表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/90

 57 慟哭

「おう、似合うな」

「冗談として聞いておきます……」


 ハルンツが特大の溜息で答えると、玄徳(げんとく)が耐えられないとばかりに笑い出す。マダールも、玄徳(げんとく)の服を畳みながら、笑いをかみ殺していた。

 今の自分の格好を見れば、当然なのは判る。

 あの後、浩芳(こうほう)とアシの笑顔の勧めとリリスの力技で抑えられた。強引に磨かれた爪は、桜貝のように可憐な光沢を放っていた。練り香を手首に塗られ、香を焚き染めた女物の着物を着て、帯は胸近くで絞めて大きく結んでいる。袖も裾も長く歩きづらい上に、動くたびに着物や体から香が漂う。その香りに胸焼けがする。


 「ヒゲがまだ生えてなくてよかったな」

「本当に……」


 化粧道具一式まで持ってきた浩芳達だったが、ハルンツの必死の抵抗であきらめた。

 細身に色白でよかったと、この時ばかりはハルンツは成長の遅さに感謝したぐらいだ。


「使わなかった化粧道具は、マダールが使ってくださいとの事です」

「……いいのかな」

「吾からも礼を言っておこう。しかしまぁ、手際がよい。さすが一流の商人だ」


 陽が傾きつつあった。

 日中の暖かさを残しながら、北からの風が冬の名残りのように夜の冷気を運びつつある。田園を照らす陽に赤味が僅かに混じりだす。


 「しかし、朱雀(すざく)殿の事といい今回の事といい、劉浩芳(りゅうこうほう)には貸しが多くなってしまったな」

「本当に、もう行くんですか? 」

李薗(りえん)から官僚が着く。この機に合流して何食わぬ顔で雲上殿に行けるからな。あまり到着が遅いと詮索される。神苑(しんえん)の騒ぎがら三日なら、具合が悪くなって歩を遅くしたとでも繕える故」

「ふーん」


 座敷から見下ろす光景を見ながら、ぼんやりと返事をした。

 玄徳(げんとく)が、この下屋敷を発つ。行く先はもちろんクマリの宮、雲上殿だ。

 今、李薗(りえん)から来た官僚達一行は、ここより北の京の中心部にある大きな宿屋に到着していた。

 豪奢な輿が空っぽのまま、たどり着いている。玄武(げんぶ)家の当主であり帝の名代が、そこにいるように見せかけられている。

 そう、彼は大勢の家来達の行列を引き連れて入国した事になっている。

 エアシュティマスの子孫とも接触するはずがないよう、工作がすでに始まっていた。


「夕闇に紛れ、浩芳(こうほう)の家人のふりをして屋敷をでて、宿屋で合流さ。吾はこの服のままが気楽だけどな」

義仁(ぎじん)さんに怒られちゃうよ」

「あれの役目だ。しかたない。早く合流して、戦を避ける戦略を練らねばならぬ。ただ……ハルンツには言っておこう」


 急に、声が硬くなった。

 ハルンツの耳に、玄徳(げんぶ)の鼓動の音まで聞こえたような錯覚が起きる。


 「東桑(とうそう)の関所で出会った官僚を覚えているか? 吾らが初めて会った、会見の間にいた男だ」

「ヒゲのおじさん? 」


 確か、玄徳(げんとく)義仁(ぎじん)、もう一人の男がいた。

 その時の光景を思い出し、正直に言うと玄徳(げんとく)が息を詰まらせるように笑い出す。

 

