12. 獅子の城へ
森の中を、進む。
侵入者を阻むかのように固く入り組む木々の枝や根、悪意があるとしか思えない鋭い棘の茨を掻い潜って。詰め所で新しくもらった装備もあっという間にボロボロだ。こんな時四つ足だったら楽なのに、と愚痴めいた思いも頭を掠めるが――それならエリオから分捕った魔道具を持ち運ぶことができないから、と自分に言い聞かせて耐える。どの道俺の肌は人間ほど柔じゃない。楽な道じゃないのも分かってて入ったことでもあるし。
濃密な土と緑の匂い、それに獅子の獰猛な匂いが満ちる森でもサララ姫の匂いを見失うことがないのは僥倖だったし、驚きでもあった。雪豹族に対しては強がって見せたが、俺だって故郷じゃよく狩りもしてたが、一回会っただけの相手の匂いをこんなに覚えてられた記憶はない。他所の種族の縄張りに侵入してるって緊張が、感覚を研ぎ澄ませてでもいるんだろうか。
「ちっ、嫌な感じだ……」
危うく目を突き刺しそうに飛び出してきた小枝を払いのけながら、俺は舌打ちをした。
姫と誘拐犯どもの匂いは、獣道を辿っていた。俺が後を追うことができているのは、曲がりなりにも道らしきものがあるからこそだ。問題は、普段この道を使うのが何者かということだ。獅子族の縄張りに、大型の獣がそうそういるはずもない――つまりは、泥濘に残された大きな足跡は、獅子の連中のものに違いない。狩りだか見回りだかのための通路を、誘拐犯どもは堂々と通ってるって訳だ。もしも人間の追及を躱すためにこの森に立ち寄ったのだとしたら、獅子との軋轢は避けようとするはず。なのにこれは――
「――っと……」
顔を顰めた時、草葉の擦れる音を耳が捕らえて、咄嗟に手近な木の上に難を逃れる。雪豹ほどじゃなくても、二本ずつの手足でも、故郷の山で木登りならお手のものだ。複数の巨大なモノが近づく気配――それに、唸り声とキナ臭いような戦意と敵意の匂い。この道の本来の持ち主である獅子族たちのお通りだろう。
俺の足先が葉の間に隠れたか否か、ってタイミングで、下の方で風が通った。太い枝を陰にして覗いてみれば、獅子の群れが獣の姿で狭い道を潜り抜けるように駆けて行く。いずれも鬣を持った雄ばかりで、狩りではなく戦いに臨むのだと分かる。
漏れ聞こえる言葉も、剣呑なものばかり。
「白猫のガキが――」
「――生意気だ――」
「獅子の面子を――」
雪豹のことを白猫と呼ぶか。いかにも思い上がった奴らが言いそうな侮辱に、音を立てずに牙を噛む。――だが、苛立ってばかりいる場合でもない。奴らの言葉から、計画通りに行っていると分かるから。クマルが矢面に立って、獅子を引き付けてくれているんだ。
獅子の戦士たちが動いたのは不安だが――雪豹族に対する示威行為に過ぎないと思いたい。条約の効力を信じるなら、獅子族にとっても他所の種族と揉めるのは歓迎できない事態のはずだった。
姫たちの匂いは、森の奥へと続いている。たった今、獅子たちが現れた方へ。まさか本当に獅子の巣穴に辿り着いてしまうのかどうか、あの混血強兵めいた混血たちの片親が、この森の獅子にいるのかどうか――分からないし、そうあって欲しくはないが。少なくとも、俺の動きを見咎める者は今はこの先にはほぼいない。
だから、今が好機。たとえ誘い込まれるような不安を感じるとしても、迷っている暇はないはず。獅子たちが駆け去った後を見送り、首を返して奴らが来た元を窺い、いずれからも戻って来る奴も現れる奴もいないのを確かめて。俺は木から飛び降りると、一層速く道なき道を駆け始めた。
森の奥へと進むにつれて、獅子の匂いは濃く強くなる一方だった。誘拐犯の混血の匂いがほとんど紛れてしまうほどに。それがまた、この地の獅子が事件に関与しているのではないかという嫌な予感を掻き立てる。姫の匂いだけは、一筋の光明のように変わらずはっきりと感じ取れていたが。とにかく――
「マジか……」
果たして、と言って良いものかどうか。嫌な予感は当たってしまった。姫たちの匂いを辿った先には、洞窟が口を開けていた。誘拐犯どもの塒なんてもんじゃない。自然に開いた穴ではなく、切り取ったような四角い入り口。壁には複雑な模様を描く織物が、牙を思わせる装飾で留められて。地面も、草木は除かれ平らに均されて、色とりどりの石でモザイク模様が描かれてさえいる。
