89 千夜の向こうへ
まだ世の中の汚い所を見ていないだろう、澄んだ瞳がまっすぐにボクを見上げている。
ボクも、こんな目をしていたのだろうか。五年前まで、あの浜にいた時までは、おばぁが死ぬまでは、こうやって大人を見上げていたんだろうか。
「秋琥よ。それは出すぎた願いだ。その魔術は危険なものぞ。次期皇帝と決まったそなたにさせるものでは……」
「皇子は、なんで空を飛びたいんですか? 」
止める玄徳を制して、ふと疑問をぶつけてみる。浄眼を見据える皇子なら、なんという答えが返ってくるんだろう。その好奇心で聞いてみた。
「世界を、全てを、この目で見たいんです」
秋琥の澄み切った瞳に、微笑む。
「繁栄の術」は、無事に行使した。エリドゥに流れる大河の底に、そっとダショーの魂とナキアの心を鎮めた。だけど、残された心の傷は大きかった。
夜な夜な、かつてのダショーの記憶にうなされる事もある。自分は、砂浜にいた時の自分だろうか。ほんの僅かでも、かつての自分は残っているだろうか。自分の内面は、かつての自分とかけ離れてしまったんじゃないか。深淵の特殊な世界で、大神官と呼ばれ、奉られるように生活するうちに、何か変わってしまったんじゃないか。そう思えて怖かった。本当は不安で堪らなかった。
でも、小さな皇子の中に自分の心がある事に気付く。五年前の、灼熱の砂浜で空を見上げた時の気持ち。初めて大祓の術を行使した時の気持ちは、心の底でまだ燻っている。なら、きっと大丈夫。そう思えた。
ボクは、まだ世界を見ていない。狭い深淵に落ちただけじゃないか。
「空を飛ばなくても、世界は見れます」
そっと、秋琥の胸に手を当てる。
焦らなくていい。人は結果を早く求める。残酷な程、成果を見せろと、早く早くと。
「秋琥殿の胸に、全てを見たいという想いがある限り、毎日は素晴らしいものになる。上を見上げる勇気と底を覗く勇気があれば、自分は見失わない。世界は自ずと開けます」
次期皇帝という地位に生まれ、多くモノを背負った少年。生れ落ちた境遇は違うけど、自分と重ねて見ていた。
世界の全てを見たいと願う心があるのなら、きっと大丈夫。この少年は、まっすぐに生きていける気がする。ボク自身も、昔と変っていないはず。
「さて。秋琥殿にその勇気があるか。空を飛んで試してみますか」
「本当でございますか! 」
「うん。約束する。そうだなぁ……滞在の最後にも時間を作ってもらうよ。玄徳さん、どうかな」
玄徳を振り返ると、口を半開きにしたままで固まっていた。
「ハルンツ……この事が他国に知れたらどうする。一国の皇子をここまでの待遇でもてなせば、他国とて黙っていないぞ」
「じゃあ、他の国も同じにするさ。ボクの青い目を見てお願い出来るならね」
「そなた……随分と世慣れしてきたな……」
そう。ボクの目を見て頼み事が出来る人なんて、そんなにいない。ボクの青い目は心の奥底、魂を見据える浄眼なのだから。
五年前の大霊会の騒動から、ボクの目は灰色交じりの青から真っ青な青に変ってしまった。喉が声変わりをしたからか、ダショーの記憶を受けついだからか、何故か判らないけれど。
嬉しそうにはしゃぐ秋琥と玉葉を見ていたら、そんな事は些細なことと思えてしまうから不思議だ。
玉葉は、さっそく秋琥にお土産をねだりだしている。北方の高い山々の雪と、西の赤い砂漠の砂、南方の大きな睡蓮と珍しい果物。幼い口からよくもこれだけの単語が出てくるかと感心する。
「あとね、あと、うみのはてのなきかい! 」
「なきかい? 」
首を傾げた秋琥の代わりに、頷く。
