64 水底からのささやき
藍色の外套から、そっと白い手を見せる。
細く長い指先で裾をつまみ、ハルンツの前にひざまずく。その流れるような動作に見蕩れていた。その周りに漂う気は、澄み切った朝の空気のような美しさを感じさせた。
「先程は恋文のような形で手紙を差し出した事、すんません。ただ、幾多の目が在りましたさかい、強引な手を使いました。お許しくださいませ」
「ちょ……ちょっと待ってください。ボクをお迎えに来たって、勝手な事を……そうだ! なんでボクの名も知っているんですか? なんで」
「ハルンツ様は、なんとも面白い方どすな」
ふふふ……と、軽く手を当てて微笑まれてしまう。
その仕草、その微笑に、ハルンツの顔に顔中の血が沸騰して集まっていく。
目の前の女性は、アシに似ていた。切れ長の瞳も、黒々と美しい髪も。ただ、その身に纏う気が全く違っていた。アシは、狩衣を好む活動的な性格を現したような、日向のような明るさを感じさせる。が、コムと名乗った目の前の美女は、水紋一つない鏡のような水面を連想させた。静かな木々の中にある、清らかな湖。
この綺麗な人から、語られる事が想像できない。
ハルンツの変装を見破り、手紙に『神殿は貴方の疑問に答えましょう』とはっきりと書かれていた。
知りたい事なら山のようにある。
「エアシュティマス様の再来のような力の持ち主と聞き、色々と想像しとりました」
「そりゃ、ボクはこんなのだし。なんにも知らないし。子どもだし」
否定はできない。やっぱり、それらしい姿をしていないんだろう。自分自身でも、本当に大層な力を持っていると思えない。むしろ、ボクは無知で、非力だ。
「この場合、ハルンツ様が『それらしゅう』見えん事は幸運どす。それに、もの知らぬと言える事は良い事どすな。知らない事を知らない言える人は強く賢い人どす」
鳶色の瞳が、まっすぐにハルンツを見ている。
アシと似た容貌で、聞いたことのない言葉使いで喋る事が、ひどく不思議な感覚だ。当たり前と思って食べていた塩漬けの中に、砂糖漬けの果物が入っていたのに気付かずに食べてしまった感覚、と言えばよいか。
思わずしげしげと顔を見ていたら、コムも気付いたのだろう。自分の頬を一撫でして苦笑する。
「アシと似た顔、気になりますか。昔は、双子のように似ていたんどす。父様が私を深淵の神殿に出されたのは、似た顔が二つもあって紛らわしいからだって言うてはるぐらい。失礼でっしゃろ」
「でも、雰囲気は違いますよ。でも……似た顔でも喋る言葉が全然違う」
「小さい時に出されましたさかい、すっかり深淵言葉に馴染みました。深淵言葉は長い年月をかけて、精霊が好む柔らこぅ音に変化したんどす。独特で聞き辛ぉうおますか」
「ううん。その、面白い。うん、大丈夫」
なるほど。ハルンツは頷いて周りを見渡す。吹き渡る風が、留まるようにコムの周りに集まっている。言葉の音の心地よさを、精霊達は敏感に感じ取っているのだろう。
「でも顔はアシと似ていても、考える事は違いますよ。年頃の殿方に女装させるなんて事、私は考え付きもしまへん」
「……ですよねぇ」
「でも、今のトコは何処にもばれておりませんな。良い考えどす」
味方では、なかった。
よう、似合ぅておす。とまで言われて、頭を拳で殴られた感覚。
「深淵も、水鏡で見てへんかったら、ハルンツ様の事を見失ったでしょうな」
「水鏡……」
「そうどす。深淵の神殿、とっておきの秘密どす」
そう言い、悪戯の種明かしをするようにコムが微笑んだ。
水鏡。呪術を習っていないハルンツが行える数少ない呪術、と言えばよいか。世界中いたるところに溢れている水の精霊を使い、物や人を探し出したり見ることが出来る術だ。水、といっても水蒸気や淡水や海水と、その形態が変るたびに精霊の質も変る。通常では形態の変化に合わせて呪文や精霊文字を変えていかなければいけない高度な術だ。使用する水も特に清らかな物を使用する。
その呪術を、ハルンツはそこら辺で汲んだ水を使い、呪文も唱えずに行う。精霊達の好意とハルンツの力で。
「実は、ハルンツ様の事は一年前から見させてもらってましたん。憶えておりまっしゃろか。海南道より北から来たというお客はん。かなり占い賃を弾んだ……」
「内地の旧家の方ですか? 薬草を探しているとかで見た方でしたか」
確かに、記憶にある。依頼内容も当たり障りないものだったが、浩芳以外で賃金の大判ふるまいをした客だったから、かろうじて記憶の底に残っていた。
「そうどす。そのお人は深淵で修行して以前、雲水をしとりました。すぐにハルンツ様の御力に気付いたんどす」
「雲水……」
「地方を回る修行者どす。そのお人は旧家で婿にと請われて入った方でしたが、深淵との絆はしっかりと保たせておりました。大陸中に、そういう網は張ってあるのどす。各地の神殿に、雲水に、縁あった者達に。そうなると、あらゆる事が入ってきますよって。李薗の帝はんが倒れてはる事も、斗の当主はんが玉獣を売り飛ばしてる事も、エリドゥの宮殿で王妃はんがえらい威張っておます事も」
