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 75 罪の告白

 水面に映る男と女の影。今にも床板が割れてしまいそうな粗末な板間の端に、マダールは壁を背にして座り込んでいる。怪我もない様子に、とりあえずの安堵。だが、その奥の男の影を注視する。

 中途半端に伸びた髪は雑に束ねられ、無精ひげの生えた顎は酷く痩せていた。擦り切れた着物といい、伸びた手足の骨ばった感じといい、以前李薗(りえん)の後宮でお抱え楽師だったという事が信じられない。食いぶちに困った小作農家の次男坊、という風体があっている。ただ、よく見れば指は田を耕すクワを持ちなれない細く長く傷一つないものだ。二重の目元は涼しげでよくよく見れば、男前だっただろう名残りはある。

 彼が、マダールとリリスと以前組んでいた楽師の趙健(ちょうけん)。マダールと、以前付き合っていた男。


 「なんで、こいつがココにいるのよ」

 「李薗(りえん)で別れたんですよね」

 「別れた、ってもんじゃない。朝になったら、消えてたのよ。拝領金半分と,三線だけ持って消えてた。何の挨拶もなし散々マダールを信用させておきながら、勝手にいなくなったの。大した三線の腕も持ってないから、やたら装飾音だけチャラチャラ入れるし。金勘定だけは達者で見栄っ張りな馬鹿男よ」


 リリスはこのまま拳を水面に叩きつけそうな勢いで、趙健(ちょうけん)の人物評価を下す。その徹底的な罵倒は、見知らぬ相手だが擁護したくなってしまう程の激しさ。


 『……で、何も言わないんだ』


 水面が細かく震えるように、音を伝えていく。まるで水面の向こうに二人がいるような感覚。今にも水面に映る趙健目指して飛び込んでいきそうなりリスを、アシと秀全が肩に手をかけて押さえている。

 水面向こうの趙健はマダールを見ることなく、言葉を吐き出していく。


 『聞いた。李薗(りえん)の皇子様お抱えになったんだって? だよな。お前らの腕なら、すぐに大口の支援がつくよな。俺が金持って逃げようと、なんとかやっていけれるよな。しかも、街の噂じゃあ奏者候補間違いないんだろ。大したモンだな。こっちは、持ってきた拝領金、女に騙し取られるし。俺の腕だけじゃ客なんかつかねぇから、ヒモジイ思いさせられるし。ろくな事なかったぜ。お前なんかに俺の苦労が判る訳ねぇよな。可愛いだの、天から舞って来た楽師だの、ちやほや言われてさ』

 「こ、こいつ、勝手な事ばっかり言うなっ。こっちがどんだけ大変だったと思ってんのよっ。マダールなんかアンタに裏切られて血ぃ吐く思いでここまで頑張ったのよっ」


 色白の顔を真っ赤にさせながら、リリスは再び水面を叩きつけようと、長い腕を勢いよく振り回しだす。慌てて秀全が抑えなければ、池に落ちていただろう。

 こんなに騒いで、向こうに声が聞こえてないだろうか。こわごわと水面を覗き込むと、隣のコムが頷く。


 「こっちの音は聞こえてまへん。精霊との契約は、向こうの姿見と音を届けさせる事どす。大丈夫」


 それは幸い。先からこちらで罵倒されまくっている事は、伝わってないらしい。もし、伝わっているのなら、確実に水面を通して殴り合いになりそうだ。いや……水面を通して殴り合いなんて出来るんだろうか。出来るのなら、自分も一発ぐらい殴ってやりたい。そう思ってしまう趙健(ちょうけん)の言い草。


 『それにしても、いつ俺がグムタン様の下にいるって気付いたんだよ』


 突然に、落とされた言葉。予想もしていなかった単語に、池の周りの空気が固まる。グムタン、と趙健(ちょうけん)が言った。(ひつき)の当主グムタン。早乙女祭で、アシがウソ泣きをして追い出し牛車に乗り込む時の悪態が頭をよぎり、僅かに身震いする。


 『驚いた。お前を誘い出そうと思ったら、屋敷の前に出てきてるんだもんな。こっちは手間を省けてよかったけどさ』

 『どういう事よ。あたしは、あたしは、早乙女祭で屋敷に来た下人の中に趙健(ちょうけん)がいたのに気付いたから……てっきり昨日の騒動は、グムタン様に私達楽師の事喋ったのが趙健(ちょうけん)だと思ったから、だから』

 『昨日の騒動? なんだそりゃ』


 ここの所、マダールはふさぎこんでいた。じっと物思いにふけっていたのは、玄徳との別れが原因だと思っていた。今、ようやく本当の原因が判った。

 マダールがふさぎこんでいたのは、早乙女祭でグムタンの下で働く下人の中に趙健の姿を見つけたから。だから落ち込んでいた。そう、確かにグムタンの牛車を見送りながら、マダールの顔は青ざめていた。今更ながら、ようやく気付く。マダールは、趙健の落ちぶれた姿と、グムタンの下で働いている事への不安を、誰にも言えず悩んでいたんだ。だから、ずっと物思いにふけっていた。だから、一人で解決しようと趙健に会いに行ったんだろう。屋敷から出てしまったんだろう。何も言わず、人に察せられる事もなく、こっそりと。


 『昨日の騒動なんて知らねぇ。けど、(ひつき)のお屋敷様に喋ったのは俺。後宮で三線弾いてたのは俺だからな。お屋敷様が、李薗(りえん)抱えの楽師にこだわってたのを聞いて訴えたのさ。俺こそ、李薗(りえん)帝国後宮お抱え楽師だと言ったんだ。だってそうだろ。あんな女だか男だか判んない格好の奴が、しかもあんな下手な演奏の奴が俺の場所にいるんだよ。ふざけんなって』


