83 前奏
真っ白な雲と青い空が、眩しい。
目を開けて飛び込んだ風景に、しばし見蕩れる。風を感じる頬が微笑みを浮かべるのが判る。ゆっくり息を吐き出すと、体中の緊張が解けるのを感じた。全て、夢ではないと実感する。この空は浜と同じなのに、今までが夢ではなかったと確信する。
それでも、嫌ではない。
ダショーの魂を受け入れた事も、戦の真ん中に来てしまった事も、後悔はない。得れたモノは、沢山あるのだから。
「お目覚めです! 目覚められました! 」
「お屋敷様を呼びに行け! 早く! 」
騒々しい声が、穏やかな目覚めを遮った。側からの声に、思わず眉を寄せて起き上がる。慌てて起き上がらせる男から炭のニオイがした。そして、辺りの空気が澱んでいるのを感じる。耳の底に届く不快な振動に気付く。
思わず、辺りを見渡す。白州の上に敷かれたゴザの上で寝かされていたようだ。焼け焦げて屋根が崩れたグムタンの屋敷を見上げて、息を飲む。主屋敷だけでなく、奥の屋敷まで燃えて崩れてしまっている。日は上り昼の手前ほどだ。どれ程眠っていたのだろう。
「水をお飲み下され。重湯もじきに持って来させます」
「いえ……ボクは何時ほど寝ていましたか? 火事で怪我した人とか」
「丸1日、というところでしょう。大丈夫ですよ。消火で火傷した者もおりましたが、みな軽く済んでいるようです」
思わず安堵の息をつき、差し出された茶碗を受け取る。水を口に含ませながら、辺りの気配に注意を向ける。この不穏な雰囲気はどこからくるのだろう。慌ただしく人々が立ち動いている表の方に目をやると、一陣の人達が駆けてきた。
「おぉ、目覚めましたか」
「どうしたんですか、その格好」
先頭を駆けてきたグムタンは、その巨体を鎧で包んでいた。動くたびに、金属の音が窮屈そうに鳴る。その様子に思わず立ち上がる。
「動ける所を見ると、体は大丈夫ですな。他は? どこか不調な所はないかね」
「はぁ、まぁ、多分」
「多分では困りますっ。そのお心は、どんな具合なんどす? どこもお変わりありまへんか? 」
鮮やかに勾玉を染め抜かれた袖をまくり額に手を当てようとするコムに、視線が動かせない。これが上級の神官の衣装なのだろう。その美しい藍色の袴姿に見蕩れつつ頷いた途端、頬を叩かれた。痛みで熱を帯びる左の頬に目を丸くすると、コムに右の頬を叩かれた。周りで小さな悲鳴が起きた。
「どうして勝手をしたんどすか! エアシュティマス様の魂と同化するなんて、そないな無茶をするんどすか! どうして勝手に斗の屋敷に乗り込む事をしたんどすか! なんで、そんなに自分ひとりで抱え込もうするんどすか! もう、勝手はしないでおくれやすっ。どれだけ、どれだけ心配したと思うとりますのん? もう、もう、一人で勝手に行かないでおくれやす……今度は、今度勝手する時は、私も一緒しますん。そやさかい、もう……」
頬を叩いた手を上げたまま、コムの瞳から涙が零れていく。そのまっすぐな気持ちが叩き付けられた頬をさすって、頷く。こんなにも、心配してくれる人がいる。ボクを見てくれる人がいる。勘違いしていいだろうか。この人も、ボクの事が好きと。ボクが思うような感情で、ボクの事を好いていると、そう思いこんでいいだろうか。
そう思ったら、振り上げたコムの手を両手で包んでいた。そっと、胸の前で、コムの手を包んでいた。
「一緒に、いてくれますか? ボクと一緒に」
そしたら、ボクは何も怖くない。何も恐れるものはない。
「一緒に生きて、くれますか? 」
ダショーがナキア妃を求めたように。ボクはコム、貴方を求める。それは、許される事だろうか。
「えぇ……うっほん!!」
高鳴った心臓が、わざとらしい咳払いに止められる。コムしかいなかった視界に、周りが見えてくる。真っ赤になったコムが、両手を引っ込めてしまう。グムタンの背中から、懐かしい顔がベザドと共に現れる。
「何やってるんですか。まったく。ウチの殿のボケがハルンツにうつっていたとは」
「義仁さん! 」
「陳達も連れてきましたよ。今は手が空いていませんがね」
そう義仁が視線だけ飛ばす先を見て、固まる。
清らかに掃き清められていた表門には、幾十にも武人が取り囲んでいる。弓矢を構え、弦を引けば矢が放たれる寸前の喧騒がそこにある。投石機が白州の土を抉り運ばれている。白い玉石は蹴散らされて、その上を幾人もの人が走り回っている。ここは、戦場になっていた。不穏な雰囲気、嫌な振動がするはずだ。
