82 ボクが出来る,精一杯を
この唄は、海で死んだ者の魂を呼び寄せる唄だと思っていた。
事実、故郷の浜では残された家族が唄っていた。海に向かい、声を震わせ、唄っていた。
大事な人の魂を呼び寄せる為に。海の底で悲しみに暮れる魂を、救いあげる為に。
でも、そうじゃなかった。
青い炎に身を焼かれながら、確信した。体に流れる血潮の中の、幾代と流れるナキアの血から、光が湧き出すのを感じていた。
愛しい人の魂に、声の限りに叫ぶ唄。その魂返しの唄は、届いていた。
光が囁くのを、感じた。ダショーにも聞こえたのだろう。大きく目を見開きボクを見つめている。
鬼神のように迸っていた青い炎は、いつの間にか消えていた。
『貴方は私の魂を響かせた。だから、私はここにいる。貴方の眠った祠を守る血潮の中にいる。ずっと、貴方の傍にいたのよ』
海の向こうからダショーが唄った歌声は、エリドゥのナキア妃に届いていた。ナキア妃の魂は、その心は、タシが繋げた浜の一族の中で生き続けていた。
魂返しの唄を唄い、互いを呼び合っていたんだ。五百年も、ずっと傍に居たんだ。貴方は、一人じゃなかったんだよ。
「 その手でもう一度抱いておくれ その声でもう一度囁いておくれ 」
大丈夫。ボクはここにいる。ナキアはここにいる。
「 泣け泣け海よ さめざめ唄え 帰っておいで 荒れる海の向こうから 帰っておいで 私の宝よ 私の宝よ」
格子の中を燃やし尽くしていた青い炎は、消えていた。
全身を被った炎も、消えていた。
目の前のダショーの姿が、ゆっくりと薄らいでいく。先の冷たい微笑みは無くなっている。少し、寂しそうな微笑を浮かべていた。
『私は一人ではないと、そう言ってくれるのか? ナキアが傍に居てくたと』
「ナキア妃だけじゃない。ボクも、傍に居る。ボクも、貴方と共に生きていく」
青い瞳に、断言する。
目の前に悲しみを抱いた人がいるのに、それを見ぬ振りなんて出来ない。見ぬ振りをして抱く辛さより、共に悲しみを受けた辛さの方がいい。ずっと、耐えられる。
『嬉しい言葉だ。何よりも……嬉しい言葉だよ。だが、私の魂は、もうすぐ消える。解除に、残された力を使ってしまった』
微笑むダショーの姿は、どんどん光が弱まり輪郭がぼやけていく。淡い光は、ゆっくりと近づく。
『私はエリドゥに報復をしようしていたのに……ハルンツはそれを望まないのだな。何という事だ。私は、なんの為に、覚醒したのだろう』
「判っています。いえ、ダショー様と同じ目に遭えば、ボクもそう思ったと思う。けど、けど、「繁栄の術」を解除しては関係のない人々が巻き込まれてしまいます。戦を望むは僅かな人のみ。だから、戦だけは避けるべきだと思うんです! 」
背後で短く息を飲む音が、たじろぐ気配がする。
「「繁栄の術」を、解除? 」
「神殿側が伝える、王国がエアシュティマス様に要求した「永遠の繁栄」でっしゃろか……まさか、そんなんしたら」
「どう、なるんですか?! エアシュティマス様、我がエリドゥはどうなるのですか! 」
ベザドの悲鳴のような問いに、ダショーは微笑んだままに問いかけた。
『繁栄とは何だと思う? 国の繁栄に必要なものは、賢い王や官僚もあるだろう。だが大切なものは、土と汗にまみれて働く人だ。さらに肥沃な大地に天の恵みが無くては、民がいくら努力しても実りはない。その天と大地の恵みの鍵、エリドゥの場合は二つの大河が握っている。判るか? エリドゥの王子よ、よく憶えておくがいい。神殿はエリドゥ王国の首元に刀をのせている。エリドゥの存亡は、神殿が握っている。決めたぞ、ハルンツ。私は、再び「繁栄の術」をかけよう』
「エアシュティマス様……」
「ダショー様、何を言ってるんですか! 」
光の中、ダショーは微笑む。ほんの少し、寂しげに。だけど、誇らしげに前を向いて。
『氾濫する二つの暴れ河を押さえる。この魂を河に捧げる。これが「繁栄の術」の答えだ。脅されて行使した術だが、今や神殿の宝刀になったようだ。確かに今回の戦を収め物事を優位に進めたいのなら、「繁栄の術」はエリドゥをはじめ各国に掲げる最高の武器になる。だが、この術は大きい代償がある。魂を捧げるという事は、死しても魂を囚われるという事だ。生まれ変わる事は出来ない』
自然を操るという、最も高度な魔術。その代償が魂という事は、本当だろう。現に、目の前のダショーは五百年も幽体でいたのだから。たった一人で。
先の青い炎が見せた闇は、代償の叫び。
『生まれ変わる事など考えていなかった。大切なのはナキアとタシが生きていく事だけだった。魔術を行使するのに、躊躇いなどなかった。エリドゥの存亡など、何とも思わなかった。怖いものなど、無くなっていた。でも、その思いと同じなのだな』