 「あぁ見えて、まだ四十だ。ククっ……おじさんは傑作だな」

「え、あ、ゴメン」

「いや、周偉(しゅうい)という名の……吾の師と言ってよい。政の心得を教えてくれた師であり、吾のよき相談相手なのだが」


 よほど玄徳(げんとく)の大事な人なのだろう。

 彼を語りだした玄徳(げんとく)の瞳に、優しい感情が浮かびだした。

 だが、それは、あっという間に曇っていく。


 「今回の合流する官僚の名簿に、周偉(しゅうい)の名がないのだ」


 それが何を意味するのか判らない。ただ、玄徳(げんとく)に不安があるのか、右手が何度も顎を撫でる。


「彼ほど外交に明るい者はおらぬ。何より、吾が道中に送った手紙でこの異常事態に気付いておろう。吾が、誰の意見を求めているか判っておろうに」

「仕事が、忙しいのかもしれないよ? 」

「あやつなら、何を優先すべきか判っておるはずだ。国内の安定より、今はクマリの政変を……いや、戦を知っているのか」

玄徳(げんとく)さん? 」


 顎を撫でていた右手は、無意識のうちに口元を押さえていた。


「判らぬ。李薗(りえん)内で変事があって動けぬ様子ではないと思うが……。ただ、今回は合流できぬ。出来れば、今回ハルンツと改めて顔をあわせておきたかった。ハルンツは周偉(しゅうい)という名を憶えておいてくれ。あやつの顔を、思い出しておいてくれ。もし、吾やジクメ殿に何かあっても、大丈夫だ。周偉(しゅうい)なら信頼できる男だ」


 玄徳(げんとく)とジクメに何かある時。

 それがどんな時か、考え出しただけで背筋に冷たいものが走った。

 背後でマダールが息を飲む気配がした。


「マダールも聞いておいてくれ。この名を忘れるな。吾の意思を継ぐ者は周偉だ」

「分かった。憶えとく……」


 本当は、憶えたくない。

 そう、言いたいのだろう。

 マダールは黒光りする床に視線を落としていた。

 いつのまにか、衣は全て畳み仕舞われている。マダールの手が、拳を作っていた。


 「さて、マダール」


 家人として地味な平服で変装をした玄徳(げんとく)が、静かに微笑んだ。


「暫し、ハルンツと二人で話しがしたい。すまぬが……」

「うん。判った」


 マダールが、長持に蓋をして立ち上がる。

 玄徳(げんとく)を見つめる顔は、穏やかな笑顔に戻っている。

 

「あ、あのさ、今朝の」


 とんでもない失言の事を思いだし、出て行くマダールの背中に声をかけていた。

 ハチミツ色の髪が揺れて振り返る。緑の瞳を見た途端、何と言えば良いのか判らなくなり口を半開きになる。


「あぁ、あれ。いいよ。こっちこそ、気を使わせちゃったね」


 頬を僅かに薄紅に染め上げて笑うマダールに、心臓の奥からもう一つの鼓動が跳ね上がった。

 昨日までのマダールなら、きっとここで照れ隠しに怒って見せたはずだ。

 もう、マダールも変ってしまった。彼女は、少女ではなくなった。

 小さく手を振って出て行くマダールを見送りながら、確信した。


「リリスは、怒っているか?」


 マダールの消えた襖を見たまま呟いた玄徳(げんとく)の言葉に、小さく口の中で笑う。

 大国の皇子が恐れているのは、想い人の兄代わりだった。


「全然。そんな感じないから大丈夫」

「そう、か。てっきり顔をあわせた途端に殴られるのを覚悟していた」

「うーん、判んないよ。平手打ちぐらいはあるかもよ」

「何?! 」

「冗談だよ」


 目が合い、笑いが零れる。ひとしきり笑いあい、ふと間が出来た。


「吾は、マダールを幸せにしたい」


 呟いた言葉が、零れていく。


「このままいけば……吾はいつか皇位を継ぐ。そうなれば、正室を迎え入れねばならぬ」


 遠く、子ども達があげる歓声が聞こえてくる。日暮れを前に遊びまわる子ども達が、田んぼの間を走り抜けている。


「吾は生涯の伴侶を、選ぶ事も出来ぬ。ただ、与えられた女と信頼関係を作り上げて子を成す事しか出来ぬ。皇位を継いでいなくとも、それは変らなかっただろう。吾と出会い、マダールは良かったのだろうか」

