58 再び出会う日まで
「手数をかけてすまぬが、頼む」
「殿下とおじ様も、どうぞお気をつけて。兄上様に、こちらは大丈夫とお伝えください」
「承知した。姫には、随分と世話になった。いつか、きちんと礼をさせてほしい。感謝を」
「殿、私も後から参ります。それまでお気をつけて」
「陳たちも離れて警護をしている。なにより、この闇だ。天も吾らに味方しておる。案じるでない」
玄関先の灯篭と手元の提灯だけという明かりの中で、見送りをしていた。
満ちた月の明かりは、夕方から流れてきた厚い雲の向こうへ、姿を隠していた。周りは深い闇に包まれている。
これから浩芳と家人の秀全に変装した玄徳が、闇に紛れて李薗からの一行が休憩している宿屋へと向かう。秀全に変装した玄徳は、提灯と手荷物を持ち歩く。荷物を李薗と滞在する宿へ届けるという名目だ。やや家人にしては玄徳の姿勢が良すぎるかもしれないが、暗闇の中では怪しむ人もいないだろう。
「マダールは……来ぬのだな」
「せめて最後をと言ったんだけどねぇ」
階上を見上げた玄徳に、リリスが溜息をつく。
重苦しい沈黙が、その場にいる全ての人に事の顛末を知らしめた。
「全ては、吾のせいだ。吾の、力不足だ」
あれだけ涙を零したとは思えない、落ち着いた声。
まだ赤い目を伏せた玄徳が、リリスに頭を下げた。
「そうね。玄徳のせいね」
リリスの声には、何の感情も篭っていなかった。
玄徳の肩が、一瞬だけ揺れた。
「出来れば張り倒したいけど」
途端、義仁がリリスと玄徳の間に入り込み、玄徳は片手で制する。
「マダールが泣いちゃうからやめとくわ」
ややおどけた言葉。緊迫した空気が緩んだが、顔を上げた玄徳はリリスの顔を見つめた。
言葉の落差が、本気を示していた。
互いの顔を見つめあい、とぐろを巻くような感情の渦が出来上がっていく。
罵れたら、どれだけいいだろう。
殴られれば、どれだけすっきり出来るだろう。
「マダールの事、よろしく頼む」
「わかってる」
短い言葉に万感の想いを込めて。
玄徳の差し出した手を、リリスが強く握り返す。
離れていく手から、名残惜しさが漂う。
「大丈夫よ。あの子、大人だから。全て、承知だから」
「リリスがいるのなら安心だ。ハルンツ、そなたも……」
「判ってる」
「よいか、嫌なのは判るが人前では女物の着物を必ず着ろ」
「判ってるって」
「私の指導がついてるわよ」
リリスの指摘に、思わずハルンツは身をすくめる。
僅かに周りから笑いが起きるが、それも一瞬で消えていく。
判っている。
もう、玄徳に会う機会はないだろう。
この別れは、大国の皇子に還って行く事だ。
友人として、話すことも近くにいる事も出来なくなる。
命を共に賭けた旅も、終わっていく。
共に荷馬車で揺れた事も、夕餉を共にした事も、茶屋を追い出された事も、全ては遠い記憶になっていく。
現実か幻想か、あやうい記憶の底へと埋まっていくだろう。
「奏者になれ。御前披露の場で、必ず会おうぞ」
「うん。必ず」
「当たり前じゃない。また私達の演奏を聞かせてあげるわよ」
リリスの尊大な言葉に、玄徳の口元に笑みが零れる。
ハルンツの心の中に、温かいものが広がる。
根拠のない自信。これが、これほど心強いとは思わなかった。
大丈夫。出来る。
そう信じ込んでいく事が、新しい勇気をくれる。
「殿下、名残りは尽きませんがそろそろ行きましょうか」
「そう、か」
浩芳の言葉に、玄徳が頭上を見上げる。
そこは、マダールがいるはずの座敷。
「吾は、忘れぬ。全ては、魂に刻み込んだ。吾の未来を全て捧げると、そう伝えてくれ」
玄徳が見上げながら囁いた。
声にならない感情が、ハルンツの身をも焦がす勢いで放たれる。
真っ白に灼熱の感情を受け止めながら、ハルンツは頭上を見上げ続けた。
これでよいのかもしれない。そう、思いだしていた。
きっと、互いの姿を見てしまえば、この二人は別れられないだろう。
手を伸ばせば届くでは、肌の温かさを求めてしまうだろう。
二人の気持ちは、これ以上ないほどに結ばれているのだから。
だからこそ、別れを決意したのだから。
互いの立場を思いあって、最善と思う道をとったのだから。
「さらばだ」
提灯の明かりは、微か。
小さな明かりは、揺れるたびに遠くへ離れていく。
それでも、玄徳の決意のように力強く輝き続けている。
遠くに離れようとも、それは希望の灯りだ。
ハルンツにとっても。李薗帝国にも、クマリにも。
先は何も見えないけれど、ボクらは迷わずに進んでいけられる。
あの灯りの傍には、ハルンツの想いもマダールの想いも、ついている。玄徳を慕う、全ての人の想いがついているから。
「また、会えるよ。大丈夫」
思わず、そう呟いた。
頭上から、笛の音が流れ出す。
「『ツバメの乙女』、か……」
リリスの言葉が、微かに震えていた。
≪この風にのって 私は恋する人の所へいくの 高い山脈を越えて 大海原を越えて 茨の草原も越えて 空を見上げて 満天の星空 月と太陽を冠に 私は貴方に会いに行くの≫
マダールの奏でる笛の音は、春のうららかな陽気を漂わした空気に溶けていく。
やがて微かな灯りが消えていくまで、笛の音は鳴り響いていった。
作中の『ツバメの乙女』は,まったくの創作です。
UKや中央アジアで似たような題や歌詞の古い民謡がありますが,ここの歌詞は私のでたらめ。本物と関係ありません。
本物の曲はすごく美しいですよ。歌詞,どこに書き留めたかなぁ……。もう一度,聞いてみたいんですが。
次話,UPしました。
三章,スタートです。