74 水面の向こう
「本当に、ここで見れるんどすか? 」
「普通は聖水を用意するでしょうに」
「えぇ。クマリにも神殿はありますさかい、すぐに用意出来るん言うたんですが」
「まぁ見てなさい。面白いものが見れますよ」
「また浩芳おじ様は暢気な事を……」
集まった人が口々に勝手な事をしゃべっている。マダールを探す為に外へ飛び出したアシは屋敷の私兵を幾人も連れて帰ってきた。コムも深淵から連れてきた幾人もの下級神官を控えさせている。屋敷の下人も何ごとかと遠目から眺めようとしているが、秀全が昨晩の番頭に話しかけ、「朝からの騒ぎはもう大丈夫」「朝食をとって、仕事を開始するように」と手を打つ。ようやく座敷が落ち着いてきた所で、ボクは最後の一口の薬湯を飲み干し立ち上がる。
水鏡を、することにした。
コムが話した、神殿は大陸中に水鏡で詮索をかけているというのを思い出したからだ。
失せ物探しも、探し人も、ボクにとっては生業だった。いつのまにか。すっかり忘れていた。
「じゃ、始めます」
今、やらなければならない事。
マダールを見つけ出すまでだ。見つけたら、アシとコムと共に雲上殿へ行く。そう決めたのだから。その決意を述べて、コムに頼んで神官の服を用意してもらった。急だったから下級神官の服しか用意できなかったと、コムはしきりに頭を下げた。でも、これがいい。白の上衣に萌葱の袴。ボクは、まだ何も知らない素人なのだから。
軽く座敷にそろった五人に頭を下げて、裸足のままで中庭に下りる。
もう、天頂目指し上り始めた太陽が、今日も張り切って照りつけだしている。地面に残った夜の冷気の名残りが、ひんやりと心地よい刺激を伝えてくる。
「ケホッ」
咳払いに、池のほとりで寛いでいた蛙が一匹水面めがけて飛び込んだ。雫が飛び跳ね、水の精霊が何ごとかと顔を出す。愛嬌ある爬虫類な顔に笑いかける。
やぁ。久しぶり。また、力を貸しておくれ。
ぬれた岩に座り、そっと手を水面に差し出す。さぁ、ボクの記憶の底を覗いて。この人が、ボクの大事な仲間のマダールだよ。何処にいる? 地下水脈から、地上に吹き出して。湧き出す泉と井戸から、風に乗り山々を巡ろう。流れる川に沿って、海まで流れていこう。彼女は、何処?
「あぁ……結構、遠いですよ」
精霊が嗅ぎつけた。急に速度を上げて風が流れ、地下を流れる水を遡り地表に飛び出る。揺れる水面に映し出される場所は、クマリの郊外。驚くほどに雲上殿が近くに見えている。嵐が来たら吹き飛ばされそうな、浜に残した自分の小屋並にオンボロの板張りの小屋。小屋の中からの水の気配に、そちらに視線を移す。
「見えたの? どこ? マダールは元気なの? 」
「リリスはん、術中は話しかけたらあきまへん。集中が切れますさかいに」
「いいですよ」
リリスが駆けてくる気配。座敷から戸惑うような人のざわめき。
「驚きましたわ。こんなに早く繋げる上に、祭文も呪文も使わんと……軽く水鏡やりはるんどすなぁ」
「だから言っただろ。面白いものが見えるって」
「私も見たいですっ」
「邪魔になりますよって」
コムとアシの言い合いを背に聞きながら、ゆっくりと精霊と自分をつなげていく。そこは、水瓶のようだ。広い口から覗きだした視界が、そのまま池の水面に映し出される。その水面に、二つの人影が映る。マダールと、もう一人は男のようだ。
「どこ、マダールは何処なのっ」
「ここ。ほら、もう一人いるよ。男の人」
「お、男? 」
横に来たリリスが、水面に顔をつけんばかりに覗き込む。垂れる金色の髪が水面につきそうだ。
「あ、水面は揺らさないでよ」
「だって、見えないわよ」
「えぇ? だってここに」
こんなにはっきり水面に映っているじゃないか。
「水鏡は、術をしている本人しか見えんのどす。そうどすな……香炉の用意を。乳香に水想草を一つまみ」
「へぇ」
コムが控えに指示を出し、小走りに池のほとりへ駆けてくる。髪を耳にかけ、袖を帯に挟み指先を水面に触れさせる。
「男が誰か判らんといけまへん。ハルンツはんの……ハルンツ様に見ている光景を、私が水面に映しだしまひょ」
「そんな事、出来るんですか」
「御魂使いの能力があればこそ、どす。ハルンツ様、私の魂と同調しておくれやす」
