11. 雪豹たち
緑の草原に、煌く白銀の点が幾つか見える。と、みるみるうちにその点は近づいて、雪豹族の戦士たちの姿だと分かる。白い雪に覆われた高山ならば、白銀に黒の斑点は迷彩の役目を果たすんだが、この平地では眩しいほどの白は逆にひどく目立ってしまっている。
完全な豹の姿の者、二本足で立っている者――それぞれに取った姿は違うものの、獣人ならではの聴覚でいち早く俺たちの馬車が近づいているのに気付いていたんだろう、彼ら――もしかしたら女もいるのかもしれないが――の金色の目も白銀の丸い耳も、揃ってこちらに向けられていた。
「クマル様――」
「姫は? 獅子の縄張りって、どこから?」
音もなく軽やかに馬車から飛び降りたクマルの所作は、さすが、雪豹族の身体能力を見せつけるかのようなものだった。若君の姿を認めて畏まる戦士たちに駆け寄る時の、しなやかな足の運びも。
言葉遣いも幼いながら、上に立つ者らしく。当然のように報告を求めるクマルに、戦士たちも敬意を示して鼻先を押し付けて挨拶した。獣の姿になった雪豹族は、人間が四つん這いになったよりもずっと大柄だ。だからクマルは白銀の毛皮にほとんど埋もれるようになってしまった。
「サララ姫の――ついでに、あの混血どもの匂いは、確かにこちらへ続いています。ですが、あの森からは獅子の領域、迂闊に近づいては刺激することになりますので……」
戦士の一人が鼻で示した通り、彼らが屯していたのは深い森の淵だった。眼前に広がるのは、昼なお暗く、侵入者を阻むかのように蜜に茂った下生えと木々の太い枝と幹。黒々とした影から覗く金色の鋭い目は、恐らくは獅子の連中のものだろう。縄張りの境界近くに迫った不審者を警戒して、あるいは牽制のために現われた先兵だ。断りもなく近づくのはここが限度なのだろうと、金色の殺意に輝く目が教えてきていた。
「姫のことは伝えられた? 非常時だから縄張りに入らせて欲しいって言っても大丈夫かな……」
「不届き者がいるなら自分たちで捕らえる、疑われるような真似は不本意だ、とのことで。我々では、何とも……」
雪豹族の目が、縋るようにクマルに集まった。一介の戦士なら聞く耳を持たれなくても、陽を覆う影の谷の若君なら、と。期待が寄せられているのを感じ取ってか、クマルの尻尾がまた萎れ始めた。非友好的な獅子との交渉――たとえ大人だったとしても、喜んで臨みたいものではないだろう。ましてやこんな子供に押し付ける役目では、きっとない。だが――
「姫のためだ。やれるか……?」
白銀の毛皮を掻き分けるようにしてクマルに近づくと、俺はその細い肩を揺さぶるようにして抱いた。そうでもしないと、今にも倒れちまうんじゃないかと思えたからだ。すっかり弱気に倒れてしまった耳に、檄を飛ばす。
「お前は囮で良いんだ。獅子の奴らの目を逸らしてさえくれれば。俺が、様子を見てきてやる」
「ラヴィさん……」
だから、しっかりしろ。言外の激励を聞き取ってくれたのか、俺を見上げるクマルの目がゆっくりと瞬き、そして強い意思の力が宿った。
「そう、ですよね。僕がやらないと……」
自分に言い聞かせるように呟き、小さい頭がひとつ頷く。俺の手が置かれた方が大きく上下して、息を吸ったのが分かる。
「皆、聞いて。銀嶺の氏族と影の谷の氏族の名において使者を立てる。僕が長たちの名代になるから――でも、聞いてもらえるとは限らないから、エリオさんたちには転移陣の手配をお願いします。彼らの注意を惹きながら、長同士で話し合える用意を整えるんだ」
そこからは、堂々としたものだった。馬車の中で話していたことを整理して戦士たちに伝えるクマルは、確かに長の風格の片鱗を漂わせていた。
これなら大丈夫だろう、と支えていた手を外すそうとする――と、その前に俺の腕が下からぐいと引っ張られた。服の袖を咥えているのは、雪豹族の戦士の一人。もしかしたら谷の氏族から来たクマルの護衛なのか――見知らぬ者が若君に近づいているのが不快なのか、咥えられたところから不機嫌そうな唸りが伝わってくる。ギリギリの情けとしてか、服に穴を空けるほどの力は込められていなかったが。
「貴方は? 見たことのない方だが……」
「あ、この人は……」
身内の乱暴に、クマルが慌てたように声を上げるが、俺は勝手に自己紹介することにした。氏族に属さず、血統も曖昧な獣人をどう扱うかは面倒なもの。下手に気を遣われるよりは、自分で言ってしまった方が楽だと、これまでの経験で分かっていた。
「『半獣』のラヴィって呼ばれてる。今回のお見合い計画とやらのために雇われた傭兵だ。行きがかり上放っておけないからここまで来た」
「ああ、例の……」
相手の目に理解と納得の色が浮かぶまで、俺は金色の虹彩をじっと見つめていた。余計な詮索を言い出さないかどうか。俺の出自や両親について、あれこれと不躾に訊いてこないかどうか。箱入りのサララ姫や狩りもしないクマルと違って、長の血筋の護衛を任せられるだけの戦士だ。俺に流れる血、その源を嗅ぎ分けられたとしても不思議じゃないと思ったからだ。
