76 走り出す
浩芳の声に、その場の全員が身を固くする。
マダールと趙健との会話で、グムタンが出てきた。マダールがどこにいたか探らせると。そうなればこの屋敷に滞在していた事もわかるだろう。ここに手が伸びるのも時間の問題だ。
「秀全、リリスさんとマダールさんを連れて、内陸の青族へ。あの遊牧民なら、どちらの勢力にも加担しないからね。今はあそこが一番安全なはずだ。以前商売した青族の所へ先に行ってくれまいか」
「ちょっとまって下さい! 大霊会は、御前披露はどうなるんですかっ。私達は……」
「先という事は、旦那様も後からいらっしゃるんですねっ」
リリスの驚いた声を無視する形で、秀全が泣きそうな子どものような声を出す。これが、最後の別れになりませんよう、祈るような声色。浩芳は苦笑して、腕を組みなおす。
「なんだい。第二家人がそんな声を上げて。ほら、とりあえずこれだけの路銀があれば足りるだろう。これを持って行きなさい。後で家内達も連れていくから、泊まる場所の交渉ぐらいしておいておくれよ」
両手で包むほどの袱紗を持ってきた番頭に、素早く指示を出していく。手代頭だろう。顔を緊張で強張らせながらも、素早く屋敷の奥へ消えていく。浩芳は、番頭に屋敷の金を使用人達に分配して薮入に出すよう、金庫の金の隠し方まで細かく指示を矢継ぎ早に出していく。
「お待ちください! マダールと私は御前披露に」
「今この状況では御前披露は怪しいだろう。いや、やるとしても危険だ。戦場になるやもしれぬのに、ここに居る理由はないだろう」
「しかし! 」
なおも言い寄るリリスに、秀全はマダールの二馬線とリリスの琵琶を背に括り付けて立ち上がる。僅かな手荷物をリリスに押し付ける。
「死にたくなかったら、来い。商人のカンを甘く見るなよ。危険に関しちゃ、鼻がきくんだからな」
「リリスさん……マダールに、よろしく。出来るだけ、早くクマリを出て。もう、何が起こっても不思議じゃない」
コムが水面から離れた途端、水面に浮かんでいた映像も音も消えていた。でもハルンツは水面から視線を外せずにいた。一瞬映った京の西の一角の屋敷に、反射する光を捉えて意識を近づける。広大な屋敷の庭で一陣の兵士が整列して歩いてるのが見える。刀を持ち、そろいの装備をした兵士達。奥から次々と出される刀や鎧。塀の外では行商人が野菜を担いで歩いている。手を繋いだ母子が歩いている。昼の光の下で、準備される凶器も数々。
ここは、斗の屋敷なのだろう。趙健の言っていた事は、本当だ。この凶器の数々を持って兵士達を使い、夜の闇を使い浩芳の屋敷に攻め入る気なのかもしれない。大連の者が商人の家を刀で固めるなんて事が起これば、商いも盛んなこの街は大騒動になる。まして、その屋敷に同じ大連の人間がいれば内乱の要素まで含んでくる。雲上殿で各国の動きを工作している玄徳達にも、これ以上の負担は抑えられないだろう。
水面を軽く叩き、精霊との契約を切る。やるべき事を、やる。今、ボクしか出来ない事を、やろう。
「アシ様、早く雲上殿へ。きっと、きっとジクメ様はアシ様が気がかりで手をこまねいています。ジクメ様の補佐をしてください。コム様は……アシ様と共に雲上殿へ」
この二人は、一刻も早く屋敷から出さなければいけない。大連の血を引く二人がここにいては、いけない。そっと手を離す。温かい気が、少しずつ薄まっていく。悲しみだけが、濃くなっていく。この人のそばに、もっといたかったな。そう思い、微笑みかける。
「神殿が、クマリに身を寄せるだけで……クマリにとって百人力だと思います。エリドゥの内情を、伝えてください」
「ハルンツ様がそう仰るのなら、そうしまひょ。それで、ハルンツ様は」
「半刻ほど、時間を下さい。覚悟を決めさせて下さい。リリス、マダールに、一緒にいれて嬉しかったって伝えて。ボクは、天鼓の泉で二人の演奏を楽しみにしてる。だから」
「何言ってんのよ。ハルンツちゃんも演奏するんでしょ」
紫の瞳が、潤んで大きく揺れた。途端、大きな手でかき寄せられていた。
「これで最後みたいな事言わないで。自分で全部抱え込まないで。私達は、ハルンツちゃんに会えて、最高に幸せなんだから」
「……うん。だから、ボクは二人が演奏できるように、頑張るから」
「頑張るって何をよ。一緒に演奏するの。それだけ」
力いっぱい肩を抱かれ、リリスの感情が染み渡ってくる。温かく、そして幸せが壊れていく怖さに震える心が、そして立ち向かっていこうと鼓舞する心が、そっと触れる肌から染みてくる。
