57 慟哭
「おう、似合うな」
「冗談として聞いておきます……」
ハルンツが特大の溜息で答えると、玄徳が耐えられないとばかりに笑い出す。マダールも、玄徳の服を畳みながら、笑いをかみ殺していた。
今の自分の格好を見れば、当然なのは判る。
あの後、浩芳とアシの笑顔の勧めとリリスの力技で抑えられた。強引に磨かれた爪は、桜貝のように可憐な光沢を放っていた。練り香を手首に塗られ、香を焚き染めた女物の着物を着て、帯は胸近くで絞めて大きく結んでいる。袖も裾も長く歩きづらい上に、動くたびに着物や体から香が漂う。その香りに胸焼けがする。
「ヒゲがまだ生えてなくてよかったな」
「本当に……」
化粧道具一式まで持ってきた浩芳達だったが、ハルンツの必死の抵抗であきらめた。
細身に色白でよかったと、この時ばかりはハルンツは成長の遅さに感謝したぐらいだ。
「使わなかった化粧道具は、マダールが使ってくださいとの事です」
「……いいのかな」
「吾からも礼を言っておこう。しかしまぁ、手際がよい。さすが一流の商人だ」
陽が傾きつつあった。
日中の暖かさを残しながら、北からの風が冬の名残りのように夜の冷気を運びつつある。田園を照らす陽に赤味が僅かに混じりだす。
「しかし、朱雀殿の事といい今回の事といい、劉浩芳には貸しが多くなってしまったな」
「本当に、もう行くんですか? 」
「李薗から官僚が着く。この機に合流して何食わぬ顔で雲上殿に行けるからな。あまり到着が遅いと詮索される。神苑の騒ぎがら三日なら、具合が悪くなって歩を遅くしたとでも繕える故」
「ふーん」
座敷から見下ろす光景を見ながら、ぼんやりと返事をした。
玄徳が、この下屋敷を発つ。行く先はもちろんクマリの宮、雲上殿だ。
今、李薗から来た官僚達一行は、ここより北の京の中心部にある大きな宿屋に到着していた。
豪奢な輿が空っぽのまま、たどり着いている。玄武家の当主であり帝の名代が、そこにいるように見せかけられている。
そう、彼は大勢の家来達の行列を引き連れて入国した事になっている。
エアシュティマスの子孫とも接触するはずがないよう、工作がすでに始まっていた。
「夕闇に紛れ、浩芳の家人のふりをして屋敷をでて、宿屋で合流さ。吾はこの服のままが気楽だけどな」
「義仁さんに怒られちゃうよ」
「あれの役目だ。しかたない。早く合流して、戦を避ける戦略を練らねばならぬ。ただ……ハルンツには言っておこう」
急に、声が硬くなった。
ハルンツの耳に、玄徳の鼓動の音まで聞こえたような錯覚が起きる。
「東桑の関所で出会った官僚を覚えているか? 吾らが初めて会った、会見の間にいた男だ」
「ヒゲのおじさん? 」
確か、玄徳と義仁、もう一人の男がいた。
その時の光景を思い出し、正直に言うと玄徳が息を詰まらせるように笑い出す。
「あぁ見えて、まだ四十だ。ククっ……おじさんは傑作だな」
「え、あ、ゴメン」
「いや、周偉という名の……吾の師と言ってよい。政の心得を教えてくれた師であり、吾のよき相談相手なのだが」
よほど玄徳の大事な人なのだろう。
彼を語りだした玄徳の瞳に、優しい感情が浮かびだした。
だが、それは、あっという間に曇っていく。
「今回の合流する官僚の名簿に、周偉の名がないのだ」
それが何を意味するのか判らない。ただ、玄徳に不安があるのか、右手が何度も顎を撫でる。
「彼ほど外交に明るい者はおらぬ。何より、吾が道中に送った手紙でこの異常事態に気付いておろう。吾が、誰の意見を求めているか判っておろうに」
「仕事が、忙しいのかもしれないよ? 」
「あやつなら、何を優先すべきか判っておるはずだ。国内の安定より、今はクマリの政変を……いや、戦を知っているのか」
「玄徳さん? 」
顎を撫でていた右手は、無意識のうちに口元を押さえていた。
「判らぬ。李薗内で変事があって動けぬ様子ではないと思うが……。ただ、今回は合流できぬ。出来れば、今回ハルンツと改めて顔をあわせておきたかった。ハルンツは周偉という名を憶えておいてくれ。あやつの顔を、思い出しておいてくれ。もし、吾やジクメ殿に何かあっても、大丈夫だ。周偉なら信頼できる男だ」
玄徳とジクメに何かある時。
それがどんな時か、考え出しただけで背筋に冷たいものが走った。
背後でマダールが息を飲む気配がした。
「マダールも聞いておいてくれ。この名を忘れるな。吾の意思を継ぐ者は周偉だ」
「分かった。憶えとく……」
本当は、憶えたくない。
そう、言いたいのだろう。
マダールは黒光りする床に視線を落としていた。
いつのまにか、衣は全て畳み仕舞われている。マダールの手が、拳を作っていた。
「さて、マダール」
家人として地味な平服で変装をした玄徳が、静かに微笑んだ。
「暫し、ハルンツと二人で話しがしたい。すまぬが……」
「うん。判った」
マダールが、長持に蓋をして立ち上がる。
玄徳を見つめる顔は、穏やかな笑顔に戻っている。
「あ、あのさ、今朝の」
とんでもない失言の事を思いだし、出て行くマダールの背中に声をかけていた。
