70 悲しき決断
「えぇ、蓮迦さんが……」
そう言葉を続けようとした途端だった。店の方から人の言い合う声が聞こえる。
とたん、秀全は片足を立ち上げ、リリスはマダールの肩を抱く。
緊張が張り詰めた中、衣擦りの音だけさせて番頭の男が頭を下げ薄くなった頭頂部を見せて襖を開けた。
「旦那様、昴家のアシ様がお見えですが」
「おや、随分と慌ただしいね。こちらへお通ししなさい」
「いえ、その、もうお一人お見えになりまして、その」
歯切れの悪い言葉が終わらぬうちに、番頭の背後に小袖を纏ったアシが二人、足音を立ててかけて来た。
「だから、なんでアシがここにいんのどすか」
「皆さんが無事かどうか確かめるのが私の役目っ」
「だから、あんさん来たら、エリドゥや斗に居場所がばれてしまうやないの」
「ちゃんと陽が暮れてから来ました。白雪も置いてきたし、従者は一人だけだし、小袖着て変装もしたし」
「あんさん自体、よう目立つんえ。判ってんのどすか」
「なによ、同じ顔したコムに言われたくないわよ」
「華やかでいいじゃないか。アシはいつもそういう格好ならおばぁも文句ないだろうに。コムもよく似合うよ」
浩芳が軽快に笑うと、二人の美女が睨み降ろす。
その迫力ある光景に、秀全は溜息をついて番頭を下がらせる。明らかに助かったという表情を浮かべて、番頭は下がっていく。確かに、店に突然これだけの美女が訪れて口ケンカを始められたら迷惑だろう。痴話げんかにしか見えない。
「お言葉ですが、まさか店先でこんな罵りあいしてた訳じゃないですよね」
「「それはしてませんっ」」
疑いの視線を遠慮なく送る秀全。同時に動き返事をするアシとコム。そのありえない光景に、ハルンツは口を開けたまま見蕩れていた。太陽と月が同時に輝いている。
「あの占いの晩、『いつだって助ける』と言ってくれた言葉を思い出して叫んだんです。まさか、本当に助けに来てくれたとは思いませんでしたが……ケホッ」
「そうか、そういう事があったとはね。蓮迦がわざわざ来てくれたとは」
「それは、違いますな。その蓮迦はんは、ハルンツ様や秀全はんの近くに常にいたはずどす」
揺れる蝋燭の明かりに照らされたコムが、そう言うと浩芳と秀全が顔を上げる。
あの大喧嘩のあと、話を折られた蓮迦の話を再開する。
暗くなった座敷に燭台が用意され、灯りが点される。庭からの夜の冷気で、まだ肌の奥で燃えている昼の大逃走劇の興奮が冷めていく感覚。事実を話そうと手繰り寄せる頭には、丁度いい心地よさ。蛙の鳴き声も一層、浜を思い出させる。
「基本、死んだ者を見る事が出来るのは、御魂使いだけどす。確かに精霊を介して会話をする事は可能どすし、ハルンツ様もそうしてきたはずどす」
コムの言葉に、ハルンツは無言で頷く。確かに、死者の声を聞く占いの場合、近くの精霊を介して会話をしていた。
「じゃあ、なんで蓮迦の声が聞こえたんだ? お前、なんか呪術でもしたのか」
秀全の疑問に、大きく首を振る。そんな憶えは、まったくない。
「まさか。ボクが使える呪術は水鏡と大祓ぐらいだよ。あとは祭事の祝詞ぐらいしか知らないし」
大祓すら、新年を迎えるための祝詞だという認識だった。呪術の事は、まだ知らない事の方が多すぎる。
「稀どすが、精霊を見る神官にも死者を見る者はいます。ハルンツ様、蓮迦はんの姿はいつも見えてたんどすか」
「ううん。いつも見えるのは精霊だけだよ。そりゃ、たまに死んだ人を見て生きてる人と間違えそうになるけど」
ハルンツの告白に、秀全とリリスは顔を合わせて頷く。
「なるほど。だからいつもボーってしてるんだな」
「たまに宙に話しかけてるのは、気のせいじゃなかったのね」
酷い言われようだ。事実だけれど。
二人の暴言に苦笑いをしながら、コムは話の続きを再開する。
「精霊を扱う、ましてハルンツ様ほどの共生能力で御魂使いの能力もあるとなれば、『助けて』と呼ぶ声にも力があります。言霊というもんどす」
ポンと、手を打つ。
中庭で水音。蛙が池に飛び込んだのだろう。
「呪術の基本は、音どす。祭文を詠む事で起きる音の振動で、世界の理に沿って精霊達の御力を借りるんどす。この拍手でさえ、魔を払えるんどす。音の力と共生者の力を使えう術が呪術いうても、いいでっしゃろな。反面、御魂使いは自らの体内の振動を死者の魂と同調させるそうどす。ハルンツ様が時々死者が見えたりエアシュティマス様が見えるのは、相手の魂の波動と偶然か無意識に同調してしまうからでっしゃろな。つまり、『助けて』と呼ぶ声の響きと欲求で力を発動させたんどす。それが言霊どす」
鳶色の瞳が、微笑む。その微笑は美しい。けど、言っている内容がいまいち理解出来ない。
「蓮迦はんは、助けを呼ぶハルンツ様の声を鍵にしたんどす。傍に駆けつけ、姿を現す為の合言葉にしたんどすえ」
あ、なんとなく判った。
つまり、本当にボクをいつか助けようとしてくれた。そういう事だ。
「蓮迦は、優しいからな……」
ぽつりと、呟く秀全の言葉が重く甘い。幼馴染みという二人には、様々な感情があるのだろう。
