54 玄徳の決意
湯気を立てる白いご飯。脂が程よくのった一夜干しの魚は、こんがりと焼けて食欲の沸く音を立てている。見目も綺麗な青菜のおひたし、根菜の煮物。様々なキノコの入った熱々の汁。
クマリの食卓は豊かだ。
お代りのご飯を山のようによそい、僅かに魚の骨に残った身を丁寧に食べながらオカズにしていたハルンツは、ようやく一息つく。
このところ、異常に腹が空く気がする。なんだか、妙に背も伸びてきた。とにかく、朝起きて何か食べないと頭も働かない。
「マダール、まだ寝てるのかな? 玄徳さんも? 」
美味しいご飯が冷めてしまう。
「まだ寝かせてあげなさい。疲れてるでしょうし。あぁ……クマリの食事って、脂ッ気がないのよねぇ。でも、こういう野菜中心だから、美容にいいかしら」
姫様もあのお兄様も、肌も髪も綺麗だし……云々。
リリスがぼやきながら、白いご飯に豆を発酵した調味料をダボダボかけている。
絶対、まだ寝ぼけてる。
ハルンツは茶色い小山と化した、茶碗のご飯とソレを食べるリリスを遠巻きに見つめた。そして、義仁もリリスを見ている。
ソレを、いつまで食べるのだろうか。義仁もそう思っているに違いない。
「義仁さん、玄徳さんの事、いいんですか? 」
いつもなら、目覚めから食事まで甲斐甲斐しく世話を焼く義仁がのんびり食事の席にいる。
寝ぼけた頭で感じていた違和感に、ようやく気付いた。
ハルンツの問いに、まだリリスのご飯茶碗から目を離さずにいた義仁が、ようやく笑いかける。
「大丈夫です。昨晩は随分と宴も長引きましたし、まだお休みでしょう。それに、今日は私も休みますよ」
「義仁さんも、遅くまで仕事してたのに……大丈夫ですか? 」
「私は慣れてますからね。それに今朝早くに出さねばならない手紙もありましたから」
宴が終わった途端、玄徳と義仁は部屋に篭って猛烈な勢いで手紙を書き始めた。
クマリの内情を本国に知らせる為に、また諜報や工作をする専門の兵を増強する為に、様々な手紙を書きはじめた。
文机一杯の手紙を全部送るのかと訊ねたら、玄徳は手を休めずに笑った。
「各国の密偵が徘徊しているゆえ、もし奪われたり見てはいけない者の目に晒されても簡単にはわからぬようにしている。詩をともに送ったりや簡単な伝達事項の中に鍵を隠すとか。万全の備えを施して、本当に重要な情報を送るのだ。詳しくは申せぬが。神苑の森を抜ければ、あっという間に春陽の都に届くであろう。関所に玉獣の飛脚を用意してある。こういうものは、速さが勝負なのだ」
喋りながらも、手は文を書いていく。
離れ業に目を奪われながらも、事態が急変していく事を肌で感じた。
「それにな……ひょっとしたら、太極殿はこの事を察していたかもしれぬ」
ようやく筆を走らせる手を止め、手紙を見つめた。薄暗い中、揺れる蝋燭で照らされた玄徳の顔は、悔しそうだった。
「朱雀家の異変を隠して吾を行幸に行かせようとしたのも、不思議だ。ここ一年、帝国中の共生者を集めていた事も不思議だ。今回の行幸で地域をまわり、戦でも始めるのかと民が噂する声も多く聞いた。そう思える動きが見つかっている。もしやと思うのだが……帝や太極殿の一部の官僚達は、エリドゥの戦の兆しを知っていたのかも知れぬ。だから、そなたを何としても手に入れようとしたのやも知れぬ」
「まさか。考えすぎだよ」
あんまりにも、その真剣な空気が怖かった。考えたくなかった。
「この件に関して、考えすぎというのはない。楽観的に考えるのはやめよ。吾は今まで皇太子の地位ではなかった故に、知らなかった事が山のようにある。性急に、太極殿に揺さぶりをかけねば。官僚より多くの情報を得て、現状を把握せねば。ハルンツを、そなたを最強の兵器としてしか考えない輩に、好き勝手やられてたまるか」
