7. 奪還に向けて
街のあちこちに設けられている兵士の詰め所で、俺は手当てを受けた。といってもかすり傷程度のもんだが。連中のように分厚い毛皮を纏ってなくても、身軽なものでも防具を着けていれば、それに賢く立ち回れば、最強の部類の獣人の牙や爪もしのぐことができるって訳だ。あいつらなら、こういうのも小細工だとか言って見下すのかもしれないが。まあ、人間の知恵ってやつも別にバカにしたもんじゃない。
それはさておき――
「おい、俺のじゃないぞ」
俺の鼻には強烈な悪臭と感じる薬を塗られた後、医療兵に手渡された装備の真新しさと上質さに、思わず声を上げた。数年に渡って手入れしつつ使ってきたし、誘拐犯の鋭い爪と牙を何度も躱して、時には受け止めて、部分によっては無残なことになってたはずなのに。
「あ、報酬の上乗せと思っていただければ! こんなことに巻き込んでしまったので……!」
「クマル君……」
耳に刺さるような甲高い声に若干顔を顰めつつ、俺はその子供の名前を呼んだ。銀色の耳をぴくぴくさせて、例によって尻尾を手の中でもじもじと弄んで――誇り高い高山の支配者というよりは、迷子の子猫といった風情だが。これでも歴とした雪豹の一族、中でも由緒正しい陽を覆う蒼い影の谷の若君というから世の中分からない。
重たげな刺繍の衣装に着られているクマルは、聞けばサララ姫より四つ年下の十二歳とか。やはりこのお見合い計画とやらを考えついた長老どもは誰かきつく叱ってやる必要がありそうだ。
「姫は――」
「この国の兵が探してくれてます。あと、影の谷と銀嶺の氏族の戦士も何人か。ラヴィさんが途中まで追いかけてくれたからですね!」
「ラヴィ、さん……?」
名前は、まあエリオあたりが教えたのかもしれないが。だが、どうして「さん」付けなんかするんだ? いずれは谷の長になるであろうご身分の癖に、傭兵風情に気安く話しかけてくるなんておかしいだろう。全く調子が狂って仕方ない。
思いっきり顔を顰めてやったのに、俺の当惑には気付かないようで、クマルは耳をぴくぴくさせながら踵を返した。振り向きざまににこっと笑うのもごく自然で――お前は俺の友達か?
「エリオさんが呼んでます。疲れたでしょうからご飯を食べながら情報の整理を、って。……あの、凄いんですね! 二人を相手に無傷だなんて……!」
「まあ、護符のお陰だからな。俺だけの力じゃないぞ」
「でも護符が発動するのは一度だけだって……攻撃を同時に受けるようにできるのは、並大抵のことじゃないって……!」
それをお前に吹き込んだのは誰だ。エリオか? 全く余計なことしかしないヤツだ。貴重な雪豹族の若君に、傭兵なんかへの憧れを抱かせてどうする。姫の一族であった駆け落ちに続いて、家出騒動が起きても知らんぞ。
「僕も、強くなりたいなあ」
「ま、雪豹の能力があればどうにでもなるだろ。怠けず鍛えれば、な」
「はい。頑張ります!」
満面の笑顔で頷くクマルは――尻尾こそ振らずにぴんと立てていたが――今度はまるで子犬のようだった。雪豹の長老どもと違って、変なプライドに凝り固まってるようではないのは良い、んだろうか。姫との歳の差も、あと十年もすれば気にならなくなるか……? いや、俺が気にすることじゃないんだが。そんな場合でもないんだが。
この俺が雪豹の姫のために奔走して、雪豹の若君に懐かれ(?)て。どうにも調子が狂うというか――巡り合わせというのは、不思議なもの、なのかもしれない。
初めて訪れる建物ではあったが、エリオが待つという部屋は案内されるまでもなく分かった。廊下にまで漂う香辛料を効かせた肉と脂の匂いを辿れば、迷うことはない。さっきも街で嗅いだような、甘辛いタレの匂いに体中の細胞がむずむずと蠢くようだ。疾走からの一戦で失われた活力と、多少なりとも流した血を補えと、本能が訴えかけてくる。
先導するクマルがある扉を開ければ、肉の匂いは一段と強くなった。というか探すまでもなく、部屋の真ん中のテーブルには骨付き肉の塊が鎮座している。ついでにエリオと、難しい顔をした兵士やら役人やらも席についていたが――
「時間が惜しい、礼儀が必要な仲でもないし、食べながら聞いてくれ」
エリオの言葉に、俺は遠慮なく肉にかぶりつくことにした。ちょうど向かいに位置する人間どもと、傍らのクマルが目を丸くしているが知ったことか。改まって紹介されるほどの身分じゃないし、時間がないのも事実だった。状況を見て煩わしい手順を省いてくれる――こういうのが、エリオが情報屋として腕が良いと言えるところだ。
