9 不可能の中の可能性
「世の中には、二つの種類の人間がいる。精霊を見られる者が、共生者。つまり、お前は共生者。全く分かんない俺は普通の人間。で、共生者の中でも力が弱い奴ほど扱える精霊の種類も量も少ないから、扱える呪術も少なくなる。ほら、大体こんなもんだ」
そう言って砂浜に描いた片方の円の中に、小さな丸を書き足す。
「共生者っても大抵は土とか火とか、一種類の精霊しか扱えない。そういうのは、村や街で病人の治癒や家内安全の祈祷ぐらいしの呪術。これが呪術使い。もう少し高度に幾つかの種類の精霊を、複雑に呪術によって組み合わせて使役するのが呪術師。傷を早く治したり、植物を大きくしたりできるな。これは共生者の力次第でいろんな事ができるけど、そんなのは全体から見ればこの小さい丸くらい。で、さらにこの中に…」
中心に、ポツリと点を作る。
「魔術師だ。もう、この人達は歴史上の人物だな。魔術師だと自然を動かせるんだってさ。雨を降らせたり、山を動かしたり」
食べるのを忘れて、砂浜の円を見つめる。つまり伎妃は限りなくこの点に近い呪術師だ,多分。祈祷ぐらいの呪術しか見たことのないボクが、何をしてもかないっこない。
「でもな、お前は遠見ができただろ?しかも、昨日は呪文使わないでやってたじゃないか。それって呪術師でもしないぞ。旦那様のお目にかかってるんだから、自信持てって」
肩を叩き大丈夫と秀全は頷くが、ここまで聞かされて平気な訳ない。深く深く溜息をついて黒い夜明け前の海を見る。
どうしよう。先から同じ問題で堂々巡りだ。
「だれか、呪術を知っている方は…浩芳様!浩芳様は?物知りだし、あのお方なら」
「うん、まぁ、旦那様は、ウン」
思いついた恩人の顔に思わず秀全の袖を掴む。太い眉を、僅かに歪めて秀全はうな垂れた。
「商人だから、伎妃のような呪術師に勝てるような術を知っているはず、無いな」
「…そう、ですよね。は、はは。そうですよね。ゴメンナサイ、その、動揺してて」
震える手を、朝日が照らす。なんの考えもないまま、夜は明けてしまう。東の空と海の境界から、金色に輝く太陽が雲を蹴散らして現れる。肌に感じる太陽の温もりが、一瞬のうちに空を駆け巡る風の精霊を落ち着かせていく。黒い海は、見る間に深い青へと変貌していく。
もう朝はきてしまった。夜のままで良いのに、朝はちゃんと来てしまった。
「とりあえず、昼まで時間かせげ。俺もやれる事はやってやるから。な」
秀全の励ます声に、握り飯を口へ押し込んで首を振る。
「なんだよ。大丈夫だって、旦那様の力を借りて」
「ダメ、です。これは、ボクの問題だから」
借りるのも、もらうのも、この握り飯と秀全さんの言葉で充分だ。それ以上貰ったら
「きっと、ボクがダメになるから。ダメです」
口から零れそうになる米粒と、目尻の涙を、両手の平で押さえつける。これ以上、なにも零さないように。
ボクはもう、これだけ沢山の気持ちを貰ったのだから。
「エンの御腕のその中で 回り踊るエンリルの子よ 手をとれ 舞い落ちろ 母なるナンムの胎内に その身を一つに 舞い落ちろ」
天幕の上の雨雲がゆっくりと渦巻いていた。
新しく張られた天幕の前の砂浜には伎妃を中心に大きな円陣が描かれ、その周りには文字が絵のような美しさで複雑な曲線が絡み合うよに描かれ、四方に小さな香炉が紫煙を上げている。その香りに誘われて精霊達が集まってくる。
ハルンツには、風の精霊が周りから水の精霊をかき集めて、煙とともに空の雨雲み吸い込まれていくのが見えていた。
術が始まりかなり経つはずだが、周りの人垣が減る様子も見えない。それよりも、この村の住人以上の人が集まっている。隣近所の集落からも、噂を聞きつけた人々が集まってきているのだろう。
都から皇族が来ただけでも凄いのに、有名美人呪術師が術比べをするなど、この田舎ではこの先百年に一度あるかないかの出来事だ。
人垣の中心で、伎妃は汗で化粧を崩れるのも構わず、一身に祈り呪文を唱え続けていた。
「……」
息すら、そっと吐き出してしまう。
ハルンツは首だけ動かして辺りを見渡す。誰もが空を見上げている。深く笠を被り群集に紛れて様子を見ていた秀全も、口をあんぐり開けて膨れていく雨雲に見蕩れていた。
天幕の中で傅く下人や侍女たちでさえ、上空で雨雲がどんどん成長していく異様さに身動きできずにいた。その中で楊燕は杯を傾けている。こんな術は、見慣れているんだろうか。でも、雨を降らすのは魔術並みに難しいはずなのに。
「あ…雨だ、雨が降ってきたぞぉ!」
「本当じゃ、雨じゃ!雨じゃ!」
大量の水の精霊を抱えて膨らんだ雲は、ようやく雨を零していく。雨粒が叩き落ちて、音を紡ぎだしていく。
人々の歓声、賛美の言葉、雨水で締まる砂浜を踏みしめる足音、鳴り止まぬ手拍子、天幕や笠を叩きつける水音。
飛び跳ねる水滴とともに、術から解放された喜びを叫ぶ精霊達は四方へ逃げていく。
「見事じゃ。もともと雨雲はあったものの、雨を降らせることは容易ではないからの。下がって養生せい」
雨ですっかり乱れた円陣の中で、伎妃は崩れ倒れた。小さな悲鳴とともに、幾人かの侍女が飛び出して伎妃を抱えて天幕へと連れて行く。砂で汚れた伎妃が抱えられながら、ハルンツに微笑みかける。
ぼんやりと見送って、溜息をつく。倒れるほど一生懸命になって術を見せた。自分は、何をしたらいいんだろう。このあと、何ができる?
「さあ、ハルンツとやら。待たせたの」
楊燕の声に、群集のざわめきが引き潮のように引いていく。期待が満ちていく雰囲気に、ハルンツが息を飲む。
「そなたは、何を見せてくれるのだ?麿をあっと言わせたのなら、朱雀家の共生者として都へ連れていくぞよ」
何百もの人に囲まれて、逃げることも出来ない。無様なことも、出来ない。天幕を前に、周りには人垣が囲んで。
勢いの収まらない雨の中、ハルンツは立ち上がる。体を伝い流れ落ちる雨水が、足に張り付いた砂を流していく。
「さぁ、見せてたもれ」