そんな難しい事、言わないで欲しい。完全に戸惑っていると,コムの片手が差し出される。近くに香炉が置かれたのだろう。甘い香の中に、透き通るような清らかさが漂いだす。
「手を合わせて。私の中の鼓動に合わせてくれればよろしゅうおす。大丈夫、出来ますよって」
白くひんやりとした小さな手が、触れる。触れ合った肌から、温かい血が混ざり合う感覚。心地よさに、うっとりと眼を閉じてしまう。体の中に流れ込む何か。体から流れ出す何か。それは温かく心地よい感覚。この感覚、知っている。玄徳と大祓をした時の感覚だ。
「そう、私の中の音を聞いて」
コムの鼓動が聞こえる。呼吸する空気の流れ込む音が聞こえる。温かい血潮が送り出される音が聞こえる。その奥にひっそりと存在する大きな波の音。玄徳よりも細かでたくさんの音が重なり合うソレは、ボクの音と似ている。あぁ……包まれる。一瞬、包まれながら、自分の存在が世界中に溶けていく感覚に襲われた。
「……偉大なる水の精霊よ 汝は世界を駆け巡る存在 汝は全てを知っている 私は弱く小さな存在 私は汝の力と恵みを求めます どうか私にもその美しい世界をお見せください その美しい調べをお聞かせください どうかわずかな恵みをお与えください……」
水面に触れた細い指先が、滑るように幾つもの精霊文字を書いていく。言葉とともに、水の精霊を賛美する言葉を書いていく。その指先は舞のように美しく動いていく。
「汝の知恵の泉の一滴を 我の名はコム 我は汝の僕」
水面を滑っていた指先から、大きな水紋が広がる。静まっていく水面には、今まで見ていた光景が色鮮やかに映し出されていく。それを見て、初めて今まで見ていた光景が自分の目に映っていたものではない事に気付いた。
「これで、どうでしゃろ」
「あぁ……」
水面を覗き込んで言葉を漏らすリリス。その初めての様子に首を傾げてしまう。
「リリスさん、神殿の稚児をしていたていうのに、呪術は使えないんですね」
「水鏡は高位の神官しか出来ない呪術なんよって。それに、リリスはんは共生者じゃないんでっしょろ。学問を究める学僧志望の稚児やったんちゃいますか」
コムの解説に、納得。たしかにリリスは色んな事を知っているが、精霊を見ることはなかったし呪術もしなかった。呪術をする神官、学問を修める学僧。神殿と一口にいっても色んな人がいるのだと初めて知る。
「じゃあ、水鏡は初めて見たんだ。どう? きちんと見える? 」
今まで鉢の中の映像は自分しか見ていなかったし、人に見せた事もなかった。さて、どんな風に見えるのだろう。好奇心でリリスの顔を覗きこみ、息を飲む。
見開いた紫の瞳は、水面を鋭い視線で串刺しにしている勢いで見つめている。固くかみ締めた唇は血の気が失せている。思わず、リリスの腕を掴んで揺すっていた。変な呪術に、かかったような、妙な不安がハルンツを駆り立てる。
「ちょう、けん」
「は? ちょうけんって、何? 」
かみ締めた唇が、わなわなと震えて言葉を搾り出す。だが、その単語の意味が判らないまま呟き返す。どこかで聞いた響きに、眉をひそめる。
「趙健よ……マダールの、前の彼よ……まだ後宮で楽師していた頃に三線を担当していた、あいつよ……何でこんなトコに、何でマダールを」
「売上金半分盗んで、女と逃げた奴っていう、あの趙健?! 」
思わず呼び捨てで叫んでいた。
そう、初めて出会った時に間違えられた名前。マダールとリリスと出会った時に叫んだ、あの名だった。
「マダールはんの,前の彼って、どういう事でっしょろ。マダールはん、玄徳殿下とその、……でっしょろ? 」
握り締めたままのコムの手を、思わず強く握る。どうか、このまま。この水面を絶やさないようにしなければ。事をはっきりさせなくては。
背後から慌ただしく足音がかけつける。池の周りに、浩芳やアシが立ち尽くす。
「コムさん、音を取り出すには、どうすればいいですか? 」
「このままで大丈夫どす。このまま、続けまひょ」
コムの手も、強く握り返してくる。
もし水面向こうのマダールに何かあれば、このまま襲ってやる。
やり方も分からないまま、そう決心していた。
乳香は実際に存在する香料ですが,作中の『水想草』はでたらめです。実際にあったとしても関係ありませんので。念のため。
久々に趙健なる名前が出てきました。えぇーと,二章20話でチラリと出てきたマダールの元彼です。参考までに。