73 失って気付くこと
リリスの悲鳴は、寝静まった夜明け前の屋敷に響いたらしい。しばらくすると、幾人もの使用人が夜着のまま駆けつけた。秀全も前を合わせながら、寝乱れた髪のまま駆けつけ屋敷の中を探させる。
リリスは、震えていた。飄々と軽い笑みを浮かべている姿が消えていた。いつもの余裕とも人を小馬鹿にしているような態度を知っているハルンツは、その動揺を感じていた。リリスにとって、一番大切なものがマダールだ。その何よりも大切と守ってきた存在が、消えてしまった。
ハルンツは大きな白い手を、ただ握り締めて「大丈夫だよ」「きっと散歩でも行っているんだよ」と繰り返す。この事態が「大丈夫」でも「朝の散歩」でもないことは判っている。これは、呪文だ。そうなれば良し。言葉通りにならなくても、この言葉で一時でもリリスが安心すれば良い。あまり効果はないようだけど。
「大丈夫どすか」
昨日と同じ小袖に着替えたコムが、湯気の立つ湯のみ二つ盆に載せて縁側へやって来た。
「マダールはんの事、神殿が捜索に手を貸しますさかい。安心しておくれやす。さ、お二人とも少し温かいの飲んで落ち着いて着替えまひょ。体、冷えますよって」
香ばしい煎り茶の香りに包まれ、体が冷えてしまっている事に気付く。そういえば、随分と寝汗をかいていたから、指先や足元などが冷え切っていた。リリスも動転したからだろう。血の気が無くなった顔をしている。青白いほどの顔色だ。
「そうだね。うん、お茶を飲もう。ほら、リリス、少し落ち着けるよ」
コムの心遣いに感謝しながら、湯気を立たせる大振りの湯飲みを受け取る。冷え切った手に温かさが染みてくる。リリスの手の中に置こうとして、大きな手を取ろうとした途端、手を振り払われる。その動作が、理解出来なかった。リリスの俯いた顔が、ハルンツではなくコムに向かって上げられる。強張った頬と、強い感情を宿した紫の瞳がコムを見据えた。
「神殿が、深淵の神殿がなんでここに出てくるの……あんた達に関わると、ろくな事ないのよ」
「リ、リリス? 」
地の底を這う声は、呪いの言葉。いつもの、聞くものの耳を心地よく響かせる低音ではない。
「あんた達の考えてる事ぐらい判ってるっ。どうせ、ハルンツちゃんを神殿へ連れて行くんでしょう。エアシュティマス様の直系な上に、この共生能力だもの。神殿は自分達の勢力につけたいでしょうよ。王国よりも信仰に正統性に箔がつくし。だから、邪魔な私達を離そうとしているんでしょ。マダールをまず引き離しているんでしょっ」
「リリスさん、何言ってるんですか。自分の言っている事わかって」
「判ってるわよ。ハルンツちゃんはこの女神官の事好きだから、何言っても無駄かもしれない。でもね、深淵の神殿は、ハルンツちゃんが思っている程清らかな所じゃない。神よりも精霊よりも、信じてるのは金だし権力だし力のみ。神官達は自分の身が可愛いだけなの。あいつらは」
「コムさんは違う! 」
彼女は違う。その唇から零れる言葉は、全て真実だ。ウソはついてない。彼女が信じているのは精霊だ。この世の理だ。彼女は違う。そのことは、ボクが一番知っている。
そう振り返って、固まる。コムの浮かべた微笑が、泣きそうに思えた。
「リリスはんの、言う通りどすな。神殿は恐ろしい所や」
そっと、盆を持って立ち上がる。
「よう、考えてくれて構いまへん。ハルンツ様が拒否するのなら、神殿に行かんでもよろしいおす」
「で、でも、戦の種火になったらいけないし」
「李薗の玄徳殿下やジクメ殿は、優秀やさかい。ややこしゅうなりますが、手はいくつかありますよって。時間を、少し用意しますさかい……ハルンツはん自身の事、もう一度考えておくれやす。確かに、私はハルンツはんを神殿に招き入れる為に工作してきました」
