56 室家と昴家
異国の茶の香りが、黙りきった場の間を流れていく。
ハルンツは、たった今聞いた話を理解しようと繰り返していた。一国の王妃が、生まれたばかりの子どもを殺す。もちろん、直接に劇薬を飲ませたわけではないだろう。確かな現場を見ての話ではない。でも、信用する人達からの話。
「そんな事、あるんですか? 」
「残念ながら、どの王家にも似た話はあります。しかし……生まれて間もなく、しかもそれが出入りの商人まで話している。王宮では、王妃の力は絶大で誰も逆らえない。そして公然の秘密が幾つもあるという事でしょうね」
「義仁殿の言うとおりだよ。その王妃が、斗家に手を伸ばしたという事さ」
こんな恐ろしい事、否定してほしかった。深い溜息が、ハルンツの体の奥から出てしまう。
「ハルンツ。あの浜で言っただろう。君の力は、繁栄の鍵にも傾国の鍵のもなる」
「はい……」
すでに事は動いていたんだろうか。クマリは先代族長を亡くして、エリドゥ王国と斗家は戦の準備をしていた。李薗帝国は着々と皇太子が力をつけて、共生者を集めていた。
ボクが里で海を眺めて祭文を詠んでいたあの頃、知らないところで世界は動き出していたんだろうか。月の沈んでいったあの山の向こうで、吹き去った風の行く先で、そんな恐ろしい事が起こっていたんだろうか。
「とにかく、身を隠さなければいけないね。女楽師になるそうじゃないか」
声色が、笑いを含んでいる。悪い予感がして顔を上げる。
「こんな突拍子もない事を考えたのは、アシだろう? 子どもの頃から奇想天外な悪戯ばかりしていたからねぇ」
「あら、おじ様には負けますわ」
「あと、室家のコムだ。あの子も面白かったねぇ。今は深淵の神殿の女神官だろう? 連絡をとった方がいいかもしれないねぇ」
「しかし、もう神殿の人間です」
「こういう事もあるかもと、室家の当主はタシを神殿に送ったのではないかな? もっとも、ハルンツの存在が表にでかかっているんだ。神殿が知らない事はないだろう」
浩芳は、にこやかな顔のまま、窓の外に視線を向けた。
今日も穏やかな春の陽気が、溢れている。まぶしさを日ごとに増す陽の光が、田園を照らしている。
「神苑での妖獣を玉獣に変えた事まだ秘密のようだが、クマリの血を持つものなら気付きだしている。神苑の空気が変っているからね。最近の禍々しさから、僅かに清らかさを取り戻した。共生者なら、尚の事。しかも、大陸中の王族や有力者がクマリに集まりつつある。乱れ始めたクマリを見定めようと来ただろう。それが変化しだしている。各国が、互いをけん制しあい情勢が流れていく。クマリは、これからの未来を決める舞台になる。ハルンツ、一つは君が鍵を持っている。それと深淵の神殿」
世界はこんなに穏やかに見えるのに。ここで話す事は、全て事実という不思議さ。
視線を戻した浩芳は、まっすぐにハルンツを見つめた。
「世界が、動き出したんだ。おそらく、今は大きな分岐点の直前だ。それは感じているんだろう? 」
体中の血液が、一気に沸騰する。熱く逆流を始める。脈打つ心臓を、服の上から押さえつける。
そうだ。判っていた。この感覚だ。
何かしなければと追い立てられる、この気持ち。焦燥感。突然やってくる不安。
ボクは、肌で感じていた。浜で感じた、逃げられないという感覚だった。
全て、動き出していた。
「……時代の鼓動、ですね……」
世界は、もう回っている。仕掛けられた出来事が、浜に押し寄せる波のように次々と起こっている。
「では、おじ様は神殿が出てくると? 」
「だから、室家のコムさ。ジクメに相談してごらん」
「失礼ですが、先程から出ているコムとは、誰なのでしょう」
義仁が、その場に流れ出した疑問を言語化した。
アシは一つ頷くと、軽く頭を下げた。
「玄徳殿下にもお知らせせねばならぬ事ですね。同じ大連の一つ、室家の当主の娘です。今大連の中で最も共生者の力がある者の一人です。その高い能力で神殿に仕えています。私の従姉妹でもありますから、ご安心を」
「従姉妹、ですか? 」
思わず、リリスが口を挟んでいた。
「私の祖母は、当時の室家当主の側室でした。その二人の子である私の母は、昴家の側室となり私が生まれました。昴と室は仲が良かったのですが、ここ数十年で血の縁が出来た訳です」
「あぁ……それで昨晩、室家は同盟に賛同してくれるとジクメ様が仰っていたのですね」
なるほどと、義仁が納得している。
ハルンツは、思わず頷くリリスを振り返る。
「つまりね、アシ様は室家と昴家の血を引いているの。ジクメ様とは異母兄妹って事」
「いぼ?」
「母親が違うという事ですよ」
義仁も加わり、二人がかりの説明でハルンツが思わず手を打った。
「あぁ。だからジクメ様と全然似てないんですねぇ」
そう感想を零した途端、リリスの大きな手が口を覆う。
あぁ、また場違いなことを言ってしまった。そう後悔するも遅し。
義仁は眉間の皺を増やして、片頬を器用に痙攣させていた。
「いえ。公認の事ですから気になさらず。むしろ、下屋敷で勝手が出来るのは好都合ですからね。正室である兄上の母君様のおられる上屋敷では、こんな事出来ません」
アシは、リリスに絞められたハルンツに微笑みかける。嘘ではないようだ。むしろ、ハルンツの感想を楽しんでいるような笑顔を見せた。
「さぁ、御前披露まで一月きった。奏者を目指すなら頑張りなさい」
浩芳の言葉に、秀全が隣の部屋との襖を開けた。
「ハルンツの特技が楽器とはねぇ。まぁ、祭事をしていたのだから当然かもしれないが。これはささやかな餞別だよ」
飾られた幾つもの衣装。エリドゥ風のローブや飾り紐、クマリ風の薄絹の小袖に刺繍された帯、李薗風の鮮やかな染めが入った衣。異国の香が焚き染めてあるのか、かすかな香芳が流れてくる。
「衣装の事で頭を悩ます事はない。演奏に全力を注ぎなさい。私からのささやかな餞別だよ」
「い、頂けません! 里を立つ時にも頂いて……」
「御前披露では、各国の王族や有力者がくる。その前にアシの古着の狩衣で出るのかい?」
ハルンツが言葉を飲み込むと、浩芳は目を細めて頷く。
「いい子だ」
「ハルンツ、よく見てみろ」
主人の満足そうな顔とは違い、秀全は気遣わしげに小声で話しかける。
「旦那様から、女物を二人分用意しろって言われてるんだよ。男物は、大人の寸法って言われるし……」
それは、後のりリスの分だろう。ハルンツは、せわしなく浩芳と秀全、リリスとアシの顔を見比べた。
「ハルンツはまだヒゲも生えてないし、線も細い。衣と香だけで上手く化けれるんじゃないかね」
「おじ様、ありがとうございます! 大好きですっ」
「なぁ、お前、ホントに女物着るのか? 」
「きゃーっ。これなんか、ハルンツちゃんの肌の色に映えるわよぉ。薄紅色の絹、被ってみなさいよ」
楽しげな浩芳とアシは、明らかに着せ替えという非日常の光景を楽しむ気に満ちていた。
リリスは、豪奢な衣装に舞い上がっていたし。
秀全は、ハルンツを気の毒そうに眺めて。
義仁は背を向け、全身を痙攣させるように笑いをこらえていた。
「やっぱり、嫌だぁ……」