「いいよ。それなら今夜にも届けるよ。だからほら、二人とも三線を習っておいで。時間なんだろう? 」
「はぁい! 」
「大神官様、約束ですよ! 」
飛び跳ねるようにかけていく子ども達とリリスの後姿に手をふると、早速玄徳とマダールが食いつく。
「今夜とはなんだ。ハルンツ、海の果ての泣き貝など拾いに行けるのか」
「玉葉も秋琥様も本気よ。子どもだからって、手先口先では騙せないわよ」
「大丈夫。その事をお願いしようと思って、お茶に呼んでもらったんだから」
マダールは玉葉の茶碗や菓子皿を片付け玄徳に寄り添うように座る。手の中の茶碗を置いて、二人を見る。
「時間を、工面してほしいんだ。こうやって、毎日茶飲み話しをしている時間が欲しい」
「毎日か? 政があるゆえ、毎日吾が相手をする訳にはいかぬが」
「私でもいいなら、時間を割と工面できるけど」
「誰でも。浩芳様達でもいいよ。王宮に呼んでもらってとか」
浩芳達は、李薗の邸宅に戻っていた。大霊会の奏者がマダール達に決まり、浩芳の狙い通り商売は大繁盛。三和屋の名声は高くなるばかりだ。秀全も、忙しそうに飛びまわっている。エリドゥにも構える店に来た時は、深淵の神殿にも顔を出してくれる。心の底まで打ち明けられる、数少ない友人だ。
「とにかく、ボクが一人で動きまわれる時間が欲しい。誰かとお茶を飲んでる事にしておいてくれないかな」
「何をするつもりだ? 春陽の都を物見遊山する気ではないであろう? 」
玄徳の問いに、無言で笑う。ここで、言う訳にはいかない。誰にも、言えない。
ニライカナイへ旅立った里の皆を、移動させる為だとは言えないんだ。
大神官になって、今だにダショーの偉業を思い知らされる。その存在は大きすぎる。五百年経っても、その血を求めて権力は動いている。今、里の皆が人前に晒される事があれば、醜い争いが起きるだろう。幼い子は血統目当てに親から離されるかもしれない。目を背け、耳を塞ぎたい事が起きる。戦を止めても、その現実を何とかしなくては、ボクは死ぬ事が出来ない。
里の皆を、権力の目から隠す事。これが、ボクの最後の仕事だ。
「いいんじゃない? ハルンツがやりたい事なら」
「マダール」
「だって、ハルンツは無茶はするけど、悪い事はしないよ。でしょ」
マダールが玄徳の手を取って、微笑む。変らない白い手は、ポンポンと幼子をあやすように大きな玄徳の手を叩いて包む。
「それを一番知ってるのは、親友の貴方とあたしじゃないの」
「……深淵では、出来ぬのか? 」
「あそこは駄目。コムが心配するから、出来るだけ水鏡で飛ばない事にしてる」
「そうだな。あれは、見ている者が肝を冷やす。コム殿なら、そなたの体を気使って当然だ」
「コム様、ハルンツの事で随分と心配されてるよ。いっその事、結婚しなさいよ。きっと安心するわよ」
「結婚は出来ない。コムにも、そう言ってある」
途端、二人から抗議の嵐が巻き起こる。予想をしていたとはいえ、あまりの激しさに耳が痛い。大人になって、ここまで頭ごなしに怒られるとは思ってもいなかった。
「信じられない! あんなに愛されてるのにっ。大体、ハルンツが最初に惚れたんでしょっ」
「そなた、聖婚という手を使わぬか! あれほどの女子を放っておくか! 」
「だから……ダショーの血を、残す訳にはいかないんだ」
正直に打ち明けると、二人の目が暫く瞬き文句を言いかけた口が閉じていく。
この二人は、正直に言わねばいけなかっただろう。そう思い知る。ボクらの事を心底、心配してくれている人達なんだから。
