72 夢か現か
今まで残酷と思われそうな描写は避けていましたが,今回は冒頭にやや残酷ととられる可能性のある描写があります。苦手な方は次話へと,飛ばしてくださり構いません。
ここはどこだろう。浩芳さんの屋敷に泊まったはずなのに。立ち上がり、そっと周りを見渡す。
薄暗い。今が夕方なのか、夜明け前なのか、それさえわからない。
ただ、辺りに漂う異臭に背筋が凍っていく。
このニオイ、知っている。
物が燃えた炭のニオイ。血のニオイ。人の焼けるニオイ。髪が燃えるニオイ。そして、鉄のニオイ。
火事でもあったのか、辺り一面の異臭と燻った残骸と幾筋も立ち上った煙。人影もない。
「コム、様……マダール! リリス! 秀全さん! 浩芳さん! 」
嫌な考えが頭を掠める。ボクだけ、なんで無傷で残ってるんだろう。まさか、エリドゥが戦を仕掛けたんだろうか。だとしたら、なんでボクだけ残ってる? なんで何も憶えてない?
「アシ様! ジクメ様! 玄徳さん! 」
これは、夢だ。そうだ。でも、そう思いたくても、鼻をつく異臭が脳に刃を突きつける。
「だれか! 返事を……! 」
不意に、足を何かに引っ掛ける。よろけて足元を見れば、真っ黒な木がまだ燻っている家らしき残骸から飛び出ていた。
変った形の木だ。
引っ掛けた足首に怪我がないか、念のために見ようとしゃがんだまま動けなくなる。
変な木と思っていた。真っ黒で細く短い枝が五つ飛び出した木。それは、木ではなく、燃えた人の右腕。枝と思ったのは、天に向かって差し出した指先。崩れた家から飛び出した、真っ黒な右腕。
真っ黒に炭化したソレから、身震いしながらゆっくりと目を離す。
「ひっ……」
気をつけて目を凝らせば、目先の地面に転がった丸太の端には女物の着物の柄が残っている。その横には、半分に斬られた小さな塊。
これは、この世の終末の光景か。
震える足を叱咤して立ち上がる。よくよく見れば、地平線の先まで燃やし尽くされている。僅かに、白く光る雲上殿と天鼓の泉の方向には煙がない。遠くシュミ山は、緑と白の頂きを汚さずにそびえている。その事だけは、僅かな救い。クマリは、全滅していない。甚大な被害が出ただろう。が、生き残れた人が僅かでもいるはずだ。例え、終末の現場を見てしまったとしても、命があればなんとかなる。望みは、それしかない。ここにいた人で、息をしている人はいるだろうか。誰か、生きていて欲しい。
微かな物音が聞こえて、焼け野原に目を凝らす。と、地平線と煙の向こうから人影が近づいているのが見える。
やせ細った子馬に乗った女と、血だらけの男。
男が歩くたびに、血のニオイが濃くなる。俯いた女が抑える腹は、大きかった。妊婦だ。
「もう少しだ……海まで出るんだ……エリドゥまで……いや、海流に乗って南へいけ……」
「お前様も一緒に行きましょう。もうすぐ生まれる子が父なし子なんて、嫌です。お前様……お前様」
女の叫び声が、細く響く。男が崩れた。主の異変に気付かないように、子馬はすすむ。ただ、持ち手が消えた手綱を引きずり、地面に首を垂れて足を前へ前へ。女の泣き声が引きずられるように、細く残っていく。
もう、泣く力も残っていないようだ。ただ、呼吸をして、脈を打つことで精一杯なのだ。悲しみより、生き抜く事を優先している。
まるで自分の命を全て注ぐように、大きなお腹をさする動作だけを繰り返す。
足を引きずるような馬の歩みが、ハルンツの前で突然止まる。折れるように前足から倒れていく。手を伸ばすより先に、女の体が滑るように馬の背から落ちていった。
「この子だけは、この子だけは……」
もう、いい。もう見たくない。もう、判ったから。
これは、ボクが決断を誤った罰。神様が見せた結末の夢。そう信じたい。信じさせてくれ。
孕んだ腹を擦り、女は地面へ仰向けになる。天を仰ぎ見る瞳から、一筋の涙が零れていく。
遠くから、勝ちどきの雄たけびが聞こえる。地面を震わすような馬のヒズメの音も聞こえる。
ここも安全じゃないのか。やはり、戦でこんな惨状が起きるって事なんだろうか。
とりあえず、目の前の女の人を安全な所へ連れて行こう。そう辺りを見渡すと、土煙の向こうから巨大な旗がはためく。
真ん中に勾玉を掲げ四方に神獣を配置した紋章。見知った朱雀も、巨大な黒い亀も。
李薗帝国。
この惨状を作り出したのは、李薗帝国なのか。
「主様、私の命を捧げます……この子をどこか安全な場所へ連れていてくださいまし……」
女から零れた祈りの言葉に、空を見上げる。
うららかな春の霞空が、消えている。燃え尽きようとしているクマリの空は、煙で曇っていた。灰色で昼か夕刻か明け方かも判らない天頂に、真っ白な点が輪を描いて飛んでいる。
「この子の魂を、安全な場所へ……李薗も手が届かない、彼方へ、安全な所へ……連れて行ってくださいまし」
