60 祭りのはじまり
早乙女祭。
田植えも終わり、これから稲が無事に成長するように祈る祭りだ。だが、その意味合いは薄れつつある。今はもっぱら、田植えを終えた村人達への慰労会の意味合いも強い。
下屋敷とはいえ、この地区一帯の領主であり大連の一員である昴家の屋敷の敷地を解放し、宴を催される。それは秋の収穫祭と並ぶ村人の大きな楽しみ、ハレの日だ。
さらに、今年は昴家の当主ジクメが族長を継承する大霊会を一月後に控えている。宴も大きく盛り上りそうだ。
「今年の田植えもつつがなく終わりました。これも、みなさんのお陰です。大地母神の恵みに感謝しつつ、今年も仕事に励みましょう」
狩衣で村人達の前で挨拶をするアシの上に、霞を含んだ青空が広がっている。薄桃色の小さな花弁を満開にした木を微風が撫でるたびに、そして花の蜜を求めた小鳥がまるで祭りを祝うように、アシの頭上にはらりと花弁を落としていく。
「皆も知っているように、一月後には兄ジクメが族長を継承する。このめでたい日々を、みなさんと過ごせる事は大きな喜びです。この喜びが続きますよう」
「祝福あれ」
「われらに恵を」
アシが杯を宙に捧げると、村人達が様々な賛美の文句と共に乾杯をしていく。
屋敷の表の庭に用意された宴の場に、一気に祝福の言葉が満ちていく。その様子を、ハルンツは敷物の端に座り見つめていた。
まるで、夢の中の光景だった。
緋色の敷物の上には、鮮やかに山の幸や海の幸を使った豪勢な料理がならんでいる。酒を満たした杯。魚や動物を模した手の込んだ甘い菓子を頬張る子ども達。
どの顔も、喜びにあふれている。そして、この光景を来年も再来年もやってくる事を当たり前だと思っている。この恵みを当然と思い楽しんでいる表情。
浜にみんなは、こんな光景を見たこともないだろう。
いつか、見ることができるだろうか。
かつて、自分達の先祖がしていただろうこの祭を、楽しめる日がくるだろうか。
ダショーこと、始祖エアシュティマスの血を引いているばかりに、大陸の果てで貧しい毎日を送っていた。
ハルンツがエアシュティマスの力を引き継いでいると判った途端、そのささやかな生活すら壊れてしまった。
彼らは今や大洋の向こう、小さな島へ逃げている。
いつか、こんな平和を味わえる日々がくるだろうか。
「それだけ、じゃないか」
小さく呟き、手の平を見つめる。
今や、ハルンツの存在を感じ取ったのかエリドゥ王国は戦の準備を始めている。エリドゥでなくても、どこかの国がハルンツを捕らえたらどうなるのだろう。さらに、奪おうとする国も出てきたら、確実にその争いは戦争となる。それも、大陸を焦土とするような大きい戦に。
いまさらながら、奏者を目指そうとしている自分が馬鹿に思えてくる。大馬鹿者だ。
今しなくてはいけない事は、身を隠し通す事だ。
女に化け、楽師になれば、各国の間者の目は誤魔化せるかもしれない。でも、あまりにも無謀だ。その背にある未来を考えれば考えるほど、無茶苦茶に思える。
自分で決心したことといえ、その重さに眩暈がする。
でも、その反面、奏者になって天鼓の泉に立ちたいという思いは強くなっていく。
あのすざまじい気が立ち上っていた泉で演奏したら、それはどんな体験になるのだろう。異世界を、天界を覗く事が出来るんだろうか。
自分は大陸中を危険にさせるかもという思いと同時に、そんな衝動のような激しい思いに囚われていた。
ボクは、一体、何をしようとしているんだろう。
「ほら、忙しくなる前に美味しいもの食べておきなさい」
「この山ごぼうをお肉で巻いたものなんか、美味しいよ。あと魚のすり身を使った……これ、なんだろう。フワフワなんだから」
考え事をしている間に、マダールとリリスが皿に料理をのせていく。秩序なく山盛りになっていく皿を見ながら、ハルンツは頷く。
いつかの日か、里のみんながこんな生活を送れるようにしていきたい。