ボクが寝ている間に、何が起きたんだ。
「ファリデ王妃殿下がとうとう兵を出したんじゃ。王子を人質にワシが挙兵したとな」
「申し訳ありません。吾の我がままで屋敷に留まったゆえ、母上に疑心を持たせてしまった。まさか、兵を使ってでも吾を連れ戻そうとするとは」
「うむ。火事を逆手に取られたわい。まぁ、不幸中の幸いだ。大連で孤立していた今の状況故に、クマリがエリドゥの王子を人質にした訳にはならないからの。ジクメもその辺りの事情は察しておるな。援軍をよこさずに、うまくエリドゥ側の行く手を理由つけて防いでおるから時間が稼げておる」
「でも、いつまでもこの状態では……。我ら玄徳殿下の命により、近衛隊もお手伝いいたします」
「かたじけない。しかし……李薗まで戦に巻き込んでしまいますぞ」
「避けられぬのなら、最善を尽くすまで。そう、殿は仰っておりました」
グムタンと義仁の言葉を聞きながら、ハルンツは首をかしげた。何か、おかしい。
顔を上げて、ベザドの緑の瞳を見つめる。耳を澄ます。
「戦は、まだ起きていない。でも、何か始まる」
空気は、よどみ始めた。でも、遠くに、もう一つの音が聞こえる。これは、希望の音。恐怖を見据える音。清らかさを保つ、振るえ。
「御前披露、どす。こんな状況やけど、強行する事になったんどす。各王族も参列してるようどすわ。もちろん、エリドゥの王妃はんも」
コムの言葉に、思わず雲上殿の方角を見る。確かに、振動はそこから来ている。頭をよぎった考えが、顔に出たのだろう。義仁は眉を寄せて頷いた。
「えぇ。マダールとリリスが参内していますよ。あの二人も最善を尽くしたいのだそうです。浩芳殿の言うように青族へ逃げればよいのに。まったく……戦が始まるのに御前披露ではないでしょうに」
「だから、やらなきゃいけないんだ」
今なら判る。澱む空気は、人の不安から、苛立つ心から、恐怖から、生まれる。だからこそ、清らかな音を立てる必要がある。
「クマリには、世界を調律する役目がある。ここで、戦があるからと、投げ出す訳にはいかないんだ」
ジクメとアシ達のクマリ族としての誇り。楽師としての誇り。王族としての誇り。
「ベザド王子。戦を、止めるつもりなんですね」
緑の瞳からは、清らかさしか感じない。この人の腹は決まっている。
「ハルンツ殿は……なんでもお分かりのようですね。エリドゥの海軍将軍に話をするつもりです。大丈夫です。彼は母とは幼馴染み故に気心しれています。吾も……幼い頃から剣術の指南もしてもらった。ハルンツ殿、お分かりでしょう? おそらく、吾の半身は」
「そこまでで、いいです。それ以上は、ここでは言いません。言ってはいけません」
「これだけは、確認しておきたかった。よかった。貴方の青い瞳を見て確認できて。これで心残りはありません」
穏やかな緑の瞳が、寂しげに伏せられる。あぁ、この人は知ってしまった。
ベザド王子から、ナキア妃の血のニオイが少なかった理由。それは、ナキア妃の直系である父王の血を引いていないから。その海軍将軍が、血の繋がりがあるのだろう。それは、彼の王族としての地位を貶める真実。
ファリデ王妃が守りたかったものは、ベザド王子だけ。その立場を確かにするためなら、あの人は何だって出来るだろう。
だって、母だから。 ナキアと同じ、母親なのだから。
「だから、大丈夫です。吾の身をもって、エリドゥの手を止めます。グムタン殿、最後まで迷惑をかけて申し訳ないが、玉獣を御貸し下さい。将軍に会いに行きます」
ベザドの告白に、全員が黙ってしまう。重苦しい空気が漂う中、ボクは溜息をついて空を見上げる。
青い空に浮かぶ、白い雲。その下に輪を描いて飛ぶ、白い大鷹。主だ。
広い大気の下で、ボクらは何をやっているんだか。なんて、小さいのだろう。
表門から、一際大きな音が響き渡る。大門を、叩き壊そうとしているのだろう。抑えようと人垣が出来るが、音とともに少しずつ崩れていく。
大地を蹴散らして、何をやっているんだろう。今すべき事は、争う事じゃない。そう、ここにいる人全て、争う為にいるんじゃない。
ボクら、ここに生まれた理由は、そんなんじゃないはずだ。
「あぁ」
零れていく。震えていく。体の中から溢れる祈りを、喉を震わせて空気に伝えよう。
空気に解けたボクの祈りが、広がるように。この美しい大気に、広がりますように。
「 ボクらは唄う 母なる大地に感謝を込めて ボクらは唄う 大地の上から光輝き唄う星 」