あぁ、もう、大丈夫。これだけの気持ちをもらったら、何が起こってもボクは怖いものなんかない。
リリスの筋肉質な腕を引き剥がし、背中を叩く。
「さぁ、急いでマダールを助けに行って! こっちは大丈夫だから。秀全さん、二人を頼みます」
「まかせとけ。お前こそ気をつけろ。では旦那様、先に行ってきます」
「ちょっと! マダール助けても、その青族のトコには行かないわよっ。引っ張らないでよ」
「うるさいっ」
後を振り返るリリスに、微笑み背をおす。半ば引きずるようにリリスを引っ張る秀全も、裏口へと曲がる瞬間に僅かに振り返る。視線に万感の思いを込めて。互いの無事の祈りを込めて。ボクは、微笑んで受ける。この祈りを現実にするのは、ボクなのだから。だから、受け止めよう。
乱れる足音が遠のき、戸口が閉められる音を確認して振り返る。屋敷は使用人が慌ただしく立ち動いていた。その動きを眺めて浩芳が肩をまわす。飛び切りの大きな音をさせ、すっきりとした顔で頷く。
「さぁ。急いで支度をしようか。なんだい。ハルンツはそんな顔して。泣きそうじゃないか」
この人は本当に目ざとい。内心を見られたなと苦笑いをして、深く頭を下げた。
「浩芳様には、最後までご迷惑をかけ通しですみません。ボクが浩芳様に甘えているばっかりに、こんな騒動まで巻き込んでしまって」
「クマリに来るように誘ったのは私だ。昴家の紹介までしたしね。キミが気に病む事はなにもないよ。むしろ、私が誘わなくても同じだよ。運命と宿命の違い、判るかい? 」
唐突な言葉に、思わず隣のコムを振り返る。コムも興味深そうに浩芳の顔を見つめる。
「自分の存在で周りに迷惑をかけてると思うのは、少し違う。気に病むことはないんだよ。大体ハルンツの存在は、私があの浜から誘い出さなくてもいつか明らかになったはずだ。エリドゥはハルンツの存在に気付いて、今回の動きをしていたんだろうか? 斗家だって、キミの存在を知ってエリドゥと手を組んでいるはずはないだろう? こうなる時の流れがあったんだよ。各国が力の均衡を崩す不安定なこの時期に、力を持ったハルンツという存在が居合わせたんだ。それが運命。そして、運命の中で何か成さねばならない事があるんだよ。それが宿命だ」
成さねば、ならぬ事。まだ見えない先にそびえる途方もなく大きな壁に、『宿命』という名がつけられた。漠然としたものに形を与えられて、目の前を覆っていた霧が風で晴れていく感覚に襲われる。そうだ。まだ判らないけど、現れる壁にぶつかればいい。自分を信じて、ただひたすらによじ登ればいい。壁の向こうの安息を求めて、しがみ付けばいい。
「私は、この混乱の中でハルンツを運命の場に引っ張り出す役だったんだろう。私が成せばならぬ事は、商いで多くの人を幸せにすることだ。使用人達も、私の家族もね。さて、青族の所で何を仕入れようかね。羊毛もいいが、香草の季節になるし。ここは一つ鉱脈を探し当てるのもいいな……」
鼻歌を歌うように、香草の名を上げて座敷の奥へと上がっていく。その後姿はどこまでも自然体だ。思わず笑いが零れていた。
「浩芳おじ様は、ほんに不思議な方どすわ」
「うん。ホントに……。ねぇ、コムさん、お願い、聞いてもらえますか」
微笑ながら、コムと眼を合わせる。庭に残ったのは、ボクとコム、数人の神殿の人達だけだ。
「アシ様とコム様と、まず雲上殿へ行きたいと思います。でもその前に、もう一度昨日の薬湯を頂けますか」
「そうどすな。咳の数も減っとりますから、昨晩の薬が効いてるようや。判りました、今すぐ用意しまひょ。これ、生姜を多めにした怜涼湯を」
「そうではなく……コムさんの用意したのが飲みたいんです」
「そっ、わ、判りました。えぇと、今用意しますさかい、待っててくださいよ」
赤面して慌ただしく屋敷へと消えていくコム後姿を、部下だろう二人の神官達は眼を丸くして見送る。コムをあそこまで赤面出来た事に、心の奥で満足。あの人の心の奥に、少しでもボクが残っているのなら、嬉しい。それは、良いことか判らない。それだけの甘えは許されるだろうか。コムの心に傷をつけてしまうだろうか。そしたら、泣いてしまうだろうか。
自問しながら、座敷に上がり、三線を手に庭へ戻る。庭に残るは、二人の神官。
「コム様に渡して頂けますか」
「へ、へぇ……しかし私達どもから渡していいんどすか? 」
「顔を見て渡すのは、恥ずかしいので。あと、この守り貝を浩芳様に渡して下さい」
眼を丸くしたまま、二人の神官はボクを見て慌てて顔を伏せる。少し、強引な文句だっただろうか。だけど、この二人がいては、ここから動けない。斗の屋敷へ行かなければ。騒動を起こす前に、全てを片付けてしまわなければ。
