61 招かざる客
風に乗って、村人達の奏でる囃子が微かに聞こえる。
緑生い茂る大樹の下、マダールとリリスが向かい合っていた。うららかな昼下がり。近づく蝶もいない。そよぐ葉音も遠慮しているような雰囲気に、ハルンツとアシは互いの目を合わせて影で息を潜めた。
「玄徳と別れたけど、まだ好きなのは知ってる」
「うん。そうだよね。リリスは、あたしの事なんでも知ってるもの」
「奥様から、マダールの事は任されたからね。私は母親と父親と兄と姉の代わりよ」
「兄と姉はいなかったハズだよ」
「まぁ、そうね」
マダールの指摘に、リリスは小さく笑って懐に手を入れて組んだ。
エリドゥ風という大きな布を巧みにヒダをよせて身を包む衣装は、長身のリリスを彫刻のように見せていた。笑った口元は、どこかぎこちない。
「玄徳と別れたの、後悔はしてない」
マダールは、幹に手を当ててそっと呟いた。リリスから、身を返して顔を合わせずに。
「あたしと玄徳じゃあ、身分差がありすぎる。李薗帝国の皇子様だもん。玄徳はそれでも構わないって言ったけど、正室には出来ないがって言ったけど……それも無理な話だよ」
玄徳がそこまで言っていた事に、思わず口を手で覆う。
玄徳は、本気だった。全て、マダールに打ち明けた上で、李薗に来てくれるように頼んだ事に驚く。
図らずも盗み聞きの状態になり、アシも固まったままでいた。
「もし後宮に入ったら、あたしは異国人な上にただの楽師。あたしが謗られるのは構わない。でも、玄徳まで非難されるかもしれない。玄徳は、きっと良い帝になれる。あたし、政治の事は判らないけどきっと、民の事を考えて一生懸命な帝になるのは判る。もし、玄徳が政治を動かす時に、異国人で楽師のあたしが横にいる事が邪魔になるのは……嫌なの。あたしがいる事で、玄徳の足を引っ張るのは嫌。玄徳が「色欲に眩んだ」とか「ろくな帝にはなれない」とか言われるのは嫌。玄徳は、今、皆に必要にされている。李薗のエライ人達にも、クマリの人達にも。だから、別れなくちゃいけないの」
「マダール……あなた、そこまで考えてたのね」
「考える時間は、あったから。アシ様の屋敷で、自分の頭を冷やして考えれた。良かったよ」
マダールの言葉に、悲しみはなかった。この判断は間違ってない。そう、自信すらみせている。
「玄徳に,負担はかけたくない。あたしの事で煩わせたくない。だから、きちんと、あたしから別れたの。別れを決心するより、別れを言い渡された方が、きっと傷つかないし」
「……馬鹿ねぇ……玄徳も、そのくらい気付いてたわよ」
「そっかな?」
振り返ったマダールの頬に、涙が一筋零れた。
「そんなに心配しないでよ。あたし、玄徳と出会えてよかったよ。嬉しいよ。本当に人を愛せたと思うんだ。愛したと思う。ほんの一月の間だったけど……」
そうだ。これは、一ヶ月の出来事だった。
全てが芽吹く、ほんのひと時の、春の日向で見た、夢のような出会い。
「今まで、「もっとあたしを見て欲しい」「こんな言葉を言って欲しい」……相手に求めるだけだった。あたし、初めて、自分が何を出来るか考えてた。玄徳に出来る、あたしの最高の行為はなんだろうって。だから、全てをあげた。今まで生きてきた全てを。その上で、別れたの」
泣かないで。そうリリスに言っているんだろう。でも、マダールの頬には、幾筋もの涙が零れていく。そして、濡れた頬をほころばす。
「おばぁちゃんになっても、きっと後悔しない。死ぬ時まで、後悔しない。いつかきっと、笑って話せるよ。今はまだ、泣いちゃうけどさ」
「馬鹿マダール!」
リリスが、その大きな腕でマダールを抱きしめた。
馬鹿なんていうけど、そう言って抱けるのは、リリスただ一人だ。
もう、大丈夫。リリスが傍にいる限り。マダールがそのまっすぐな心根を失わない限り。
こんなにも悲しい出来事なのに、力強く希望に変えていった。マダールは、強い。さらに、強くなっていく。美しく、磨き上げられていく。
安心の溜息を零したハルンツに、アシが肩をそっと叩く。