 女か男か判んない格好。あぁ、やっぱり、そう見えたか。変装が成功しなかった後悔と、まだボクは男の部分を持てていたという安堵。その妙な気持ちで趙健の罵りを受け止める。演奏が下手なのも、納得。やっぱり、そうか。聞く人が聞けば、そうなのか。口の端に苦笑いが浮かびかける。


 『ハルンツを馬鹿にしないで!! 』


 水面を微動させたマダールの叫び。気迫こもった一喝に、固まる。揺れる水面向こうに、背筋を伸ばして、顔を上げ、趙健を見つめているマダールの後姿が映し出される。


 『ハルンツの音の素晴らしさ、あんたには判んない。純粋で、強くて、まっすぐな音、判んないでしょ。あんたみたいに、他人を妬んで何でも人のせいにして逃げてる奴に、ハルンツの音の素晴らしさなんて判んない。あの子は、あんたより過酷な運命もってるのに、誰よりも辛い運命背負ってるのに、誰かのせいにしない。人のせいにして投げ出していない。だから、そんな彼だから、あれだけの音が出せるのよ。演奏下手だ? 趙健(ちょうけん)みたいに目先鼻先着飾っただけの装飾音の塊の演奏しか出来なかった人の台詞じゃないわよっ』


 一息に吐き出し、マダールは肩で息をする。怒涛の罵りに、ボクの胸が熱くなる。


 『演奏技術なんかね、行き着くところ何とかなんのよ。努力すりゃ、あるところまでいくわよ。でもね、出す音や旋律の妙だけは、楽師の魂が響くのよ。心意気が、演奏にも音にも響くのよ。趙健(ちょうけん)たいに「その場よければいいや」だの「適当に弾いてもバレないだろう」だの、いい加減に弾いてる趙健(ちょうけん)が、言っていい言葉なんかないわよっ』


 マダールの叫びが、ボクの中で響き渡る。下手なボクの演奏を、そんな風に捉えていてくれた。そう思うだけで、ボクの世界が揺り動かされる。振動は、こみあがる。涙という形で、あふれ出てくる。こらえきれなくなった一滴の涙が、水の中のマダールへ落ちていく。


 『趙健(ちょうけん)、あたし判ったのよ。あなたの事『好き』って言っていたけど、違ってたんだよね。私の事を好きって欲しかったから、趙健(ちょうけん)に『好き』だの『愛してる』って言っていたのよね。……本当に愛していたら、その相手に何をしてあげられるか、何を尽くしていけられるか、考えるのよね。あたし、ようやく判った。恋に恋していただけ。憧れてただけ。欲しがっていただけ。趙健(ちょうけん)、あなたを独占して気持ちを奪おうとしていただけ、なんだよね。辛かったかな……ゴメンね。あぁいう形で別れて、ようやく判った。あたしと、親代わりのリリスと行動して、息の詰まらない訳ないし。趙健にとって、あたし達との旅は、辛かったのかな。もし、そうなら……償うよ。何でも、出来る限りの事は考える。だから、だから』

 『偉そうな事、言うなよ。へ、へへっ……』


 無理に薄笑いをしようとしたんだろう。その表情は泣きそうな程に、醜く歪んでいく。趙健(ちょうけん)の声が、裏返る。

 もっと早く聞きたかった。俺はそんなに弱くない。そう泣き叫んでいるような声が響き渡る。


 『今更、今更そんな泣き言で誤魔化されると思うなよっ。こっちは考えがあるんだ。お屋敷様に聞いたぜ。そいつ、共生者なんだろ。とてつもなく力を持った奴なんだろ』

 『な……っ』


 マダールが息を飲む。池のほとりのボクらも。


 『そいつが呪術を使ってんだけじゃねぇの? マダールが言う素晴らしい音ってのは、呪術を使ってるからだろ。その力は危険だからお前を誘い出して捕まえようって、手筈が進んでるはずだぜ。今頃、お前のニオイを使って居所を探ってるはずだ』

 『ニオイ? 何よ、どういう事よ! 』

 『お屋敷様はクマリで最も力のある御方。呪術使いぐらい、抱えてるさ』

 『……っぅああぁ! 』


 細い喉から迸る咆哮のような嘆きが、水面から振るえ聞こえる。マダールの悲しみの、叫び。魂が壊れていく音。


 「ここから馬なら半刻ほどの場所どす。早う、早う行っておくれやすっ。マダールはんの心が壊れてしまうさかいっ」

 

 室内の水瓶から、視線を飛ばす。飛び上がり、周りの光景を移していく。右に、かすかに雲上殿のそびえる壁の一部が見える。大木と、流れる渓谷、立ち並ぶ幾つもの大水車。


 「城下にあった昔の職人街の古い水車小屋ですねっ。リリスさん、迎えに行きましょう! 馬には乗れますか」

 「お借りできるのであれば」


 手早く裾をまとめて立ち上がるリリスの顔が、力強く頷く。紫の瞳が、滾るように光を持っている。


 「なら、手荷物をもって移動しなさい。秀全(しゅうぜん)、お前も共に。マダールさんと合流したら、すぐにクマリを出たほうがよさそうだ」


 浩芳(こうほう)の落ち着いた、いつも以上に張り詰めた声が低く響いた。


 



 

 

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