3. 尾行開始
名のある雪豹の氏族は幾つかあるが、その里はいずれも人には立ち入りがたい深山に位置する。しかも長の一族の棲み処となれば戦士たちが侵入者を阻むべく目を光らせているはずだった。雪豹族は、獣の姿では人の身長を越す巨体が白銀の毛皮を誇り、仮初に人の姿を取ってもしなやかな肢体や艶やかな被毛が美しいと言われる。毛皮目当てや鑑賞用として、条約締結前はもっとも人間に狩られた種族のひとつでもあるだけに、余所者への警戒は厳しいのだ。
だから、「お見合いのために劇的な出会いを演出しよう」とかいうエリオの策を実行するには、それなりに手間暇がかかるはずだった。いや、そもそもの発案者が銀嶺の長周辺だというなら警備については問題ないのかもしれないが、それでも雪豹族の棲み処まではちょっとした旅路になるはずだった。
『あ、それなら大丈夫』
旅費の交渉に入ろうとした俺に、だが、エリオはあっさりと言ってのけた。
『サララ姫、今は山を降りてるから。長の名代で、使者として表敬のため――この国の、王様に会いに来てるんだ』
という訳で、俺はこのバカバカしい計画が意外にも周到に練られているのかもしれないことを思い知らされた。喜ぶというよりは、話が順調すぎて段々アホらしくなってくるような展開ではあったが。
傭兵ギルドの窓口が設けられるのは各国の主要な都市――つまりは首都で、王の居所。俺は、最初から目標のすぐ傍に呼び出されていたということだった。
王都の城門を潜ってすぐのところに広がる繁華街は、五感を刺激する品物に溢れている。まず嗅覚に訴えるのは、異国の酒や果物の甘い香り、鼻をくすぐる刺激的な香辛料、食欲をそそる肉や脂の匂い。ちょっと辺りを見渡すだけでも、色とりどりの花やら細工物やら、目を楽しませるものには困らない。
そんな品々を売る者も買う者も、それぞれに様々な出自を持っているようだった。人間に限ってもありとあらゆる髪と目と肌の色が見つかるだろうし、大通りを飛び交う言葉も、意味が分かるのだけじゃなかった。歌うようなの、怒鳴るようなの、どうやって発生するのか分からない、虫の鳴き声みたいな言葉。故郷の山に比べるとまったくうるさい。――だが、沢山の生き物が混ざり合ってひとつの巨大な生き物を成すかのような一体感というか、雑然とした秩序というか。そんな空気は、不思議と懐かしく心地良いかもしれなかった。
そんな繁栄ぶりだからか、俺が通りをうろついていても意外と注目を浴びることはなかった。傭兵ギルドでの鬱陶しい視線は、あくまでも商売敵にたいするやっかみのようなもの、堅気の連中にとっては明らかに獣人の血を引く大男も「まあたまにいるよな」くらいの存在でしかないらしい。
実際、この都には獣人も気軽に出入りしている。兎の耳や犬の尻尾、恐らくは猫族の獣人だろう、顔や手足に縞模様を纏った女。獣人が出自を隠さなくても恐れる必要がない――少なくともここでは、例の条約は良い仕事をしているんだろう。
『ラヴィ、見えるか……?』
「ああ。目立つからな」
と、耳元でエリオの声が囁く。といっても奴はこの場にはいないが。どこか近場で、サララ姫の婚約者候補君と一緒にいるとか。離れた者同士で会話ができるのも人間の作った魔道具の効果のひとつ。耳に仕込んだのと、首飾りのように喉に触れさせているの、ふたつの水晶に囚われた風の精が俺の声を運び、エリオの声を届けてくれる。あちらでも同様の魔道具を身に着けているはずだ。目立たないように水晶の大きさはごく小さいから、会話できる距離は限られているが、今回の仕事なら支障はないはずだ。
『どう? 生で見るとやっぱり美人?』
「無駄口を叩くんじゃねえよ」
余計なことを言うエリオの、にやにやとした笑いが目に浮かぶようで、俺は唸る。宙に向けて凄んでいるのを見られたらとんだ不審者だから、あくまでも人目につかない程度に控えめに、だが。
エリオが仄めかした通り――雑踏に紛れる俺の視線の先には、雪豹のサララ姫の一行がいる。その周辺にだけ人だかりができているから遠目にも分かりやすい。珍しい品にも異国の人間、毛皮や鱗を持った獣人にも慣れているであろうこの都の者にも、雪豹族が複数でたむろしているのは物珍しいのだろう。しかもそれが若い少女たちばかりとなれば、華やかさも美しさも一入だ。
肉食の猛獣の獣人は、人の形を取ると概ね並よりも大柄な姿になる。俺の目が捉える姫と侍女らしい娘たちは、大人の人間の男と同じくらいの背丈に見える。だから輝く銀色の髪に、ふわふわした耳と長い尻尾が遠目にもよく見えた。若い娘らしく、細工物や菓子を指さしたり手に取ったりしてはきゃあきゃあ笑い合っているようだった。
『公式行事がいち段落して、やっと自由時間なんだってさ。だからはしゃいでるんだろうなあ』
「知るか、んなこと」
エリオは相変わらず余計なことばかりで俺を苛立たせる。
お見合い用の映像とは違って、好奇心に目を輝かせているサララ姫が可愛らしいのは確かに事実なんだが。鏡の中の澄ました表情よりも、年相応に無邪気に笑っている方が、そりゃ良いに決まってる。水の精に姿を覚えさせるあの術は、確か完成までにそこそこの時間が掛かるはず。それならあの表情は、疲れや退屈から来る仏頂面だった可能性もあるのか。婚約者でもまだ見たことがないかもしれない姫の素の笑顔を、俺は拝めているって訳か?