ハチミツ色の髪が揺れて振り返る。緑の瞳を見た途端、何と言えば良いのか判らなくなり口を半開きになる。
「あぁ、あれ。いいよ。こっちこそ、気を使わせちゃったね」
頬を僅かに薄紅に染め上げて笑うマダールに、心臓の奥からもう一つの鼓動が跳ね上がった。
昨日までのマダールなら、きっとここで照れ隠しに怒って見せたはずだ。
もう、マダールも変ってしまった。彼女は、少女ではなくなった。
小さく手を振って出て行くマダールを見送りながら、確信した。
「リリスは、怒っているか?」
マダールの消えた襖を見たまま呟いた玄徳の言葉に、小さく口の中で笑う。
大国の皇子が恐れているのは、想い人の兄代わりだった。
「全然。そんな感じないから大丈夫」
「そう、か。てっきり顔をあわせた途端に殴られるのを覚悟していた」
「うーん、判んないよ。平手打ちぐらいはあるかもよ」
「何?! 」
「冗談だよ」
目が合い、笑いが零れる。ひとしきり笑いあい、ふと間が出来た。
「吾は、マダールを幸せにしたい」
呟いた言葉が、零れていく。
「このままいけば……吾はいつか皇位を継ぐ。そうなれば、正室を迎え入れねばならぬ」
遠く、子ども達があげる歓声が聞こえてくる。日暮れを前に遊びまわる子ども達が、田んぼの間を走り抜けている。
「吾は生涯の伴侶を、選ぶ事も出来ぬ。ただ、与えられた女と信頼関係を作り上げて子を成す事しか出来ぬ。皇位を継いでいなくとも、それは変らなかっただろう。吾と出会い、マダールは良かったのだろうか」
「玄徳さんは、出会ったのを後悔しているの? 」
「そんな事はない! 」
跳ね上がるような返事。見返す瞳は、陽の光より強い。
「吾は、マダールを愛している。あの勝気な性格も。無頓着かと思えば、人の事になると熱くなる所も。強さも、脆さも、全てがいとおしくてならぬ」
泣いてしまう。
そう思った途端、泣きそうな顔を一瞬見せて身を縁側へ寄せた。
「マダールは、全て判っているのだろうな……。振られたよ」
玄徳の言葉がわからず、ハルンツは首を傾げてしまう。
沈黙が先を促す合図かのように、玄徳は背を向けたまま話し出す。
「このまま一緒にはいられないと、李薗の宮についていけないと、言われてしまったよ」
玄徳の一言で、ハルンツは息を飲む。
ようやく、判った。
彼らは、別れたのだ。
正室には出来ないが、愛妾としてでもと望んだ玄徳に、マダールは拒否した。
「ようやく、やっと、結ばれたのに? これでいいの? 」
「マダールは、多分、吾の代わりをしたのだろう」
声が、僅かに震えだした。
「宮殿では、異国人で身分も低くなる。例え奏者となり名声を得ても、宮中では役に立たぬ。もちろん、吾はマダールを護り続けるつもりだった。でも……それが、完全に周囲の雑音からは護れぬ。愛妾いえども、人前に出る機会はある。流言に衝立は立てられぬ。貴族の付き合いでは、そしりを……いや、言い訳だ」
外で流れる風が、青々とした稲と土の香りを含んで座敷へと流れこむ。
玄徳の肩が、小さく小さくなっていく。
「吾は自分が傷つくのが怖かっただけだ。言い訳ばかり立てて、自分の自身のなさを誤魔化していただけだ。挙句の果てに、吾が言わねばならぬ言葉を、マダールに言わせてしまったのだ。このような結果になるかもと判っていたはずなのに……吾は手を出してしまった。楽師の体に触れてしまった……想いを踏みにじってしまった……」
玄徳の体が、板の間に崩れた。
「吾が躊躇してしまい、マダールに、別れを切り出させてしまった。吾が未来を怖がったばかりに、辛い役目を背負わせてしまった。マダールに別れを決心させてしまった。別れの言葉を言わせてしまった。吾は、マダールを泣かせてしまたのだ。もう、あんなに素晴らしい宝に、二度と出会えないのに……大切な愛しい宝を、傷付けてしまったっ」
大声を出す事もなく、握り締めたその拳を床に叩きつける事もなく、嘆き伏せる事もなく、玄徳が泣いていた。
息を押し殺し、乱れる浅い呼吸の音だけが聞こえる。音もなく、涙が床へ零れていく。
一滴一滴、想いが溢れ零れていく。
全ての感情を、涙に押し込めているようで、ハルンツは立ち尽くした。
なんて、痛々しい泣き方なんだろう。
せめて、大声で泣き叫べられれば、なんて楽だろう。
誰かのせいに出来たら、どれだけいいだろう。
ひたすらに、自分を責めている。心を傷付けている。
「マダールなら、玄徳さんの言いたかった事、全部、判ってるよ……多分、判っているよ」
それ以上、何が言えるだろう。
一番辛いのは、玄徳とマダールで。ボクは、その気持ちを知ることは出来ない。
この身を引き裂くばかりに流れ込む玄徳の感情があっても、知ることは出来ない。
ボクは、玄徳自身ではないから。
ただ、横にいよう。
流れ込む嘆きの感情を、ボクも受け止めよう。
この空間に共にいる事で、悲しみを共感する事が出来るのならば、涙をこらえて横にいよう。
辛いその姿を、見続けよう。
「……」
空気の赤味は、ますます強くなっていく。
別れの時間は、刻々と近づいている。
夕餉を知らせる母親の呼び声が微かに聞こえる刻限まで、ただ横に佇んでいた。