ただの洞窟というよりは、城門とでも言った方が良い佇まい――というか、ここはまさしく城だった。獣の王に相応しく堅牢な、獅子の牙城。戦士たちはクマルたちに掛かりきりなのか、見張りさえいない。
侵入すれば――そして、見つかれば八つ裂きにされる。だが、恐怖に竦んだのも一瞬のことだ。これで一つすっきりしたじゃねえか。人間側にも内通者はいるのかもしれないが、黒幕にいるのは獅子の奴らだ。そして、そこから導き出せるのは、クマルたちには足止め以上の役目は期待できないかもしれないということ。雪豹族が真っ当なルートで抗議しようとしたとして、獅子たちが自らの罪を知っているならのらりくらりと躱すはず。それか――口止めをしようとするか。
子供ながらに勇気を振り絞って背筋を伸ばしていたクマル。姫を俺に託した雪豹の戦士。ついでにエリオ。森の入り口にいるはずの連中の顔を思い浮かべると、心臓が凍って腹の方に沈む気がした。話をしようとしているあいつらに対して、獅子が牙を剥いたらどうなるか。だから、ここは俺がやるしかない。さっさと姫を助け出して、この嫌な森から皆で脱出する。獅子族への制裁は、その後で人間の国々や他の獣人の氏族が考えれば良いことだ。
だから、躊躇っている暇なんてない。「半獣」の身なら見つかっても雪豹族とは関係ないと言えば済む。そういう存在だからこそここまで来たんだ、今さら怯んでいられるか。
危険なのは承知のこと。あの雪豹とも約束しただろう。俺が、姫を助けるんだ。
獅子族にとっては何かしらの意味があるであろうモザイク模様を、踏みしめる。入り口だけでなく奥の廊下にまで続くそれを作り上げる手間暇はどれほどのものだろう。だから、この飛び地の縄張りを治めるのは獅子の中でも重要な地位にある者なのかもしれない。
獅子族全体が混血強兵の再現に関わってるのだとすると厄介だな……。
暗澹としながらも、これまで以上に五感の感覚を研ぎ澄ませる。獅子の匂いに染まり切ったこの城の中、染みついた古い匂いじゃなく新しい生きた匂いが近づいてきてはいないか。獣人が足音を立てるはずもないが、密やかな動きが空気を揺らすのが耳や肌に届かないかどうか。もちろん目に入るものにも十分な注意を払って。壁に掲げられた灯りが、不審な――俺こそ不審者だが――影を落としてはいないかどうか。俺自身の影も、死角から見られたりはしないように。
命のやり取りの危険があるのは同じでも、狩りの緊張と潜入の緊張は全く別のものだった。これまでの仕事でも経験がない訳じゃなかったが、獣人の縄張りに無断で立ち入ったことなど、ない。今にも獅子族と鉢合わせたら、持ってる魔道具をどう使うか、短剣で太刀打ちできるか、頭の中で思い描きながら、背が汗で濡れるのを感じながら、じわじわと進める。こんなとこでもまだはっきりと感じられる姫の匂いは、もはや道標のようなものだった。敵ではない匂い。安心できる、あるいは守るべき匂い。一刻も早く、辿り着きたい――
姫の匂いは、俺をある扉の前へと導いた。牢の造りに、人も獣人の種族も関係ないらしい。外からも分かる厚い扉に、頑丈な錠が掛けられて。洞窟状の城内を大分下った感覚があるから、地下牢とでもいったところか。湿ったカビの臭いが鼻をつくことから、中の居心地も想像がつく。中に姫がいることを確かめたいが、あいにく格子が嵌った窓は小さすぎて中の全貌を窺うことはできなかった。
だから仕方なく、扉を叩いてみる。中にいる者が誰であれ、怯えさせないように、そっと。誘拐犯みたいな乱暴な奴らとは違うと伝える意味もある。獅子族に気付かれるかも、とヒヤヒヤしながら数度、硬い木材を叩く――その音の残響が消えた後の痛いほどの静寂に耐えること、数秒。
「……何……?」
扉の中から返って来た声に、恐怖とは別の理由で心臓が跳ねる。ほんの少し話しただけだが、匂い同様忘れたりしない。あの時の溌溂とした調子とは打って変わって掠れて強張ってはいたが。
無事に――と言えるのかは分からないが。俺は、サララ姫と再会できたらしかった。