浩芳は、そんな秀全を見つめて少し寂しそうに微笑んでいる。
「それよりも、今回のエリドゥの動きは厄介どすな。雲上殿はなんと言ってますん。あんさん、なんか用事があってきたんでっしゃろ」
「言われなくてもします」
相変わらずの遠慮ない言葉の応酬をして、アシは口をつぐむ。その間に嫌な予感が走る。アシが口ごもるなんて事、今までになかった。
まるで板間の年輪を数えるように床を睨みつけてから、顔を上げた。いつもの微笑みはない。
「今宵、兄がエリドゥのファリデ王妃と会食をします。玄徳殿下は斗家のグムタン殿に酒宴へ誘われたそうです。もう、互いを探る段階ではなくなりました。おそらく、今回の騒動でハルンツ様の正体を確かめたのでしょう」
「今宵の会談で宣戦布告なんて物騒なこと、ならんでしょうな」
「宣戦布告は、しないだろうねえ」
大振りの茶碗を包み込み、浩芳は一口すする。そして、ハルンツをまっすぐに見た。
「私なら、確実にハルンツを手に入れてから宣戦布告だね。確実に勝てる鍵を手に入れてから、勝負に出たほうがいい。これだけ大きな勝負だ。しっかりと駒を固めるだろう。あの王妃なら、尚の事そうするだろうね。今日の出来事で判ったのは、威嚇の時は終わったという事さ。エリドゥは、ハルンツという獲物をはっきりと見定めた。これからまっ逆さまに急降下して獲物を狩りに来るだろうよ。ジクメや殿下も、その辺りは判っているのだろう? ただ、今日の事で不思議なのは明らかにハルンツを狙っていたという事だ」
「まさか。だっておじ様、これほど変装までして細心の注意を払ってきたんですよ」
「そうどす。深淵の神殿もハルンツ様まで辿りつけたのは持てる呪術を駆使してきたからどす。まさかエリドゥ側にそれだけの力があるとは思えまへん」
「そういえば、なんでコムはハルンツ様と面識があるの? 」
「それは秘密どす」
含みを持たせるコムの言葉に、ボクの息が止まる。リリスからの視線が、突き刺さってくる。
「どちらにせよ、どこか情報が漏れてますえ。ハルンツ様の存在を知っているのは、この場にいる人間と」
「玄徳殿下と兄上と」
「玄徳さんの家人の義仁さんと周偉という人かな。周偉っていうのは、玄徳さんの師匠みたいな人だって、まだ四十だけど偉い役人様です。東桑の関所で会ったんだよ、ほら、マダールとリリスも会ったよ。ヒゲのおじさん」
聞き慣れない名に眉をよせたアシ達に、身振り手振りで説明し、リリス達に同意を求める。
しばらく眉を寄せてたリリスが手を打ち頷いた。
「そういえば、あの時一人いたわね。あのいけ好かない役人」
「い、いけ好かないかはちょっと……。とにかく、玄徳さんはすごく信頼してました。外交の面ではすごく頼りにしていて」
「気に、なりますな。周偉殿、どすか」
コムの言葉に、アシは頷く。この二人、やはり似たもの同志らしい。
「その周偉殿、何処にいるのですか? 殿下の周りの重鎮にそのような若い者はおりませなんだ。年寄りばかりでしたよ」
「うん、同行を求める手紙は書いたけど、まだ来ていないって。その、何か国内の問題に当たってるんじゃないかって、そう言ってたよ、ね、マダール」
玄徳が下屋敷を離れる夕方に語った「何かあったら周偉を頼れ」という言葉。正確に思い出そうと、居合わせたマダールに同意を求める。が、マダールは真っ白な顔をしていた。
「ほら、その、あの日の事だから思い出したくなかった、かな」
別れたあの日の事だ。思い出したくなかっただろう事を、言ってしまった。気まずさに、小さく「ゴメン」と呟く。マダールの肩に手をかけたリリスが、気にするなと言うように首を振ってみせる。それでも。マダールは俯いてしまっていた。
自分の気の利かせられなさに、情けなくなってしまう。
「とにかく、外交面でそこまで頼りにされるほどの官僚が、この有事にクマリに来ないのは変ですね」
「でも、疑うのは得策じゃないどすな。クマリにとって李薗は同盟国でっしゃろ。もう少し調べてから疑ってみまひょ」
「なんで同盟結んだ事まで知ってるんですか……」
「それも秘密どす」
あの晩の宴の事も、水鏡で見ていたのだろう。
神殿の秘密を知ってるハルンツは目を丸くしてしまい、アシは肩に流した髪をかきむしる。苛立つ声が聞こえそうだ。
苦笑いした浩芳が軽く膝を打つ。
「まぁまぁ。疲れた体と頭で考えてもきりがない。夕餉にしよう。コムも久しぶりにアシと昔話をすればいい。秀全、皆に膳を用意してあげなさい。あぁ、あと風邪の薬も」
「そうですね。ハルンツ、さっさと治せよ。風邪うつすな」
「だから風邪じゃ、ケホッ」
「そう言えば、あの時より声が変どすな」
「あの時って何! やっぱり何時会ったのですか! 」
「それも秘密どす」
「あ、あの!」
夕餉という単語で、すっかり和やかになった雰囲気に、マダールが声を上げた。
真っ白な顔で、頬を固くし唇をかみ締めている。迷うようにしばらく視線を泳がせてから、深く息を吐き出した。そしてついと、リリスとハルンツを見据えた。
「あたし奏者目指すの、辞めます」