だが、そいつはゆっくりと顎の力を抜くと、俺の服から牙を放した。俺の言い分を呑み込んで、それ以上突っ込まないでいてくれるという証だった。
「それは失礼をした。ご協力には感謝する」
「こちらこそ色々よろしく頼む」
クマルよりもずっと大きく重い雪豹の頭が、俺の腹の辺りにごつんとぶつけられる。挨拶に応えて俺も腰を落とすと、今度は俺の額にも。二本足の姿の連中とは、拳を合わせる礼を取る。
そうしてお互いに受け入れ合ったところで、人間も交えた作戦会議が始まった。
――といっても、道中クマルやエリオと話していたことを戦士たちに伝えるだけ、だったんだが。獅子の連中とまともに話すには雪豹の長たちの権威を持ち出すしかないのは彼らにも明白だったから、影の谷の奴らがクマルを前に出すことに多少難色を示したほかは、概ねすんなりと持ち場は決まった。――俺が、斥候の役を務めることも含めて。
「――猛き鬣の民に、雪の嶺の長がご挨拶を申し上げます。この地を統べる方に、お目通りをお願いします……!」
クマルの声は、少し震えてはいるが凛として良く通った。森の陰に潜む獅子たちにもちゃんと聞こえたことだろう。雪豹族を代表して名乗りを上げれば、真偽を確かめるためにも会ってみない訳にはいかないはず。無論、子供では話にならないと言われるだろうが、それなら雪豹の長を呼び出す口実になる。クマルが話している間に、エリオは転移陣を用意しているはずだ。
そして獅子の注意がそちらに向いた隙を突いて、俺が潜入する。
「姫の匂いは分かるのか……?」
「ああ、目の前で会って話したしな。ちゃんと覚えてる」
犬や狼の獣人ほどじゃないが、俺も鼻は利く方だし、故郷の山じゃ狩りだってよくした。それでも、一度会っただけの娘を、獅子の濃い匂いの中から嗅ぎ分けるのは難しいはず、何だが――姫へと続く糸が目の前に浮かび上がっていると思えるくらい、はっきりとあの良い匂いが感じ取れるのは不思議なほどだった。もちろん、口に出しても意味がないことだから、雪豹族たちに対しては自信たっぷりに頷いて見せるだけだ。
俺自身の匂いを誤魔化すべく、気休め程度かもしれないが地面に転がって草と土の匂いを纏って。エリオから借りた――というか奪った魔道具を、装備に仕込めるだけ仕込んで。俺は険しい斜面に対峙していた。クマルを待ちながら、戦士たちが探していた見張りの手薄そうな場所だ。つまりは、侵入するのが難しそうな場所、ということだが、俺ひとりならどうにでもなる。クマルが見張りの目を惹きつけてくれてるうちに迂回して――もしかしたら獅子の連中が道を塞いでいるかもしれないが――姫の匂いを探し出す。それを辿って、誘拐犯どもの行方を追う。そして、できることなら――
「依頼は受けたからな。姫を、助けると」
「頼もしいことだ」
雪豹族の一人が頷いたのを、俺は最初皮肉か何かと思った。傭兵風情が偉そうに、ってことかと。だが、そう呟いた奴の声も眼差しも落ち着いたもので、本心から言っているのが分かる。白銀の毛並みがやや煙るように落ち着いた色味になっている、多分年配の戦士だった。
俺の胡乱な眼差しに気付いたのだろう、そいつは照れ隠しのように尻尾で地面を軽く叩いた。そして金の目が笑うように細められる。
「貴方はどうもパドマ姫を思い出させる」
「うん……?」
唐突に出た女の名前に瞬くと、相手の目が今度は――なぜか――寂しそうに伏せられた。
「我らの姫……だった方だ。もう長くお会いしていないが。勇敢な方だった……」
「エリオから聞いたよ。駆け落ちした姫がいたってのは。……勇敢だろうと、女に比べられるのは不本意なんだが……」
「似ていると思ったのだから仕方ない」
恐らくは俺の親の年代であろう戦士が悪びれずに微笑んだのは、俺が言葉を選んだ気配を察したからだろうか。親の決めた結婚を嫌って逃げた雪豹の姫――そんな話は、エリオから聞いて初めて知ったように。少なくとも、表向きはそれで通せるように。
「気を悪くさせたなら済まないが。――パドマ姫もサララ姫も、我らは同様に幸せを望むのだ。だから、改めて頼む――」
雪豹の頭が、地面の近くまで低く垂れた。人でいうなら膝を折って希うかのよう。姫の幸せのためにはまず救出が必要、って流れなのは分かるとしても、俺に頼むのはちょっと意味が通らない気もしたが。相手の言い方も、気に喰わない部分はあったが。
「好きな相手と一緒になれたんなら、その姫様は幸せだろうよ」
「そう願う。だからサララ姫も――」
反抗的な受け答えも、年上の相手にはさらりと躱されて。俺は軽く息を吐いた。どうあっても頷かなけりゃいかせてもらえないようだった。
「分かったって。――俺にできる最善を尽くす。それで良いか」
「ああ」
金色の目が三日月みたいに細く笑った。どこか満足げな雪豹を軽く睨んでから、俺は彼らに背を向けると、森の中へと足を踏み出した。