来年も、再来年も、飢えの心配がないような、そんな生活を送れるように。誰かに追われる事のない生活を。
春の空気は、何処となく怠慢。その中で、リリスの撥が弦を叩きつける。同時、飛び出すようにハルンツとマダールの旋律が溢れ、その怠慢な空気を弾き飛ばした。
曲は、酔客からの要望で、かなり激しく陽気な踊りのものだ。
エリドゥ風の旋律が、祭の非日常をかきたてる。
女性達の足踏みが大きくなれば、裾が僅かに肌蹴けて白い足首が見える。子ども達も、躍動的な旋律に、飛び上がるように踊る。その度に大きな手拍子が起きていく。
恋人の美しさを歌い、大地に子宝を祈る曲。
そのせいか、官能的な旋律が動と静を繰り返される。主旋律を奏でる二馬線はマダールだ。高音の旋律を担当し、その和音ともなる低音の旋律部分をハルンツが三線で奏でる。いわば、女と男の掛け合いのような、そんな旋律。
「……っ」
先から、マダールの勢いがかなり激しい。
二馬線から奏でられる旋律は、甘く、力強く、艶かしい色に彩られている。囁くように、狂おしいように、音がうねってハルンツに押し寄せる。
こんな感情を、どこに隠していたんだろう。そう思わせる激情。
きっと、玄徳さんだ。
ハチミツ色の髪を結い上げたマダールの横顔を、一瞬だけ盗み見る。
薄く開けられた緑の瞳は、きっと何もうつしていない。この場にない玄徳の影を見ているのだろう。
この音は、ボクを向いて奏でてない。音の先にいるのは、玄徳さんだ。
ハルンツは確信した。
マダールは、まだ玄徳を愛してる。
「……」
このままでは、駄目だ。
とてもじゃない。ハルンツの腕では、今のマダールの旋律に重ねられる技量はない。
腕の違いが、天地ほどもある。それが嫌なほど感じる。敵わない。
そっとリリスを見れば、小さく首を振った。
目配せで「終わりにする」と合図がきた。
マダールの旋律の微かな音の隙間に、リリスが変調した和音を差し込んだ。
ハルンツも強引に終焉を感じさせる旋律を即興で流していく。
やや拍があき、マダールの音も落ち着いて重なっていく。やがて、抱き合った男女の終わりのように、静かに閉じられていった。
興奮した村人の声が重なる。雄たけびを上げる若衆もいる。頬を赤く染めた少女達が、互いの顔を見合わせて笑いあう。拍手が、自然と沸きあがっていた。
「すごいよ! あんた達、すごいねぇ」
「演奏でこんな興奮したの、初めてだよ」
「いやぁ。奏者は決まったようなもんだ」
盛り上がり、口々に賛美の言葉を送る村人に、深く礼をする。
正直、ハルンツは「助かった」と思っていた。
あのまま、玄徳への想いをぶつけられては、潰される。そう寒気すらした。そっとマダールを見ると、頭を下げたままそっと立ち上がる。
「ゴメン、少し、風に当たってくる」
そういい残し、裏手へと走り出す。
「あと、お願いね」
村人に握手を求められたリリスが、身をかわして差し出された手の前にハルンツを押し出して後を追う。
手を捕まれた形になったハルンツは、そのまま残されてしまった。
興奮した村人達の手が、壁となりまわりを取り囲まれている。身動きできず、後姿を追うしかない。
気付いたときには、アシに引っ張りだされていた。
「少し休憩しましょう。ほら、楽師殿が困っているでしょう」
そう言い添え、アシは巧みにハルンツを村人から離れへと連れていく。
「大丈夫ですか?」
「ボクよりマダールです。今の演奏……」
「えぇ。尋常ではありませんでした。鳥肌が立ちましたよ」
ハルンツの腕をアシが強く握った。
いつものマダールを、普段の演奏を聴いた事があるから、アシは不安に思うのだろう。玄徳への想いも、知っている。
足早に屋敷の裏庭へ向かい、その物陰で立ち止まる。
リリスとマダールの声が聞こえた。
「……まだ、愛してる。玄徳を愛してる。リリスの言うとおりだよ」