体が反射的に反応する。
「藤堂と言ったか、今」
突然口を開いた国破に、一斉に視線が集まったが、国破は臆することなく話を続ける。
「もし、藤堂を潰すという話なら、ぜひ僕も参加させてほしい。あいつらには大きな借りがある」
国破の言葉に対し、疎及が
「おいおい、匿われてる身で偉そうな口を利くなよ」
と言ったが、刈谷は疎及を制した。
「構わない。もしそういう話になったら、お前に伝えよう。ただし、しっかりと働けよ。潰し損ねのないようにしろ」
そう言う刈谷に、
「当たり前だ」
と国破は頷いた。
「次はお前がひれ伏す番だ、花音。楽しみに待っていろよ」
そんな言葉と共に。