「だめだよ! 死んだら、駄目だよ! 主様、ボクがいけない事は判ったから、だからもう夢はやめて下さい。もう、過ちは犯しませんから、だからっ」
『その腹の子は、そなただけの子ではない』
雲間から零れた一条の光のように、声が頭に響く。見上げる白い点は純白の大鷹となって急降下してくる。
天へと差し出された女の手を思わず握り締める。強く握り締めるが、女の視線がハルンツに向くことはない。主様だけを追っていく不自然さを感じながらも、柔らかな手の感覚に戸惑っていた。
思いのほか、温かく柔らかい。夢のはずなのに、何故こんなにはっきりとした感覚なんだろう。
『戯れに聞こう。その子になんと名付けるつもりだ』
鋭い爪が、倒れた子馬の背にかけられる。
倒れた子馬の背に留まった眩しいほどの大鷹を見つめて、女は微笑んだ。
「クマリの救い主から名を頂き……ハルと、名付けたく思いまする」
『よき名だ』
翼が開かれる。金色の瞳が眼光強くハルンツを見据える。
『その魂、我が預かろう。ハルンツよ、ハルよ、母の温もりしかと憶えておけ』
体が、急に熱くなる。軽くなっていく。このまま、女の中へ溶け込んでいく感覚に、慌てて主を見る。その金色の目が、確かに微笑んだような錯覚。
『時間と空間の果てで、再び会おうぞ』
心地よいほどの温もりと鼓動に包まれていく。真っ白に輝いていく視界の端に、倒れる女の姿が小さく小さくなっていくのが見える。風よりも早く、ボクは飛んでいく。死臭漂う地表から、清らかな天へと、飛んでいく。
真っ白に、全てが真っ白に輝いていく。美しいほどの、白。
「っわぁ」
体がビクンと布団を跳ね上げた感覚に、慌てて起き上がる。
障子から滲んだ微かな光で、うっすらと視界が広がっていく。荒々しい呼吸の音が自分のものと判ると、安堵の気持ちで体中の筋肉が弛緩していく。手の平の痛みで、布団を握り締めていた事に気付いた。随分と緊張してい事に気付き、さっきまでの記憶が生々しくよみがえる。
焼け野原になったクマリの地に転がった幾つもの死体。燻った灰色の空。人間が燃えるニオイ。そして、死んでいった男と孕んだ女と主様。
夢にしては、はっきりしていた。現実のように、全てが明瞭だった。
あれは、夢ではないんだろうか。
そう思ってしまった途端、布団から体が飛び跳ねて障子を音を立てて開け放つ。
縁側の向こうの坪庭も、瓦に切り取られた白み始めた空も、変らない。
ひんやりとした夜明け前の空気に肌を撫でられ、身震いをする。嫌な汗を随分とかいてしまったらしい。その鳥肌に、安心する。
あぁ、夢だった。
うん、そうだ。あんな恐ろしい事、夢に決まっている。
安堵の溜息をして、縁側に座り込む。まだ早いが、あの悪夢のあとでもう一度寝る気にはならない。ただ、ふと思い出して両手の平を見下ろす。
あの女の人の手は、温かかった。最後の温もりは、縋りつきたくなるほどの心地よさだった。まるで、おばぁの手に包まれたような感覚だった。身を挺して子を守ろうとしていた女の人の手。あれが、母親の温もりというものだろうか。
ボクの母親も、あんな風に温かかったのかな。
口元が、緩む。悪夢だったけど、最後の温もりの感覚だけは、救いだった。
もう一度だけ思い出したくて、両手の平を頬に当てて目を閉じる。
全てが白く輝く光に包まれて空を飛ぶ感覚。あれは、なんだったんだろう……。
「マダール、マダール!! 」
思いに耽った途端、隣の間から悲鳴のような声とともに、障子が音を立てて幾つも開かれる音がする。足音をたてて板間を駆けてくる足音に、顔をあげた。
夜着の前を肌蹴たままのリリスが、縁側に飛び出し辺りを見渡している。白い顔に、血の気がない。
「ハ、ハルンツちゃん、いつから起きてたのっ」
飛び掛るように、リリスがハルンツの所へ駆け寄る。二の腕を掴む大きな手に、力加減がない。乱れた前髪の隙間から覗く紫の瞳が、動揺しているのに気付いた。
「どうしたんですか、マダールと一緒に寝たんじゃ……」
倒れたマダールが、いつ目を覚ましても安心するようにと、昨夜は隣に布団を敷き寝たはずだ。
リリスの動揺と言葉が理解出来ず、諭すように笑いかける。
「いないのよ、マダールがいないのよっ」
言葉は、力を持っている。
思いを言葉にして出した途端、リリスの唇が震えだす。
先の悪夢が、その冷たい手で心臓を一撫でしていった。
今更補足。李薗帝国の『李薗』ですが,同じ音で『りえん』は歌舞伎界を表わす言葉の『梨園』があります。比較的中国要素が強い文化の国として書いてますが,あえて『中国っぽい字』に,日本文化をイメージさせる音を合わせて『異世界っぽい訳わかんない加減』を出させています。その為,中華文化の色が強い『李』の文字に置き換えた『李薗』の単語を使っています。もし混乱させていたらすみません。