玄徳(げんとく)さんは、出会ったのを後悔しているの? 」

「そんな事はない! 」


 跳ね上がるような返事。見返す瞳は、陽の光より強い。


「吾は、マダールを愛している。あの勝気な性格も。無頓着かと思えば、人の事になると熱くなる所も。強さも、脆さも、全てがいとおしくてならぬ」


 泣いてしまう。

 そう思った途端、泣きそうな顔を一瞬見せて身を縁側へ寄せた。


「マダールは、全て判っているのだろうな……。振られたよ」


 玄徳(げんとく)の言葉がわからず、ハルンツは首を傾げてしまう。

 沈黙が先を促す合図かのように、玄徳は背を向けたまま話し出す。


「このまま一緒にはいられないと、李薗の宮についていけないと、言われてしまったよ」


 玄徳(げんとく)の一言で、ハルンツは息を飲む。

 ようやく、判った。

 彼らは、別れたのだ。

 正室には出来ないが、愛妾としてでもと望んだ玄徳(げんとく)に、マダールは拒否した。


「ようやく、やっと、結ばれたのに? これでいいの? 」

「マダールは、多分、吾の代わりをしたのだろう」


 声が、僅かに震えだした。


「宮殿では、異国人で身分も低くなる。例え奏者となり名声を得ても、宮中では役に立たぬ。もちろん、吾はマダールを護り続けるつもりだった。でも……それが、完全に周囲の雑音からは護れぬ。愛妾いえども、人前に出る機会はある。流言に衝立は立てられぬ。貴族の付き合いでは、そしりを……いや、言い訳だ」


 外で流れる風が、青々とした稲と土の香りを含んで座敷へと流れこむ。

 玄徳(げんとく)の肩が、小さく小さくなっていく。


「吾は自分が傷つくのが怖かっただけだ。言い訳ばかり立てて、自分の自身のなさを誤魔化していただけだ。挙句の果てに、吾が言わねばならぬ言葉を、マダールに言わせてしまったのだ。このような結果になるかもと判っていたはずなのに……吾は手を出してしまった。楽師の体に触れてしまった……想いを踏みにじってしまった……」


 玄徳の体が、板の間に崩れた。


「吾が躊躇してしまい、マダールに、別れを切り出させてしまった。吾が未来を怖がったばかりに、辛い役目を背負わせてしまった。マダールに別れを決心させてしまった。別れの言葉を言わせてしまった。吾は、マダールを泣かせてしまたのだ。もう、あんなに素晴らしい宝に、二度と出会えないのに……大切な愛しい宝を、傷付けてしまったっ」


 大声を出す事もなく、握り締めたその拳を床に叩きつける事もなく、嘆き伏せる事もなく、玄徳(げんとく)が泣いていた。

 息を押し殺し、乱れる浅い呼吸の音だけが聞こえる。音もなく、涙が床へ零れていく。

 一滴一滴、想いが溢れ零れていく。

 全ての感情を、涙に押し込めているようで、ハルンツは立ち尽くした。

 なんて、痛々しい泣き方なんだろう。

 せめて、大声で泣き叫べられれば、なんて楽だろう。

 誰かのせいに出来たら、どれだけいいだろう。

 ひたすらに、自分を責めている。心を傷付けている。


「マダールなら、玄徳(げんとく)さんの言いたかった事、全部、判ってるよ……多分、判っているよ」


 それ以上、何が言えるだろう。

 一番辛いのは、玄徳(げんとく)とマダールで。ボクは、その気持ちを知ることは出来ない。

 この身を引き裂くばかりに流れ込む玄徳(げんとく)の感情があっても、知ることは出来ない。

 ボクは、玄徳(げんとく)自身ではないから。

 ただ、横にいよう。

 流れ込む嘆きの感情を、ボクも受け止めよう。

 この空間に共にいる事で、悲しみを共感する事が出来るのならば、涙をこらえて横にいよう。

 辛いその姿を、見続けよう。


「……」


 空気の赤味は、ますます強くなっていく。

 別れの時間は、刻々と近づいている。

 夕餉を知らせる母親の呼び声が微かに聞こえる刻限まで、ただ横に佇んでいた。


 



 








 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