「確保したふたりはまた口を割っておりません。あの体格と体力ですからな、力づくで、という訳にも中々……かといって殺してしまっては意味がないし」
「明らかに混血のはぐれ者ですからな、氏族からの抗議がないであろうことは良いのですが」
「我が国も条約には批准していますからな」
それぞれにそれなりの地位にあるらしい兵士――というか軍人と呼んだ方が良いのか――と役人が述べるのは、さほど重要なことでもない。聞くまでもなくある程度想像がついたことでさえある。
だから俺はほとんど肉の方に集中していた。一応はナイフやフォークもあったがまどろっこしくてお上品にやってられない。骨を掴んで直接口に運んで、牙で繊維を切り裂いて、顎の力に任せて軟骨も噛み砕く。タレに浸けて味を染み込ませてから焼いたらしい、牛の肉だ。中まで火を通している割には柔らかく、焼き固めた表面が肉汁を留めてくれている。牙を喰い込ませるたびに溢れそうになるのを舐めとるのが忙しい。味わいつつも性急に咀嚼し呑み込むと、身体に力が蘇り漲っていくのが分かった。
報告だか愚痴だか分からない人間二人がひとしきり言いたいことを言い終えると、今度はエリオが口を開く番だった。いつもへらへらとしている癖に、今日に限っては真剣な顔で――それが、事態の深刻さを物語っていた。
「人間側も全面的に協力してくれるそうだ。雪豹族の長たちだけじゃなく、もはやこの国の上層部も君の依頼主だと思って欲しい。無論、兵も軍も動かすんだろうが――獣人が相手となると、君の方が頼りになる可能性が高い」
さもありなん、と言った話だ。例の条約のお陰で、獣人とまともに戦ったことのある正規兵は滅多にいない。せいぜい、交流の一環として模擬試合がある程度か。もちろん、そんな経験が今役に立つはずはない。それなら、はぐれの獣人や混血と絡んだことのある俺の方が、ってことだ。事件が起きたばかりにしては、意外と決断が早いもんだ。
「サララ姫の奪還を、どうか――ことが穏便に済んだ暁には、報酬は望みのままにお支払いします」
「この装備もそういうことらしいな。先に押し付けて断りづらくしようってか」
「そんなことは……」
断る間もなく着せられた装備を示すと、役人はやや気まずそうに目を泳がせた。俺が食ってる肉がやたら質が良くて美味いのも、懐柔しようとでもしてるんだろうか。獣と同じと思われて舐められてるのか、気前が良いと思えば良いのか。
俺としても今さら手を引こうなんて思わないし、それだけこいつらも必死なんだろうが。……今回の事件に関する問題は、あまりにも多岐に及んでいるから、だろう。初対面の半獣の傭兵にすら頼らなきゃならない事情が、こいつらには、ある。
「尋問しているのは捕まえた連中だけじゃないとか。姫の訪問自体なら知る者も多いんだが――街に出る日程のことまで知っている者は限られる。まして、今回の計画のことは。君に攫わせるために警備は減らしていた――第三者にとっても、誘拐の絶好の機会になってしまった」
エリオが溜息と共に溢したことは、この国の軍人や役人が頭を抱えているであろう点を突いていた。内通者がいる可能性――この国の人間を慮ってか第三者、なんて言ってるが、サララ姫の予定を知ることができたのは、要はそれなりの地位にいる者だけだ。条約に抵触する危険を冒してまで決行するには、いかにも杜撰なやり口だったが、何のことはない、「お見合い計画」自体がどうしようもなく雑なもんだった。
この事件を公表すれば、雪豹族の姫を危険に晒したことへの非難は免れない。それを最小限に抑えるためには、犯人と姫の確保が最低限必要ってことだろう。
さっき起きたばかりの事件に対して、この決断の早さと思いきりの良さは悪くない。俺に対しても、脅して言うことを聞かせるんじゃなくて依頼しようって態度はよくできてる。――だが、こいつらの焦りの理由は、内通者の存在だけだろうか。もしも他に理由があるなら、俺が気付いたことにこいつらも気付いているなら。ちゃんと明かしておいてもらわなきゃならない。俺にも情報が必要だし、命を賭けた仕事なら信頼ってやつは大事だからだ。
「問題はそこだけじゃないぞ。姫を攫ったあの連中――見たな?」
ちょうど肉をあらかた食い終わって、骨を皿に戻す。添えられていたナプキンで口と手を拭って表情を改めれば、エリオを含めた人間たちも背筋を正し、クマルも耳をぴんと立てた。その態度からも、こいつらも俺と同じ懸念を抱えているのだと分かる。
「虎と獅子の混血……それも、よく訓練された。まるで混血強兵じゃねえか。今時あんなもんを創り出そうって奴がいるんじゃねえだろうな……!?」