目を合わすことなく、コムは微笑みを浮かべたまま呟く。
「もう、隠しまへん。そうどす。大霊会の参列を名目に、ハルンツはんと接触する事が本来の役目どす。神殿に、招き入れる為どす」
「そんなのどうでもいいっ」
「昨晩ずっと考えたんどす。ハルンツはんは、裏も表もない心で私と会ってくれはりました。その誠意に、今度は私が答えたいんどす。ハルンツはんには、幸せになって欲しい、そう思ったんどす。このまま、清らかなまま過ごして欲しいと。そう思ったら、もう……神殿へ入れるとか、どうでもいいんどす」
リリスがいる場で、ハルンツはんと呼んでいる。そのコムが顔を上げてハルンツの瞳を真正面から見つめた。
「そんな事言って、いいんですか。あなたの立場が、悪くなる」
「構いまへん。神殿へ入って、今のままのハルンツはんが消える事の方が……私には耐えられまへん」
「今のボクは、消えればいい」
両手を握り締める。固く固く、拳を握り締める。海で荒れた手ではなく、いつの間にか骨ばった手を、睨みつける。
「教えてくれたのはコムさんだ。やりたい事とやるべき事は違うって、教えてくれたのはコムさんだ」
奏者になりたいと願ったボク。戦を止めなくてはと思ったボク。やりたい事は奏者。やらなくてはいけない事は山積み。それを混同していたのが早乙女祭までのボク。
そして、やらなくてはいけない事から目を背けていたのが昨日までのボク。
「今まで怖くて、判らない事も怖くて、逃げてた。その結果が、これだよ……本当に大事なものが目の前から消えて、ようやく覚悟できたんだ」
代償は、大きすぎた。最初に守ろうと思った仲間を、初めての仲間を、傷付けてしまっている。
「リリス、ごめん。ボクが、全て蹴りをつける。だから、ほんの少しだけ時間を下さい」
全てに答えをだそう。やるべき事を、やってやる。この戦、ボクが火種になるのなら、存在すら消してやる。さっき見た夢が現実にならない為なら、この身はなくなってもいい。最も大事なのは、目の前の愛すべき人達が生きていける事。あの浜に続く空が、晴れている事。
「マダールを探し出す。そしたら、逃げて欲しい。どこか、遠いとこへ逃げて。コムさんも、一緒に逃げて欲しい」
「ハルンツちゃん、何言ってるの……逃げるって、何から逃げるの」
拳を、リリスの大きな手に包まれる。冷たい手に、涙がこみ上げそうになる。浜にいた時は、ずっと一人で平気だった。おばぁが死んでも、一人で生きていけると思っていた。父さんに殴られても、村の人達に声をかけられなくても、平気だったのに。ボクは、こんなにも弱くなっていた。いや、きっと弱かった。ただ、大事なものがなかったから、守りたいと思うものがなかったから、自分の弱さや脆さに気付かなかっただけだろう。ボクは、こんなにも、臆病で寂しがりやだ。
「ボクは、やるべき事をする。それだけ」
「ほな、私も一緒に行きまひょ」
涼やかな風が、顔を撫でていく。軽やかに緑の香りで辺りを清めていく。風の精霊が、辺りを穏やかに包んでいた。その動きの中心に、微笑むコムがいた。
「神官としてではなく、室の娘でもなく、ただのコムという名の人間として、ハルンツはんと共に行きまひょ。その行く先を、私にも見せておくれやす」
何も、いらない。どんな未来でもいい。
戦を避けるために、この身がどうなってもいい。神殿に身を沈めても。権力でこの身を汚しても。
ただ。ただ、願いは一つ。大事なこの人達を守れるのなら、どんな大きな代償だって払っていこう。
鳶色の瞳を見つめ、紫の瞳に頷き、ボクは気付く。こんなにも、穏やかな気持ちになっている。恐れも怒りも、全ての気持ちを受け入れてる自分に。