88 木漏れ日の下で
木漏れ日が、揺れる。懐かしい強い日差しが、また巡ってきた。爽やかな風を堪能して、そっと目を開ける。
李薗の都、春陽の中心に佇む王宮。その中で最も静かな奥殿の中庭は外界の喧騒とは別世界。敷き詰められた石畳。優雅な風情を作り出している蓮池。心地よい日陰を作り出す大きな樹木。その下に陶器で作られた円卓。卓上には、香芳を漂わす茶と細かな細工が施された茶菓子。
ハルンツの横に座っているのは、漆黒の髪に赤い華を飾った幼子。色白で丸みのある頬に、餡子をつけて白磁の茶碗を傾けていた。
「ハルンツしゃま、たべないの? 」
「食べるよ。でも玉葉の食べっぷり見てたからさ」
「安心しろ。この大神官様はな、食い逃げするぐらい食べる事が好きだ」
「随分と昔の悪事を言わなくてもいいじゃないですか。大体、玄徳さんだって食い逃げ仲間なんですよ」
「そうだな。吾の人生最大の悪事だ。あれから、もう五年もたったか」
そう言い、玄徳は優しい笑みを浮かべて懐紙で玉葉と呼ばれた幼子の頬を拭う。その横顔には、逞しさが漂い以前より鋭い目元になっていた。それでも、愛娘の前ではすっかり穏やかな顔になっている。身につけている衣服は、李薗でただ一人着衣が許される勾玉を掲げる鳳凰が金糸で刺繍された豪奢なものだ。
五年の歳月は、全てを激変させていた。
御前披露の儀での騒ぎ。今では有名な物語になっている。なんでも、旅役者が勝手に話を作って語り歩いているとか、いないとか。
突然、空から降ってきた神官は大神官を名乗り、大魔術師エアシュティマスの如き魔術を行使した。李薗帝国は皇位の移譲。エリドゥの王妃は、「大神官」を刺した。これだけの事実を織り込めば、確かに半端な話よりは面白いのだろう。当事者としては、不思議な感覚だけれども。
とにかく、意識を失って目を覚ます二日間は雲上殿を中心として大騒動だったらしい。
「自分が誤まって王妃の髪飾りの前で転んでしまった」
かなり苦しい言葉を繰り返し、「問題には及ばず」と宣言した時、ベザド王子は深く頭を垂れて動かなかった。ただ、傍らで崩れ倒れる王妃の手を握り、何度も謝意の言葉を繰り返した。
国に帰り、王子は全ての責を背負うと北の国境へ自ら赴任しているらしい。王位継承権も新しく生まれた弟に渡し、自ら王族から臣下に下る事を願い一介の将軍として職務に励んでいると聞く。もちろん、王妃も僅かな侍女を連れて、厳しい環境の中へ着いて行った。それだけが、ハルンツの慰めだった。
エリドゥ王国の国王は、王妃が王宮を出てから体調も回復したらしい。来春にも、新しい王子か王女が誕生する予定だ。突然の王の回復に、かつての悪行から王妃を疑い責める声も多いらしいが、ベザド皇子と共に辺境へ身を隠した王妃を捕らえる様子はない。王は何も言わずに、二人を辺境へ見送った。それが、一時といえ親子と夫婦の縁を持ったベザドと王妃に対する想いなんだろう。
クマリは、新しい族長となったジクメが妻を娶った。異母兄妹のアシだ。
最大の難関と思われたジクメの母は「他の娘より、勝手知った昴の娘ならば良い」と、ジクメが拍子抜けするほど承諾したらしい。かつての側室の娘という事で身構えていたのは、ジクメとアシだけだったというわけだ。今は上屋敷で嫁姑として仲よく暮らし、ジクメは尻にひかれていると聞く。
グムタンも、大霊会で明らかになったクマリへの忠誠を買われ、重臣として手腕を振るいつつもジクメとアシをからかっているようだ。あの人らしい。
そして一番環境が変ったのは、ボクと玄徳だろう。
あの後、深淵の神殿で大神官として迎えられた。
だけど力はあっても、神殿の事も学問も小さな稚児より知らない。その為の講義と合わせ、日々行われる神殿の儀式もある。まだ神殿を治めるまでの力はないし、知らないことも多いのに、やる事だけは山のように用意される。
今回、李薗帝国を訪れたのも、その一つだ。
次期皇帝と決定した白虎家の皇子に『万礼の儀』を行う為だ。