もう、ここにいる必要はない。そう無言に語られた途端、大きな声と慌ただしい複数の足音が飛び込んだ。
「姫様! 大変です! どこに居られます?! 」
背後からの大声に、マダール達が顔を上げる。
涙で濡れた緑の瞳が、大きく見開かれて視線がぶつかる。
「ち、違うんだ。その、立ち聞きするつもりは、全くなかったんだけどねっ」
「そう、そうなんです。心配で探していたら、こういう形にですねっ」
アシと二人で手を振り首を振り、否定し続ける。
そのアシへ、村人達が駆けつけた。
「姫様、大変です! 」
「斗の当主様がお見えです! 」
「グムタン殿ですか?! 」
アシの顔が、一瞬だけ汚れたものを見たような表情になる。
それも、ハルンツの視線に気付くと笑顔に変る。やや、頬の筋肉を無理に上げたような笑顔に。
「ハルさん達は、ここで。表には出ないよう。大丈夫です。すぐに戻りますよ」
素早く衣を翻し、駆け戻っていくアシの後姿を見ながら確信する。
これは、ただ事ではない。
「斗の当主殿の、敵情視察ってとこかしら」
リリスが衣の裾でマダールの頬を拭って微笑む。肉食獣の微笑み。
「行くわよ」
「あ、アシ様はここで待つようにって……」
「敵を知らずしてどーすんの。変装してるんだから大丈夫。不安なら私の背中に隠れてなさいな」
ぐいぐいと歩を進めるリリスに、マダールは戸惑うように腕にしがみ付く。
ボクは、そっと手を薄絹に当ててついていく。
大丈夫。今のボクは娘の格好をしている。顔も隠している。そう、言い聞かせて。
「目出度い早乙女祭ですからな。これ、祝いの品をここへ」
ざわめく村人の頭の山々の向こうに、随分と恰幅のよい男性が濁声を張り上げていた。いや、恰幅がいいという表現は、美化しすぎだろう。正直に言えば、体のいたるところに肥えた肉がついた、だ。高価なのだろう、光沢のある深緑の狩衣がはちきれそうな感じすらする。
「これほどの品々を、ありがとうございます。グムタン殿ほど忙しい方が直々のお越しとは、痛み入ります」
「なに。アシの美しい顔が見とうなってな」
幾人もの下人が、屋敷の中へと酒樽や干し物になった珍味の数々を運んでいく。どれも大きく、形よく、黄金色に陽の光を反射している。村人達の間から、溜息のようなざわめきが広がっていく。戸惑いと、感嘆。不安と、欲望。
「宴の邪魔をしてきた訳でない。今日は無礼講であろう? ささ、皆の衆、宴を続けよ」
部外者がいきなり割り込み、無遠慮な発言。当の本人が平然としているのが性質が悪い。
村人達はアシの様子を探るように動かない。その後姿に、信頼の念を送るように、その場の全員が見つめる。
これの成り行きを、誰もが見つめている。
「グムタン様、真に申し訳ありませんが、直々のお越しはありがたく、名誉な事と思います。ですが、今日この日は村人と昴家の祭でございます。ご遠慮願えませぬか」
「ほう……。先日の斗家での早乙女祭でも、祝いの品を昴家より送られたが」
「あれは、兄ジクメの使者により届けられたはず」
「今日は時間が出来た。姫の顔を見て酒が飲みとうなってな。それとも、斗の当主を追い出さねばならぬ理由でも……おありですかな」
アシの手が、衣の中へ隠れる。おそらく、拳を小さく震わせているのだろう。涼しげな顔の内側で、罵りの言葉が渦巻いているのが手に取るように判る。
「斗の当主殿を追い出さねばならぬような理由ですか。そのようなものがあればお聞きしたいですね」
「ワシも聞いてみたいものですな。ハァッハァッ! 」
頬の無駄肉を揺らして笑うと、先にアシが座っていた上座へ座ってしまう。村人達から妙な溜息の小波が湧き上がり、消えていく。
不平など言えない。だが、祭が台無しになりつつあるのは確かだ。
「しょうがないよ。まさか斗の当主が直々に来るなんて、予想してなかったよ」
「あの中年には、さすがにアシ様も敵わないわよねぇ」
「うん……無理だよ」
誰もアシを責めれない。
年の差が、経験の差が、全てにおいて老獪なグムタンが勝っている。
今回は二話Up。続けてどーぞ。