6 春陽の人
「明日の昼までには帰れるだろうから、それまでお前に任す」
浩芳の決断に、秀全は苦笑いだけを浮かべて首を傾げた。
「旦那様のせっかちにも気の強さにも慣れてますから、いいですけどね。なんであの子に、それほど入れ込むんですか。小姓にでもしますか」
責めもせず、ただ純粋な疑問だけをぶつける秀全に、苦笑いを浮かべて浩芳は振り返る。自分は随分と我侭だったらしい。気付いた笑いは、自嘲だった。
「そんな風に見えたか。だが楊燕はそのつもりではないぞ。ただの戦力の収集と、捨て駒造りのつもりだろうよ」
浩芳の足元から、影が伸びていく。僅かに光沢のある影は、ゆっくりと身を起して虎の形を作った。純白の虎は、ゆっくりと欠伸をして背伸びをする。
「ここ一年、白家は国中の共生者を集めている。有能なら国のお抱えにするとね。秀全、あの子はただの占い師ではない。共生者だよ。それも、特別な」
「この匂いはなんであろ。村に入ってから何か臭うぞ」
「申し訳ありません。直ちに香炉を用意させます故、今暫くのご辛抱を」
村の海岸近くの丘に、煌びやかな天幕が張られていた。街道から村にやって来たこの一団は、沢山の下人達を引き連れて幾つもの天幕を張り小さな村を作っていた。
中央の一際大きな天幕の周りには偉い貴族を一目見ようと多くの村人が一目見ようと群がり、下人が追い返している。
この一年で活気がついたとはいえ、これほどの熱狂は今までになかった。
「蒸し暑いし、騒がしいし、なかなかの田舎じゃな」
「春陽が懐かしゅうございます。臭いのはこいつらの臭いでありましょう。まったく困ったものです」
天蓋の下でしどけない風情でクッションにもたれかかる男は、うやうやしく差し出された玉杯を眉をひそめる事で追い返す。
「楊燕様、水分は取った方が良いですよ。暑い所では水分と塩分をこまめに取らないと体を壊してしまいます」
「酒ならいいがな。それとも伎妃が飲ませてくれるのか」
「まぁ、お戯れを」
楊燕の横に侍る美女は、非活動的な長く大きな袖口で口元を隠して微笑む。その妖艶さと成熟した肉体から立ち上る色気で、覗き見ていた村の男達が喉を鳴らすように黙り込んだ。
労働に向かない大きく結い上げた艶やかな黒髪も、じっとりと汗ばんだ白粉を塗った肌も、その肌を大きく見せる着物も、全てが村では見れない最上級の物で伎妃をさらに魅力的に見せていた。
中央の楊燕も、皇族のみが身につける勾玉の紋様の調度品から金糸銀糸をさりげなく織り込んだ唐衣に包まれて,悠然と佇んでいる。村人からすれば、夢のような光景だ。
「はよう用事を終わらせようかの。噂の子供占い師というのはまだか」
「はぁ・・・それが臭くてとても殿下の御前に出せるものではなく、只今禊をさせております。もう暫くの時間お待ちください」
「禊か。いい考えじゃ。麿も水浴びでもしようか。伎妃もどうじゃ」
ゆっくりと微笑み、薄い唇を舐める。こんな田舎になんの楽しみもない。少々厄介な女だったが、こういう退屈しのぎにはもってこいだ。
天幕の外からは羨望の的でも、楊燕にとってそのぐらいの存在だ。春陽に帰れば、これぐらいの美姫はいくらでもいる。彼女を連れて遠征しているのは、朱雀家が抱える共生者の中では一番の実力者だからに他はない。
「そういえば殿下。先に珍しい者に会いましたよ」
このまま水浴びにでも行きそうな勢いに、家人が慌てて声を上げた。
今はまだ風呂の天幕すら張り終わっていない。それがバレたら主人は機嫌を悪くする。そうなれば手がつけようがないのだ。この一見飄々として淡白な顔と糸目の奥には、残酷なまでの陰湿さが宿っているのを家人は長い勤めで知っていた。そして、彼の策は成功する。
「こんな田舎で誰に会うのじゃ。まさか玄武家ではあるまいな」
「いえ。商人でございますが、あの劉浩芳です」
「クマリの狐か。確かに珍しいな」
「狐、ですか」
立ち上がりかけた楊燕が座ったことに驚きながら、伎妃も話に入りだす。
まぁ怖いなどと、露にも思っていないが言ってみる。
「狐のように賢いのよ。なかなか我らの張った罠にかからぬ。そやつの血にはクマリ族のが混ざって・・・厄介なのよ。妙に勘がよすぎるのも問題じゃ」
「えぇ。浩芳も、その子供占い師に見てもらったそうでございます。いたく気に入ったようで」
その時、天幕の外でドラ声が鳴り響いた途端に見物の人垣が蹴散らされていく。下人を先頭に、髭の大男と小さな人影が見える。
間に合った。主人の前だったが、正直に家人は安堵の溜息をついた。
「そやつらでございます。大男は子供の父親だそうで、ご挨拶をと申しております」
あのヒゲ大男が皇族を前にしてきちんと挨拶が出来ればいいが。
一寸先の悲劇か喜劇を予想して、いつもより遠くに後退して身を控えさせた。
「本日は倅を指名してくれてありがとうございます。この界隈では息子に勝る占い師はおりません。どうぞ何なりと言いつけてください。その代わり料金もかさばりまして」
「名はなんと申す」
「へぇ、俺はトンサと言います。こいつはハルンツと言います」
天幕に敷かれた織物の手前で、ひれ伏すようでいてトンサは顔を上げていた。都の貴族にも興味があったが、漂う白粉の香りに上等な美女がいることに気付いたからだ。
中央でゆったりと団扇を持ち男に凭れかかる伎妃を見つけ、視線を動かせずにいた。
「トンサとやら、下がれ。子供、もそっと近こう寄れ。ハルンツとか言ったかの」
頭上に流れる男の声に、ハルンツがそっと顔を大きなトンサの背から覗かせる。別の世界の住人のように煌びやかな人達が佇んでいる。
「ほれ、殿下がお呼びじゃ。前に行け」
あまりに自分が場違いな事に戸惑い、ハルンツがトンサの背に隠れていると、下人が腕を取って前に引きずりだす。
体中の皮膚が、先の水浴びで垢をこすり落とされてヒリヒリと悲鳴をあげる。着させられたのが上等な絹でなく普段の粗麻のものならば、悲鳴を上げていたはずだ。
引きずり出されたまま固まってひれ伏していると、笑い声が沸いてくる。水が染みる砂のように、気持ちが小さくなるのを感じていた。
なんで笑うんだろう。そんなにボクは可笑しいのか。