無事、数え八つに成長した子どもに祝福を与える儀式。大神官自ら赴き行う事で、神殿の威光と李薗との繋がりを持つ為だ。
李薗側も、同様の下心もある。が、何より久々に玄徳に会える事が嬉しかった。大霊会からのドタバタ以来、ゆっくり話すのは自らの『戴冠の儀』以来なのだから。そして、玄徳とマダールの愛娘の玉葉に会える事が最大の楽しみだった。
二人は、結婚をした。
「やっぱり、ここに来ていた。これ、玉葉」
「だって、ととしゃまとハルンツしゃまと、おかしたべたかったんだもの」
「おかしは八つ時と決めたでしょ? 玄徳は玉葉に甘いんだから」
長い袖に胸の下で留めた裳の李薗の着物に身を包んだマダールが、石畳をかけてくる。その軽やかな動きは、天女のようだ。以前より美しくなった表情を見て、眩しく目を細めた。
皇位を継ぐ玄徳がマダールを説き伏せ結婚したと聞き、マダールが身分違いと悩んでいないか。それだけが心配だった。一度マダールが玄徳と別れた事を知っているから、尚の事。どうやって説き伏せたかは、何度聞いても未だに話してくれない。ただ、幸せそうに微笑まれるだけだ。
とにかく、玄徳は正妻の座を開けたまま「今代の奉納奏者」という肩書きを使って第二夫人として籍を入れた。もちろん、第三も第四もいない。妻はマダール一人のみ。
二人の間に生まれた娘は、今目の前で茶を飲んでいる玉葉だ。
漆黒の髪は玄徳譲りだが、色白の肌や緑の瞳はマダール譲り。勝気な性格と確かな楽の才もだ。先に演奏してくれた三線は、小さな手からと思えぬほど確かな音と拍子を持っていた。
「しかたあるまい。吾は美人には弱いのだ。玉葉は母様に似て美人になるぞぉ」
「はいっ。うつくなって、しゅうこしゃまのはなよめになります」
玉葉のあどけない宣言に、玄徳は笑顔のまま凍りつく。笑いを必死にかみ殺しながら、マダールが耳元で解説をしてくれた。
「秋琥様ってのは、白虎家の皇子様。ほら、昨日『万礼の儀』でハルンツ会ってるでしょ」
「あぁ……あの皇子かぁ。いいんじゃない? 賢いしきれいな魂の皇子だよね」
「ハ、ハルンツまで言うかっ。玉葉は嫁にはやらぬぞ! 玄武家の跡取り故、婿をとらせるっ」
「またムキになる。あ、噂をすれば秋琥様だわ。最近はね、リリスの下で二人で三線を習ってるのよ」
皇帝の私的な生活の場である奥殿の中庭に入ってこれる人物は数少ない。
木陰の茶席に現れた小さな皇子は、礼儀正しく頭を垂れて李薗風のお辞儀をした。
「陛下、大神官様、おくつろぎの所にお邪魔し申し訳ありません。三線を習う時間になりましたゆえ、姫を迎えにまいりました」
子どもとは思えぬ言葉遣い。その仕草。玄徳が次期皇帝としただけはある。
「悪いわね。そういう訳だから玉葉様を預かるわよ」
「まだ茶を飲んでおるっ」
「秋琥様も一緒だからって、そう興奮しないの」
「興奮などしておらぬっ」
もうすぐ三十だろうと思うリリスは、変らぬ美貌で微笑む。リリスは、マダールの私的な家人として相変わらず近くで見守っている。最近では、貴族の子弟に楽の手ほどきもしていると聞く。玄徳をからかうのも、相変わらずのようだ。
「大神官様、しばらく李薗に滞在されると聞きましたが」
「うん。そのつもりだよ」
「お聞きしたい事があります」
玄徳とリリスのやり取りを聞いてると、秋琥の澄み切った黒い瞳に見つめられていた。
手にとった茶碗を陶製の机に戻し、改めて向かいあう。
青い浄眼に見据えられても、微動だにしない。その肝の据わり方に、思わず笑みが零れた。いい子だ。
「五年前の大霊会で、大神官様は空を飛んで舞い降りたと聞きます」
「それは少し違うなぁ」
「うむ。あれは、空からまっさかさまに落ちたと言い換えるべきだ」
「うん。あれは『落ちた』だなぁ」
「でも、空を飛んだのでしょう? 陛下もご覧になったのでしょう? 」
ハルンツと玄徳の修正も気にせず、秋琥は見つめ続けた。
「秋琥も空を飛びとうございます」