「世界は、呪術なしでは回らない。権力には、ダショーの力が必要とされている。でも、そんな世界では、ボクの子や孫まで縛られてしまう。もう、ダショーやナキア妃の血はボクで終わりにしないと……いつか血を巡って争いが起きる。五年前だって、ボク一人が出てきて随分と世界が揺れた」
故郷を焼かれた。この身を狙われた。地の果てまで逃げろと言われた。そんなの、ボクが最後でいい。
子を想い狂うダショーのような思いは、身が焦げるような悲しみは、味わいたくない。
幾度も悩み考え抜いたこの結果をコムに話した時の顔は、一生忘れられないだろう。
ボクとの子を抱けない。その悲しみに泣いたコムを、ただ抱く事しか出来なかった。
好きになった相手が、ボクでなかったら。ボクがコムを巻き込まなかったら。何度も考えた。それでも、ボクはコムの手を離せなかった。共に、生きて欲しいから。
ボクらは、結婚をしない。誰からも、子を残せと言われない為に。
それでも、共に生きていこう。それだけは固く誓い合った。
「そうか。そうだな……その血は、世界の秩序を守るものでもあり、狂わせるものだ」
「コム様も、納得してるのね」
「うん」
「なら、何も言えないな」
「だからさ、いつか呪術がいらない世界がやってくるようにしたいんだ。大魔術師の血統がいらない、そんな世界」
「そうだな。いつか、そんな世が来るように吾も目指してみよう」
「くるといいね。どんな世界かなぁ」
「戦など起きぬだろうな。呪術師は皆、過去のお伽話になっている世界ではないかな」
「お伽話か。いいね、そういうの」
三人で、空を見上げた。
青く澄み渡った空に、真っ白な入道雲が浮かんでいる。この国で最も忙しい太極殿から離れた奥殿には、小鳥のさえずりと風がそよぎ葉が揺れる音しかしない。
穏やかな昼下がり、少し夢を見たっていいじゃないか。いつか、河の底に沈んだダショーの魂も生まれ変わる。いつか、深淵の神官ではなく、ただの旅人として世界を歩き回る。いつか、コムと穏やかに子を成して生活している。日々の糧をこの手でつくり、細々だけど気兼ねなく暮らせる。そう夢みても、いいじゃないか。
いつか、夢でなく、現実になると願って。
ボクの魂が、何度もこの世を駆け巡って、いつか穏やかに暮らせるのなら、無謀な程の夢だけど叶えてみせよう。
「さて、そういう訳だから」
夢を見てばかりではいられない。
勢いよく立ち上がり、池の端へと歩く。
「ちょっと待った! ハルンツ、そなた水鏡でどこか飛ぶつもりだな! 」
「夕刻には、王宮で宴があるのよ! 」
慌てる二人が同時に立ち上がる姿に、苦笑する。似たもの夫婦だ。仲のいい事は、よいことだ。
「大丈夫。ちょっと南の果てまで行くだけだから。玉葉と秋琥に泣き貝のお土産、ちゃんと持って帰るからね」
「海の果てって……待て!」
素早く、蓮の花の影が揺らめく水面に身を落とす。
二人の慌てる声を意識の端で聞きながら、体が解けて粒となって飛んでいく。僅かに感じる、温かい水の気配に心が躍る。
巨大な入道雲に咲いた青い蓮から零れ落ち、一気に空を降下。視界に映るのは、青い海と緑の海。全てが限りなく透明で、世界の果てで海と空が溶け合っている。
その青と緑の世界に、珊瑚礁と白い砂浜で囲まれた島が一つ。風の精霊をまとい、羊のように浮かぶ雲をつきぬけていく。
さて。泣き貝のお土産も探さないといけないけど、やる事がある。
大きくなってくる島の姿に、動悸が早まる。
あれから五年。
里での生活は、嫌だった。父さんから殴られる事も。ダショーの子として忌み嫌われるのも。海と砂浜が全てだった、窮屈な世界も。