――いや、これこそ余計なことだ、仕事には無用のことだ。俺が注目すべきはもっと別にあるだろう!
「女の子ばっかりか? 戦士の護衛はいないんだな」
『街中だからね。雄の雪豹族はさすがに目立つし市民も不安がるだろうからと、人間側が自粛を要請したらしい』
情報屋としてはさすがに有能な奴だからか、俺の疑問にエリオはするすると答えてくれる。それに事情も納得がいく。ほっそりした体つきの雌なら集団でいても怖がられはしないだろうが、雄の戦士となるとさすがに獰猛な印象が勝ってしまうんだろう。姫の身を危険にするかもしれない要請を雪豹族が受け入れたのは、このバカバカしい計画のためだろうか。それ自体はありがたいが、だからといって安心しきることはできない。なぜなら――
「――人間の衛兵が多いのは護衛のつもりか? この国で追われる身になるのはご免だぞ」
通りの交わる角、大きめの店の入り口。ちょっとその辺を見渡しただけで、揃いの制服を着た衛兵が道行く者たちへ鋭い目を配っているのが分かる。そりゃ、こういう繁華街には酔った上での喧嘩や品の質を巡って、あるいはぶつかったぶつかってないとかでの諍いは珍しいことじゃないし、治安の維持のためにも兵が配置されているのはおかしくないんだが。それにしては数が多い気もする。見たところでは武装は――多分無辜の民を巻き込むのを避けて――警棒のみで弓矢とかの飛び道具も持ってない。だが、都の衛兵となれば攻撃や捕縛のための魔法も習熟していてもおかしくない。兵の方も警戒しなければならないとなると、姫の誘拐の難度は跳ねあがってしまうだろう。
『ああ、それも大丈夫』
だが、風の精が伝えるエリオの声はあっけらかんとしたもので、また不安と苛立ちを覚えずにはいられなかった。俺の身体能力を知ってるから大丈夫、という意味なのか? 確かに人が走ったところで撒くのもそう難しくはないんだが――人間は、魔法を使うことがあるから厄介だ。危険を冒すのは俺だけだから、とでも言うなら大いに抗議したいところだが。
『ここの国も巻き込んでて、話は通ってるから。雪豹族の繁栄に助力できるなら光栄、ってさ。だから兵に追われる心配はしなくて良いよ』
「マジか……」
いっそ目眩を感じて、俺は天を仰いだ。空には雲一つなく、眩い太陽が目を焼く。底抜けの青空は、この企みに関わっているアホ共のおめでたさを象徴しているかのようだ。国を挙げてお見合いとやらに協力しようとは、この国は相当平和らしい。ならば傭兵として立ち寄ったのは間違いで、この仕事にありつけたのは喜ぶべきことかもしれないんだが――どうにもバカバカしくてやる気を保つのが難しい。
『衛兵はむしろ野次馬を止めてくれるはずだ。君の仕事をやりやすくしてくれる――だから、頼んだよ』
「ああ。分かってるよ」
こうなったら、さっさと終わらせてしまうに限る。姫を攫う。抱え上げて、この都の城壁を越える。そして郊外の森の中で婚約者殿が追ってくるのを待つ。更に姫の目の前でほどよくやられてみせる。それに何より、エリオから報酬を受け取るのを忘れちゃならない。
数え上げれば、仕事はまだ始まったばかりで道のりは遠い。このくだらなさすぎる案件と縁を切りたいなら、さっさとやるべきことを済ませるに限る。まずは最初の段階。手はず通りに、サララ姫のお付きの者たちが、姫を人通りの少ない方へ導いてくれるはず。俺の出番が来るのは、まずはその段階からだ。
「仕事――始めるかねえ」
溜息とともにそう呟くと、俺は足音と気配を殺して姫の一行の後をつけ始めた。