一瞬視線が重なり、彼らの瞳の中に青い眼を持った自分が映っていた。瞬間、ボクが青い浄眼を持っていた事を思い出す。そして、神殿で待っている出来事も思い知らされる。ここ最近は、楽師として演奏ばかりだったから忘れていた。
ボクは、逃げられない。この不可解な共生者としての能力から逃げられない。こんな力なんて、いらない。力なんて使わなければ、ない人と何も変らないのに。使わない力なんて、ないと変らないだろうに。
空を見上げ、微笑む。ダジョー様も、こんな苦しみを味わったんだろうか。
「この三線は、ボクの心です。コム様に預かっていて欲しいのです。守り貝も、せめてものお詫びに。今、二人に渡しに行って下さい」
「しかし、貴方様をお一人にするのは……」
「今すぐ、コム様に渡してきてください。お二人とも。お願いします」
伏せて眼を合わせないようにする二人を覗き込み、強引に視線を合わせる。抗えないよう、ダジョーことエアシュティマスも持っていた浄眼をワザと見させて。神殿の教えに身を委ねた神官なら、この浄眼に逆らう事は、本能で出来ないだろう。いらないと思っていた青い瞳も、疎ましく思っていたものだって、使えるのなら使ってやる。
「へぇ……判りましたから、ここにいて下さい」
「どこか行かれるようならば、お供しますさかい、待っててくださいよって」
「はい。待ってますから大丈夫ですよ」
ごめんね。騙して。
振り返りつつ大急ぎで座敷へ上がっていく二人の神官を見送りながら、心の中でそっと謝る。そして、後姿が完全に消えてから裏口向かって走り出す。
さぁ、ボクが成せばならない事をしよう。それが、正解かは、まだ判らないままだ。けど、このまま逃げていられない。
木戸をくぐり、裏通りを走り抜ける。慣れない袴をまくりあげ、全速力で走る神官装束のボクを、通り過ぎる人々が驚いた顔をして振り返っていく。それでもボクの頭の中には先の水鏡でみた光景を、この辺りの道に重ねていく作業で一杯だった。走りながら、ここ半月で知った京の道で大体の見当をつけて、南北大路を横切り西を目指す。
「なんだ。お前のような神官の来るところではない。下がれ」
息を切らして辿り着いた屋敷の門番が、大きな槍を持って立ちはだかる。乱れる息を整えながら、眼に染みる汗を手の甲で拭い振り返る。僅かな通行人が通り、白くお高い塀が続くこの場所は、静まり返っている。南北大路より清潔で、何もかも整ったここ一帯は、アシの下屋敷とは大違いだ。
あぁ、こんな事をしようおするボクを、みんな怒るかな。怒るだろうな。ボクは何をしようとしてるんだろう……どうやって振り上げられる戦の手を止めればいいんだろう。良い口上を考える事もなく、何か奥の手を探すわけでもなく、雲上殿の二人に相談する事もなく、飛び出してしまった事に気付く。確かに、もう身を潜める場所はない。けど神殿に隠れる事も雲上殿に隠れる事もいやだ。
ボクの行動は、あっているんだろうか。もしかしたら、みんなの努力をぶち壊しているかもしれない。これもそれも、ボクが恐れたから。未来を闇雲に恐れたからだけど。
「斗の当主グムタン様との面会を望みます。通してください」
「……ボウズ、さっさと立ち去んな。あんまりふざけてると怪我するぜ」
門番が呆れた顔をして槍を持たない手で払う動作をする。そうだ。ボクは、ボウズにしか見えないだろう。この身を証明するモノがなくては、この門番さえ動かせない。
自虐な気持ちで、心の奥底で燃えている感情に息を吹きかける。そう。ならば証明すればいい。このやり場のない怒りを出せばいい。
自分の力不足でこうなった気持ちを。臆病な自分のせいでマダールを深く悩ませた事を。やるべき事を見誤り、招いた自分の失態を。大事な人達の気持ちを裏切ってしまった自分への怒りを、解き放てばいい。
腹の奥底が熱くなる。空気の隙間から火の精霊が飛び出し、風を熱風に変えていく。肌で感じる熱が高まっていくのと反対に、頭の中は冷静に澄み切っていく。コムと手を繋いだように、思いを重ねたように、手を掲げて指先に意識を集中する。辺りを飛び始めた火の精霊は見る間に集まって、右手の先に頭ほどの大きさの灼熱の炎の珠を作り上げた。
「グムタン様との面会を望みます。この屋敷を燃やされたくないのなら、さっさと扉を開けて下さい」
眼を丸くし、腰を抜かしかけた門番に一歩、近づき炎の珠を掲げる。
さぁ、もう後戻りは出来ない。頭の中の冷静な自分が、そう宣言した。