それでも、ボクはここに帰りたかったんだ。
高鳴る胸の音に、その事を確信する。
「あぁ……全然変んないや」
全てが懐かしい。珊瑚の欠片をまき散らし風の精霊を解放しながら、白い砂浜に降り立った。
肌を刺す強い陽の光。足の裏を焼く砂。体に染みていく波の音。胸いっぱい息をしたくなる、潮の香り。
大神官の証でもある紫の袴をたくし上げ、波打ち際を歩く。
五年間ですっかり骨太になった足首まで冷たい海水に浸りながら、歩いていく。あれから伸びた背をさらに伸ばして、遠くを見る。やがて、人影が見えるはすだ。
そう、ボクの父さんが、里のみんながこの先にいるはず。
ボクの最後の仕事。里のみんなをダショーの血統を権力から隠すには、どうすればいいか。
花を隠すなら、花畑の中へ。魚を隠すなら、海の中へ。そう、この血を隠すなら、人々の中に混ぜてしまえばいい。
いくらニライカナイが大陸から離れた孤島とはいえ、航海術が進むだろう未来まで逃げおおせられない。なら、大陸の人々の中でひっそりと過ごせばいい。広い大陸といえども、辺境の地なら沢山ある。
そして、その地の人々と交わっていけばいい。いつか、このダショーの血が薄まっていくだろう。広まっていくだろう。そうすれば、誰もがダショーの血を持てば、何も不思議ではなくなる。この血統を巡り争う事も起きないはずだ。
この事を、みんなに納得してもらおう。
何から、話せばいいだろう。
五年間に起きた事は、沢山ありすぎる。
信じてくれるだろうか。ボクに、託してくれるだろうか。みんなの未来を、まだ見ぬ子や孫の運命を、託してくれるだろうか。
不安と、期待。打ち寄せ引いていく波のように気持ちが入り乱れる。その気持ちを、冷たい海水が少しずつ落ち着かせていく。
やってみよう。ここまで来て、逃げる訳にはいかないんだから。
眩しい太陽を見上げ、そう腹を据えた瞬間に懐かしい声と盛大な水しぶきが聞こえる。
向かう先の波打ち際で、人影が飛び跳ねた。ボクの名を叫ぶ声が聞こえる。走り出してくる人影もいる。あの晩、椰子酒をまき散らしてケンカした青年の顔も。芋粥を用意して世話を焼いてきたおばさんも。みんな、少し痩せていた。少し、大人っぽくなり、老いていた。そして、新しく生まれたボクの知らない顔の幼子も。
村人達が叫び、走り出し、立ち尽くす中で、ボクは見つけた。
小さな丸太船の横で銛を手にして、波打ち際で立ち尽くす父さんの顔を見つけた。薄くなった頭にも無精ひげにも白髪が混じり、随分と痩せた大男になった姿。頬骨の浮き出た父さんの顔に驚きと、戸惑いと、歓びの表情を見た途端、ボクは走り出した。
白い砂を蹴り飛ばし、水しぶきを上げて波を踏んで、走り出していた。
「ただいま! 」
力の限り、両手を振って叫んだ。歓声が答える。駆け寄った人々の輪の中に、飛び込んでいく。
ボクが夢見る未来は、遠い。限りなく遠い。でも、いつか笑って振り返るんだ。
クマリと、李薗と、エリドゥを包む、眩しい青い空の下で。陽の光の中で。
千夜を越えて 終わり
ここまで読んでくださって,ありがとうございました。
これで,『千夜を越えて』は終わりです。
次のページは,『お断り』を含むあとがきです。読んでもいいよ,という方のみ,お進みください。
ここまで,ありがとうございました。
追伸
『千夜を越えて』の約五百年後の世界を舞台にした続編『見下ろすループは青』,連載開始しました。また週一で水曜日にチマチマとUPしていく予定です。 (09.9.6現在)