65 ほつれた過去
「小さな時に眺めたここからの景色、好きなんどす。北を見ればシュミ山や神苑の森があるし、そこから南へは京の平野が広がって……夜は家々の明かりが星屑みたいで夜空に包まれてるような錯覚がありましたなぁ。遠くに海まで見えますよって。見えますか? 」
「……はい」
うっとりとした口調で、コムは景色を解説しだす。全身に遥か先の海から流れてくる風を受け止め、その薫りを堪能するように深呼吸をする。外套と長い髪が、風になびいて膨らむ。
「あの海の先に、ハルンツ様の故郷も、深淵の神殿そびえるエリドゥ王国もあるんどす。世界は、広うおます」
小さく見える彼方の海原。深く明るく輝いていた故郷の海ではない。暗く冷たい色の海に変っている。でも、確かにこの海はつながっている。世界につながっている。
「急がなくても、大丈夫どすえ。どんなに焦っても世界は広すぎて、私達人間は小さすぎます。呪術を駆使しても世界中を飛び回る風の精霊のように、多くを見れまへん。水の精霊のように地の底から空のてっぺんまで行けまへん」
「でも」
知りたい。何とかしたい。そう考えれば、もがけばもがくほど、自分の頭や手が小さい事が腹立だしい。
「でもハルンツ様は、この広い世界を一歩一歩の歩幅を重ねて、故郷の浜からクマリまで来たんどすやろ。慌てる事も急ぐ事もありまへん。出来る事を確実にやっていくんどす。大丈夫。深淵の神殿は、ハルンツ様の手足となりますさかい」
「なら、なんで戦を止めようと考えないんですか! 」
「ほな、なんでハルンツ様はこんな忙しない時に奏者を目指す言うんどすか」
コムの鳶色の瞳が、まっすぐにハルンツを射抜いた。
一拍、心の臓が止まった。
息を止めたまま、頭の中が真っ白になる。
「奏者になって、天鼓の泉に立ちたい。その為に戦を止めよう言うんどすか? 所詮、そんな考えなんどすか」
「それは、違う……ううん……」
欄干を、強く握り締める。
戦は、見たことない。人が殺されるのも、見たことはない。食べ物がなくてひもじい思いは何度もしたけど、人が殺しあう光景なんて想像もできない。
深く呼吸をくり返し、俯く。
これはボクが聞きたくなかった言葉、考えたくなかった事。全てをぶつけられた衝撃。
「ボクは、戦の事、知らない。判らない。想像できない」
「この世界の大部分は戦をしりまへんよ。武人でさえ、模擬演習程度どす。大勢が切り倒されてる光景なんて、エアシュティマス様の大陸統一以前の光景や」
「……玄徳さんやジクメ様は、一生懸命に戦を避ける方法を考えてる。ボクは、ただ避けてるんだよね」
「そのようどすな」
「でも、どうしよう。クマリに入る時に見た天鼓の泉が頭から離れないんだ。すざまじい気が立ち上っていたあの光景が、頭から離れない。あの場所に行きたい。あの場所で、演奏したいんだ。でも、里のみんなを忘れた訳じゃない。みんなが安全に暮らせるようにもしたいよ。逃げて暮らすのは、辛い事だから。当たり前に送っていた生活が送れるように、早くしたいよ。でも」
「そこまで考えてるのに、まだ奏者なんて言わはるんどすか」
放たれたコムの言葉で、ハルンツの頬が打たれた気がした。
「里のみなさんは、李薗の報復を恐れて逃げてるんでっしょろ。それはどうします? 」
「玄徳さんに、相談するとか……あぁ、李薗だけではないし」
口に出して、ようやく具体的に見え始める。他人に頼っている自分に気付きだす。
エアシュティマスの血を引いているのだから、その力を求める勢力全てに追われている。李薗だけじゃない。エリドゥ王国だって、まだ名もしらない国々も、その血に宿るだろう力を求めるに違いない。今の村人に大した力がなくとも、次の世代に現れるだろう『ダショーの子』を求めるのは目に見えている。
「そうどす。今ハルンツ様が逃げおおせても、おそらく次に現れるハルンツ様のような力を持つ子が、狙われますえ。力ある者は、より多くの力を手に入れようとしますさかい」
「じゃあ……例えばエリドゥ王国がボクを手に入れるか、次の『ダショーの子』を手に入れると? どこまで戦は広がるの? クマリの向こうの李薗を求める? 」
