誘拐事件
とある日曜日のこと。それは、奇しくも大地が告白した日の次の週のことであった。
花音は、自室でのんびりと本を読んでいた。ただ、実際には字を眺めているだけで、頭では、今日行われる藤堂家主催の会合の付き添いであったり、学校での人間関係であったりを考えていたりする。
1時間ほどそうした状態が続き、花音は一度本を置いて、紅茶をたしなんだ。読書前は暖かった紅茶だが、すっかり冷めてしまっている。それでも香りは良いもので、花音はふ、と一息ついた。
読書を再開しようと思い本に手を置いた花音は、やはりもう少し休憩しようと考え直し、うんと背筋を伸ばす。その日花音は薄着だったので、意図せずへそがチラリと見えてしまう。誰に見られている訳でもないが、花音はすぐに姿勢を元に戻し、周囲を見回した。
その拍子に、机の上の花瓶に活けられた、赤や黄、白の花が目についた。それは、美雨が花音の部屋を可愛くしようと言い出して用意したもので、活けたといっても無造作に入れられただけではあった。だが、美雨が活けたものなので、花音は手直しするのも忍びなく、そのままにしていた。
なんだか段々美雨の趣向に染まってきたわねー、と思いつつ口元を緩ませながら、花音は今度こそ、読書を再開した。しかし、頭で考えているのは相変わらず、紅茶淹れなおしてもらおうかしら、というような本とは全く関係ないことである。
そしてまた、小1時間ほど経った頃。
階下から、電話のコール音が聞こえた。真面目に読書をしていた訳ではない花音は、卓越した聴力でその音を捉える。今日の会合のことで電話してきたのだろうと思った花音は、使用人が出てくれるだろうと思い、その音をスルーした。その日は、大地は源竜の代理で出かけており、源竜も美晴も夕方までは仕事から帰らないことになっていた。だが、会合のことであれば使用人もよく知っているので、使用人で事足りるだろうと考えていたのだ。
そうしてすっかりリラックスしていた花音は、しかし、自分の部屋の扉がノックされたことに不信感を募らせる。
「入って構わないわよ」
と花音が言うと、扉が音を立てないように開けられ、使用人の1人が入ってきた。
「どうしたの?」
そう問いかけると、使用人は、彼自身不審がる様子を見せながらも言った。
「お嬢様にお電話です。なんでも、花音のお友達という方から」
「美雨?」
そんな花音の言葉に、使用人は首を振った。
「名前は伏せられました。ですが、男の方でした」
使用人の言葉に首をかしげながら、花音は
「分かったわ。すぐ行く」
と言って立ち上がった。
藤堂邸には、固定電話は休憩所に1台しかない。知人ならば携帯で連絡を取ることができ、相手が知人でない場合は使用人が対応できたので、それで事足りたのだ。
だが、いざこうして使用するとなると、花音はわざわざ2階から1階に移動せねばならず、花音は自分の家の大きさに苛立った。
そんな過程を経て、花音は休憩所の扉を開ける。トイレの入り口とは別の壁際に、固定電話の置かれた台と、受話器を握った使用人がいた。
花音は受話器を受け取り、
「もしもし、藤堂花音ですが」
と話しかけた。
「ああ、やっと出たね。待ちくたびれたよ」
という楽しそうな声は、間違いなく国破のものだった。それを理解した花音の顔は、すぐに渋面になる。
「いつからあなたは私の友達になったのかしら。用はなに?」
不機嫌であることを隠しもしない花音の声に対する、国破の笑い声が聞こえた。
「いや、どうということはないんだ。ただ、あの、なんて名前だったか、君の友達の髪の青い…」
「美雨のこと?」
「そう、美雨だよ!」
随分と機嫌のよさそうな国破に対し、花音の眉間のしわはますます深くなる。
「美雨がなに。本当に、一体要件はなんなの」
使用人たちが冷や汗を流すほど迫力のある、低い声で花音は言った。だが、それに対する国破の答えは、
「美雨を誘拐した」
随分とあっさりしたものだった。だが、その内容は、決して無視できるものではない。
「······なんですって?」
「だから、美雨を誘拐したって言ったんだ。学校の近くの廃工場は分かるね?そこで君を待っているよ」
どうやら、冗談ではないことを理解した花音は、思わず
「なめたことしてくれたわね······」
と吐き捨てるように言った。だが国破は臆する様子もなく、花音は
「早く来ないとお友達が傷ついちゃうよ」
と言われて一方的に電話を切られた。
花音は、受話器を握りしめた。
1時間ほど前。
美雨は、お使いを頼まれてショッピングモールに来ていた。買うものが書かれたメモを見ながら、テキパキと買い物を済ませていく。その日は、美雨の母が夕食を普段より豪華にしようと張り切っており、夕食の材料の調達は美雨に任されたのだった。
買い物をしながら、美雨はスキップしてしまいそうになるのを必死にこらえていた。実は、大地に告白されて以来ずっとこんな感じで、すっかり浮かれているのであった。
スキップは我慢するものの、美雨はついつい鼻歌を歌ってしまう。周囲に不審な目で見られるのも、全く気になっていなかった。カチューシャの猫耳が、パタパタ動く。
そんな状態のまま、30分ほどの買い物を終え、美雨はショッピングモールを出て駐車場の前を通った。美雨が、堪えきれずスキップしかけた時。
美雨の耳に、子供の泣き声が聞こえた。美雨は初め、駄々っ子が泣いているのかと思ったが、それにしては様子が変である。
こういう場合、泣き声を聞かなかったことにする者もいるのだろうが、お人よしの美雨にはそれができない。美雨は泣き声の方へ向かっていく。泣き声は、どうやら駐車場から聞こえてくるようだった。
ほどなくして、美雨は泣いている男の子を見つけた。車に囲まれながら、子供が泣いているのは、どこか異様であった。
子供を見つけた美雨は、すぐに駆け寄って背中をさすってあげる。
「どうしたの?はぐれちゃったの?」
そう話しかけるが、ぐずる子供から返事はない。
困ったなあ、と思った美雨は、とにかく迷子センターに連れていってあげようと、手を差し出した。子供は、しばらく握ろうとしなかったが、美雨が辛抱していると、握り返してくれた。
よし、親を探してあげよう、と美雨は意気込む。
だが。泣いていたはずの子供は、突然美雨の顔を見て言った。
「つかまえた」
その顔は、無邪気に笑っていた。
突然、子供の後ろに止めてあった車のドアがガラっと開き、顔が見えないようにマスクをかぶった黒ずくめの男たちが、ぞくぞくと出てきた。美雨が驚いて固まっている間に、男たちの一人に腕を掴まれる。そこで正気に返った美雨が叫ぼうとするが、後ろから口を塞がれた。塞いだ手には白い布があり、どうやら睡眠薬かなにかが、染み込ませているようだった。
少しの間も意識を保っていられず、美雨は男の腕の中に倒れ込んだ。そんな美雨を車の中に連れ込み、男たちと子供も乗り込んで、車のドアがしまった。
車が走り去った後には、美雨が買い込んだ食材だけが残されていた。