青い瞳が、まっすぐに見据える。遠く聞こえる炎の爆ぜる音も、消えた。
静かな声で、はっきりと言葉を出した。ボクの気持ちを。想いを音にして。
「ボクは、みんなが生きていく世界がいい。大事な人達と、生きる世の中がいい。だから、戦を止めたいんです」
『そうか……かつての私の想いと、同じ想いをハルンツは抱いているのだな……』
「ダショー様。判ってます、貴方の気持ちは、ボクは」
『優しい子に育ったのだな。大きくなったのだな。私の宝よ。ならば、躊躇うものなど何もない』
「だから、教えてください。「繁栄の術」のやり方を教えてください。今回は、ボクがかけます」
『それほど、容易い術ではない。それに……ハルンツ、私に魂の親として出来る事をさせておくれ。私の最後の想いを受け取ってくれまいか』
再び、魂を河に捧げようとするダショーは、柔らかな笑みを浮かべていた。
憎しみの青い炎を五百年も抱きながら、また闇に落ちようとしているのに笑みを浮かべている。その気高い姿に、ボクは頷くしか出来なかった。
涙が、零れていく。犠牲を、求めてしまった事に。大切な人との別れが近づいた衝撃に。ただ、与えられる愛情を受け取る事しか自分の気持ちを伝えられない事に。
もどかしくて悲しくて。
『私が戦を止める宝刀となろう。ハルンツ、お前がこれから生きようと思う大地を守ろうとするのならば……私は再び贄となろう。永遠に限りなく近い時間、確実にエリドゥを守る生贄になろう。戦を起させぬ為に世界の要となる覚悟があるのならば、私はこの魂を全て差し出す。ただ、その代償は大きいぞ。先にとっておいた力を使って術を解除をした為に、私の魂が消えかけている。消えてしまっては、魂を捧げられない。「繁栄の術」をもう一度かけなおすには、消えかかった私の魂をハルンツに一度同化して私の魂を保つ。さらに「繁栄の術」を行使する為に私の記憶を移す。この乱暴な方法しか浮かばない。ただ、私の魂と同化してしまえば先の青い炎のような、あのどす黒い感情や記憶を抱え込んでしまう。それでも、そこまでしても、戦を止めるつもりか? もう一度、考え直していい。このまま逃げてもいい。誰も、ハルンツを責める事はしないぞ』
ダショーの姿が消えていく。淡く光るその中に包まれるように。
誇り高く、やけに自信に溢れていて、黙っていてもエラそうだった、その姿が消えていく。
ただ、子を想う親の姿。ボクが今まで、感じたかった親の情が身に染みていく。こんなにも、温かい。こんなにも、心地よい。
この瞬間を味わえた幸せ。涙が止まらないまま、そっと首を振った。
『戦を止めると言うか。私の魂を受け取るというのか』
「せめて、ボクに同化してください。この中で生きるナキア妃の魂と、一緒に……」
今、消えようと薄く輝くダショーの魂を、この場にいる誰に持たせる事はできない。
それしか、ボクが出来る事はない、自らを犠牲にしようとしているダショーに出来る、ささやかな事。
格子の向こうから繋がれた手が強く握られる。温かい、柔らかい、愛しい手。コムの心配する気持ちが流れ込んでくる。
ボクが守りたいものは、この温もりを持つ大切な人々。透き通る青い空の下の存在だ。
ならば、答えは出ているじゃないか。
そっと、コムの手を離す。そのまま、ダショーへと捧げた。
「下さい。貴方の魂を、下さい」
『辛い、道になるぞ』
「きっと、これがボクの宿命なんですよ」
この力を持って生まれた理由があるのならば。この魂で生まれた理由があるのならば。この時代に生まれた理由があるのならば。生き抜いていくワケをもつのならば。
「貴方と……ダショー様とナキア妃が作り上げたこの大陸を守れるのなら、貴方の魂を預かります」
その魂を受け取ろう。その記憶もその闇も、ボクも抱えて生きていこう。
大丈夫。一緒なら、きっと耐えられるから。ボクは、一人ではないから。
一緒に、生きていこう。
温かな光が、体を包む。溶けるように、染み込むように、肌の中へと消えていく。
穏やかで、波ひとつない水面が、ボクの心の中でゆっくりと作り上げられる感覚。
脳裏に、真っ青な空が広がった。海の彼方で溶け合う、あの空の色。
あぁ、知っている。この空は、クマリの空の色。大気の先の、宇宙の色。深い深い、透明な水の色。天から零れ落ちる、一滴の雫の色。
こうやって混ざり合いながらも、ボクらは帰っていくんだ。きっと、遠い未来と遥か先の過去のどこかへ。
『ありがとう……』
『愛していますよ……私達の息子よ、ハルンツ』
二人の声は、優しく消えていった。ボクの心の奥深くへ。