「李薗だけが狙いじゃないん気がしますえ」
顔にかかった髪を耳にかけ、コムは視界に広がるクマリの大地を眺めている。
「クマリの地は豊かな実りもある。神苑では玉獣も生まれる。それを扱える民もいる。大きな戦力になります。李薗を征服すれば、他の国々も遊牧民もエリドゥに降伏するのは明らか。欲しいモノは……大陸の覇権やろか」
「そんなの……なんの役に立つのかな」
思わず零した言葉に、コムが視線をハルンツに戻す。綺麗な瞳を見開いて、固まっている。
「驚きましたわ。この世で一番覇権を握れる人の言葉とは思えまへん……」
「でも、大陸の覇権なんて手に入れても、責任重すぎで大変そうだ。エリドゥ王国は、なんで欲しいんだろなぁ」
「正確にはエリドゥの王妃はんは、そう負担に思ってないんやろうな。こればかりは、本人の胸の内さかい。どちらにせよ、クマリを落とすこの時に現れたハルンツ様を、確実に手に入れたいと思うのは当然やおへんか。神殿の力を削ぐ為にも、戦の勝敗を左右するのも、可能になりますさかい」
そうだろう。大陸の覇権が欲しいなんて大事、ハルンツの頭では考えられない。
これだけの事を考えるのだから、ハルンツを手に入れるようと手を尽くすだろう。そして、不可能ならば、次世代に望みを賭けて同じエアシュティマスの血を引く里の者を捕らえようとするだろう。
自分の浅はかさに溜息をついて頷く。
「戦の火種にならないように、戦が起こらないようにする。それが、ボクがまずしなくてはいけない事だ。」
「深淵の神殿に隠れる事は? 」
「しない。まず、止めなくちゃ。斗家の当主にボクの存在が伝わっているんだから、エリドゥ王国は知っているはずだよ。隠れても、止められない。なら、ここで動いてなんとかしたい」
ボクがしなくてはいけない事、これからしなければいけない事は山のようにある。ぼんやりと考えていた事が、難題だらけだった。目を背けていた事に、ようやく気付いた気がする。
難題を片付けたその上で、ボクがしたい事……天鼓の泉の奏者になりたい事。……いつかそれが、出来るのなら。叶うのならば。可能性は、小さくなったけど。構わない。
顔を上げると、コムと眼が合う。
その微笑に、また心の臓が一拍止まる。
なんて綺麗な微笑みをするんだろう。
「よう判りました。深淵の神殿へ、その御意思をさっそく伝えます。元々、神殿はエリドゥの勝手は許さへん考えやさかい、戦を止める為の協力を惜しみまへん。里の皆さんの件も、充分に検討してみるよう伝えまひょ」
「あ……でも、エリドゥ王国に楯突く事したら、神殿が攻撃されませんか? 」
王国の領土の中にある神殿を攻める事は容易いだろう。当たり前のように容易く言われた言葉に驚いてしまう。
「深淵は、大陸中の人々の信仰の場所どす。そこを攻撃すれば、大陸に暮らす人を残らず敵に回す事になりますさかい。直接攻撃することはありまへん。それに……エリドゥ王族にとって深淵の神殿は、王国の砦やさかい。牙をむいた、砦どす。エアシュティマス様の言い伝えは聞いておりまへんか」
牙をむいた砦。その比喩に、ただならぬ怖さを感じ、頷く。
「本当に、里にはダジョー様の事は言い伝えられていないんです。エアシュティマスという名前も知らなかったんです。どんな人生を送った人だったんですか? 」
「そう、どすか。エアシュティマス様自身、お話になれへんのどすか」
少し考え込むと、ゆっくりと首を振る。
「なら、余計に言えまへん。ハルンツ様の周りの方も教えてないんでっしゃろ」
「はい。本人が言ってないのなら、外野は何も言えないと」
細く長い指を、形のよい唇に当てて、コムは遠くを見つめた。
薄紅色を微かに帯びた唇が、ぷっくらと膨らむ。
「それはそうどすな。外野がとやかく言えはしまへん。でも、知らないのも……困るでっしゃろ」
「困ってます。何がなんだか、わかんないんです。なんで、消えてしまったのか、わからない。里を出てから、ずっと色んな事を教えてもらったのに。精霊文字だって、精霊の歌だって、教えてくれたのに……あの晩、神苑の森で妖獣に襲われた時に」
一瞬、言うべきか迷い、口をつぐむ。顔を上げると、コムに顔を見つめられていた。穏やかな鳶色の瞳を見つめ返し、決心をする。
