8 無知の知
「伎妃、そなたの結界、見破られたの」
高らかに笑う楊燕。笑顔の均衡を崩し柳眉が強張る伎妃。団扇を握り締める指先が、真っ白になっていた。
「口先で誤魔化す者や時間稼ぎをする者、手先の器用さをやたら見せるものは沢山いたが、ここまではっきりと言い切る者はいなかったのう。そなた、精霊が見えるのだな」
「それが、ダショーの子です」
「…この村の血は共生者を作り出してきたという事か…面白い。ならば腕試しといこう。この伎妃は朱雀家が抱える最高の共生者だ。おそらく帝国でも5本指には入るだろう。春陽の水神殿でもこれほどの使い手はおらぬ」
この女の人も、偉い人なんだなぁ。素直にハルンツは頷いた。
「伎妃と術比べをせよ。麿をあっと言わせるものを見せた者を、朱雀家専属の共生者の地位を与えよう」
「楊燕様! このような童相手に、よろしいのですか」
咎めるような声に楊燕は笑顔のまま頷く。
「良いから良いと言ったまで。なんじゃ、伎妃は怖いのか? このような童に負けると申すのか?」
「そ…そのような訳、ありませぬ。ありえませんわ!」
「ならば問題ない。さて、麿も水浴びをしようかの。伎妃、そなたもどうじゃ」
楊燕は1人で決めて、1人で喋り、勝手に天幕を出て行く。一瞬だけハルンツを見下ろした伎妃も、艶然の微笑みを残して優雅な裾裁きで天幕からでていくと、下人と侍女が慌ただしく追いかけて、天幕の中は豪華な調度品とハルンツがぽつんと残された。
共生者って、なんだ?今、何が決まった?術比べって、なんだ?
深く濃い青の夜空に、灰色の雲が流れていく。満月の夜のはずが、周りは暗く随分と雲が多い。空の高い所では、風の精霊が空を切り裂く勢いで飛び舞っているのを感じる。天気が悪くなるのかもしれない。
「はぁ」
床についても、頭の中は疑問だらけで寝れなかった。仕方なく外の砂浜にゴザをひいて横になったものの、ウツラウツラと浅い眠りだけで深くは眠れなかった。
もうすぐ夜が明けるのだろう。冷えた夜風が一段と冷たくなり、東の海と空の境界がほんの僅かに白く赤く変化しだす。
いつもと同じ暁の光景なのに、今は怖い。分からないまま夜が明けようとしている。朝が来る事が恐ろしい。
今日という日に、何が起こるのか、何も分からない。今まで、何が起こるのか何も知らなかった。それでも怖くなかったのは、自分の知っている世界、いつもの常識、知っている事で毎日が過ぎていたから。
でも、自分の常識は崩されてしまった。自分とは身分も身なりも違う人達。精霊を見れるのも動かせるのも、自分だけだったのにそうではなかった。精霊を追い出した伎妃という女性は、共生者と呼ばれていた。最高の共生者。その人と術比べをしなくてはいけない。
「どうしよう…」
「風邪ひくぞ。寝るなら中で寝ろ」
「ひゃっ!!」
突然の声に飛び起きて砂に足をとられて転ぶと、「どんくさいなぁ」と一声あってから、大きな手で腕を捕まれて起きあげられる。
雲が切れ零れた月光で照らされた砂浜には、小船が乗り上げていた。
「朝飯、持ってきたぞ。またなんも食べてないと旦那様が煩いからな」
薄暗い中で見えた顔は、竹皮包みの弁当を突き出して唸る。
「お前、オレの名前、忘れたな」
「はぁ、その、浩芳(こうほう」様と一緒にいた…」
「秀全だっ。劉浩芳様第二家人の何秀全だっ」
信じられん。昨日会ったのに、普通忘れられるのか。
ひとしきり文句を言って、ハルンツを覗き込む。
「お前、なんか変わったな。小奇麗になったぞ」
「あぁ、はい。都からきた皇族の方の前に出なくちゃいけなくなって、臭くて汚いからと水瓶に入れられて肌を擦られました」
「やっぱ白楊燕にあったか。にしても、変わったなぁ。けっこう眼、でかいな。肌も日に焼けてないし細いし、女みたいだな。髪、せっかく結ってもらったんだから毎日櫛いれて結い直せ。水浴びも毎日しろよ。服も前みたいに着たきり雀になんな」
一気に言い、フンと鼻息ひとつ間を空けて頷く。
「なるほど。確かに旦那様好みだな。可愛くて、愛らしいようで、どこか抜けてて、将来性がある…と。昨日は旦那様の鑑定眼が狂ったと思ったけど」
「はぁ」
「じゃなきゃ、夜明けに船漕いでわざわざ戻ってこないぞ。ほら、飯食おう。腹減った」
1人で喋り、横に座り、懐からもう一つの包みを開けて食べ始める。その速さに眩暈がしながらも、ハルンツも横に座り包みを開け白米の握り飯に、思わず齧り付いてしまう。
白い米は村には祭礼用にしかないものだから、わざわざ持ってきたものなんだろう。普段は雑穀のみだ。柔らかさと甘みに、顔が綻んでいた。
「聞いたぞ。術比べだって?もう準備は出来たのか?」
緩んだハルンツが固まってしまう。そう、握り飯を食べても問題は無くならないんだ、全く。
「あ、用意してないとか。伎妃相手に無理だよなぁ。なんで術比べなんてさせんだろうね」
「秀全さんは、あの、伎妃という人の術を見たことありますか?」
「本人は見たことないけど、美人なんだろ?都では有名だな。去年、四つの宮家がそれぞれ自慢の共生者を使って術比べをしたんだよ。まぁ、力自慢だな。強い共生者を抱えられるほど、豊かな証拠だから」
二つ目の握り飯を手に取りながら、秀全は片手で宙に大きく円を描く。
「宮中で行われてたけど、伎妃の作った水竜がこう空に浮かんでさ、都の上をグルッと一回りしたんだよ。凄かったなぁ。もう大騒ぎでさ」
「そんな事、出来るんですか」
「伎妃は、水神殿でも優秀な成績を修めた女神官だったからな。共生者の資質に呪術を使えば出来るらしいけど」
「呪術って、治癒や安全祈願だと思ってました。そんな事出来るんですね」
「…そりゃ、村の呪術使いだ」
深く溜息をつき、秀全は最後の一片を口に入れながら説明を始めた。砂浜に丸を二つ描く。