「知ってるんですか! 」
「水鏡も使うてますから。筒抜け、どすえ」
そう言って、にっこりと微笑んだ。それでも、悪戯が成功したのを控えめに微笑むような笑い。
人脈の網を使い神殿に報告された異変の中で疑わしい事柄は、徹底的に水鏡で追跡をするのだそうだ。つまり、呪文もなしで水鏡をしたハルンツは、すぐに報告されて監視の対象になっていたらしい。
「いくら魔術をも扱う深淵いうても、水鏡なんて荒業は出来る人数も限られます。体力も気力も消耗しますさかい。せいぜい十日に一回に見るぐらいどした。少しずつハルンツ様の周りの様子も探りながら、神殿に迎えるか否かを考えあぐねてたんどす。エアシュティマス様のような御力を持った者は、今まで居らんかったし……この事は限られた者にしか知らせておりまへん。だから、突然いなくなった時は驚きましたなぁ。劉浩芳と会った時までは見ていたんどす。それが突然,浜から消えてますやろ。村一つ消えてしまったんどすから、慌てましたよ」
浜に白楊燕が現れた事だろう。確かに、全ては五日ほどで怒涛のように終わってしまった。ハルンツは旅に出て、村の人達は海の彼方へと逃げた。後には、秘刀『金翅』に焼かれた山肌が残っただけのはずだ。
「じゃあ、そこからボクを探し当てたんですか?」
「それはもう、ありとあらゆる呪術と人を使いましたん」
コムの言葉は嘘ではないだろう。神殿の持つ力を思い知らされる。
玄徳とジクメが神殿を気味悪がっていたのが、なんとなく理解できた。自国の内情まで知られてしまうのは、相手の力の大きさを感じて恐ろしい事だ。
「ようやく、神苑の森で大祓してはるハルンツ様を見つけた時は、もう術者はん泣いてましたえ」
「はぁ……」
「せやさかい、もう逃がしまへん。神殿に来てもらいます」
「え? 」
「深淵の神殿どす。もうすぐ戦が始まりそうやし、いそぎませんと」
神殿は、戦が始まるかもしれないと、考えている。神殿までそう思っている。それなのに、何故、神殿へ急がなければならないのか。
その疑問が顔に出ていたのだろう。コムは、少し首をかしげた。肩で結ばれた髪が、さらりと流れていく。
「なんが疑問どすか。戦が起こる事でっしゃろか」
「なんで、神殿に行かなければいけないんですか」
「戦に巻き込まれて怪我でもされたら大事ですよって。深淵は、ハルンツ様を創始エアシュティマス様とほぼ同格で扱う事を検討しとります。……ハルンツ様は聡いようどすから、判りますやろ」
コムが、足元から空へと視線を変えた。
今日も善き日。そう空が叫んでるような、暖かく青い空に雲が幾筋か流れている穏やかな空。
まるでハルンツを避けるように、言葉を零した。本当は、言いたくない。そう横顔が囁いている。
「こんな巨大な力が、フラフラしとったら危険どすえ。どこかの国に攫われて、道具にされかねまへん。その前に、戦の火種になる前に、深淵の奥底にお隠れください」
それが、いい。そうすべきだ。
ハルンツの頭の端から、そんな声が聞こえる。コム達深淵の者達の言う通りだ。でも。
「ボクは、奏者を目指しているんです」
「それは……同行の楽師はんが、でっしゃろ」
「いえ。ボクが、です。神殿は、いつか行きたい。自分の力を知ってみたい。沢山の知識を身につけたい。なにより、ダショー様……エアシュティマス様の事を知りたい。ずっと、浜を旅出してから傍にいたのに、消えてしまったんです。ダショー様は、何か事情を抱えているんでしょう? 里では、ダショー様の伝承は殆どないんです。消されたとしか、思えないほどボクは何も知らないんです。ボクはっ」
「落ち着かな、話は出来まへんよ」
微笑んだコムが、欄干を軽く叩いて横へと促す。
まるで糸で引っ張られるように、コムの横に立つ。丁度、西へ面する場所だ。宴が開かれた南の庭からは、死角になるだろう場所。
導かれるように立ち、広がる景色を眺めた。
なだらかな稜線を描いて、緑の麓が平野に流れている。その平野の向こうに広がる銀と赤の光を反射する海原が微かに見える。
先日の宴は夕闇で海までは見えなかった。景色を堪能する暇も心の余裕もなかった。
少し説明という名の言い訳。
深淵言葉として,京言葉を使用することにしまた。日本語で読む読者に歴史と柔らかさを連想させる言葉使い,という条件で選んだのですが……私ネイティブじゃありません。無謀な挑戦です。小説を書く上でタブーを犯したと思うのですが,世界観の設定と展開上で必要だと思ったので,あえて挑戦しています。それなりに『京言葉』のサイトを読んで書いてますが,「これちゃうやろ」という親切なご指摘,受け付けます。ゴメンナサイ。