この人なら、きっと何か答えが帰ってくる。ハルンツに「やるべき事をやれ」と言ってくれたこの人ならば。
「ここで力を使っては存在出来なくなる、目覚めた目的がなくなる、そう言ったんです。何か、心当たりはありますか? 神殿に仕えるコム様なら、判りますか? 」
「目的……となれば、おそらくナキア様やタシ様の事やろか」
宙を睨んで、そう答えを呟く。
ハルンツの頭の中で稲妻が突き抜けた。
「ナキアって、よく言ってました。我が妃って、言ってました! 」
「そうどすか。そう、どすやろな。神殿の伝承では、ナキア様を大層愛しておられたと伝わっとります。エアシュティマス様が目的を持って目覚めたとしたら、ナキア妃や御子のタシ様の事でっしゃろ」
「何があったんですか? 確かなところまでで良いんです、教えてください」
「確かなところ言うても、五百年も前の事どすからな」
慎重に選ばさせてもらいますよって。
そう前置きをしてから、コムは宙を睨みながら話し出す。
一語一句、確認しながら。
「エアシュティマス様が妃と望んだナキア姫は、エリドゥの王族どした。ナキア姫の父王は、反対したそうどすな。魔術を操るいうても、いきなり現れた男に娘を嫁がせるなんて親として出来ないでっしゃろ。そこで色々あったようどすが、ここからは御伽話。色んな話があって確かじゃありまへんな」
コムは、大きく溜息をついた。
「王国側と神殿側で話が違うんどす。我ら神殿は「父王が王国の繁栄を望む為にナキア姫を差し出した」。王国側は「エアシュティマス様が繁栄を約束させる代償としてナキア姫を召しだせと要求した」と伝わっとります。今は誰も知りまへん。ただ、王国側は神殿の持つ経済力と政治的力を恐れとります。神と精霊を信じる民衆は、王国につくか神殿につくか、常に気がかりなんどす。せやから、王国は独自の呪術まで作り出して……」
あの浜で見た幻は、ナキアという名を口にしていた。
ダショーは、何度も愛しい者の名として「ナキア」と言っていた。ハルンツをナキアの血を引く息子だとも。
二人に、何があったんだろう。もしかして、ダショーが消えた訳が、そこにあるのだろうか。
直感が、ハルンツの中で確信に変っていく。
ダショーの気持ちは、ずっと「ナキア」にある。
「ハルンツ様……どうされました? 」
「知らなかったんだ……」
気持ちが抑えらない。風が急に乱れだす。この感情が抑えられない。
空を見上げれば、水の精霊がざわめきだしている。風に乗った水の精霊が雲を呼んでいく。
「どうされましたんえ……風も雲も、えらい騒いどりますに」
ダショーにとって、大事なのはずっと「ナキア」だったという、仮説。
もちろん、共に旅して支えてもらった。ハルンツ自身、多くを教えてもらい大事にされたのは判ってる。でも、多分、ハルンツが考えている以上に、ダショーにとって一番は、「ナキア」だった。
考えれば考えるほど、確信していく。
五百年たった今も、愛し続けている。そして、愛した人の為に動いている。
苦しくないのだろうか。悲しくないのだろうか。悲しくて、絶望の底に叩き落されないのだろうか。
ダショーの気持ちを考えれば考えるほど、辛くて、悲しくて。
「こんな苦しい想いをしてるなんて……知らなかったんだ……」
消えてしまってから、ダショーの勝手を責めるような感情しかなかった。置いてかれた。外ってかれた。そういう感情しかなかった。
奏者になりたいなんて、勝手な事まで考えていたんだ。
ボクは、自分の事しか考えてなかったんだ。
「ゴメン、ゴメンなさい……だから、だから」
その姿を見せてほしい。
今なら、どんな話でも聞くから。どんな悲しみでも、共に味わうから。今度は、ボクが貴方を支えるから。
「ダショー様……」
あっという間に薄雲が空を覆い、霧のような雨が降り出す。
精霊がハルンツに寄り添う涙のように、大気が世界を濡らしていく。
コムがその外套を脱いで、そっとハルンツを被う。
ハルンツは、外套の端を握り締めてうな垂れた。
その優しさに、すがる事しかしない自分に、情けなさで、さらに落ち込みながら。