蝋燭と窓から差し込む月明かりに照らされた玄徳は、唇をかみ締めていた。
悔しさや、苛立ちを秘めた表情。
今まで見た事のない顔に、ハルンツは悟った。
あぁ、この人は、覚悟を決めたんだ。李薗の皇族としてではなく、皇太子になる覚悟を決めたんだ、と。
その光景を思い出し、一瞬鳥肌が立つ。
「風邪ですか? 」
「いえ、ただの……」
「少し、声が変よ。薬湯でも飲んでおきなさいな」
茶色のご飯を半分食べたリリスが、部屋の片隅にまとめた荷物を指差す。
確かに、喉が最近窮屈な気がする。でも、かすれるほどではないし、体もだるい訳ではない。むしろ、かなり元気だと思う。
「ほら、風邪は引き始めが肝心なのよ」
「風邪じゃないよ」
「おう、誰か風邪なのか? 」
前触れなく、ふすまが開けられる。
義仁がいないのに、身奇麗な着物に着替えて髪一筋も乱れなく髷を結った玄徳が、入ってくる。その後には、やや頬を染めたマダールがいた。
「これから奏者を目指すのに、風邪をひいてはいかんな。どれ、よく効く薬湯の配分を教えよう。神殿仕込みゆえ、効くぞ」
いつもより、よく喋る。上機嫌だ。
横にやって来た玄徳をポカンと見上げながら、ハルンツは僅かに鼻先を掠めた甘い香りに気付く。
この甘い異国の花の香りは、よくマダールが宿で衣に焚き染めていた香料に良く似ている。
すっかりマダールに馴染み、彼女の体臭の一部のような、ソレ。何故か、確かに、隣に来た玄徳から香る。
マダールは、やや離れたリリスの横に座り茶碗の茶色い山を覗き込んでいる。
なら、答えは一つしかない。
「もしかして、玄徳さん」
「なんだ? 」
「昨日の夜って、マダールと睦みあったの? 」
見る間に、玄徳の顔が赤く染まっていく。
「む、む、睦みあったなどと、そのような言葉、何故知っているんだ! いや、いや、何故判るんだっ」
「あ、そうなんだ。よかったですね。ね、マダール」
そう、笑いかけた。良かったねと、祝福を込めて。
だが、見る間にマダールの肌という肌が、赤く染まっていき焼けた赤銅色のように美しい。
「誰に教わったのよ! そんな言葉! 」
リリスが叫び、義仁がハルンツの襟を掴んで、強引に立たせてひっぱて行く。
「我等は、退きますっ。殿、ゆるりと食事を楽しみくださいっ」
「ボク、まだ食べてますよ! 」
「お膳、持っていってあげるわよっ」
茶碗を持ったまま、義仁にひっぱられて廊下に連れ出されてしまった。
階下の台所の前、勝手口で膳を三つ並べて、三人が黙々と食べている。
使用人達が興味深そうに遠くから眺めているが、誰も近づいてこない。まぁ、当然だ。すごく、居心地の悪い、険悪な空気が義仁とリリスから流れているのだから。
「ごめんなさい」
「……」
まいったなぁ。
正直、あの一言がこんなにいけない事とは、思っていなかった。ただ、事実を言っただけだと思っていたのだ。
好きになった男女が夜を共にする事、朝を同じ床で迎える事、それは自然の事だから。そう、思っていた。
「あの、せめて教えてください。言葉がいけなかったんでしょうか? 気付いたのがいけなかったんでしょうか? 」
「気付いても、黙っておくものなの。あの場合は」
「言葉もまずいですよ。男女の情事に関する事は、よほど注意しなければいけないんですよ」
ようやく口をきいてくれた事に、ハルンツは安堵の溜息をついてしまう。
やっぱり、原因は自分の無知にあった事には落ち込むけれど、それでも二人が話してくれるのが安心する。
「しかしまぁ、『睦む』なんて言葉も、お子ちゃまのハルンツちゃんが、よく知ってたわねぇ」
茶色いご飯を食べ終え、食後の茶を啜りながらリリスは首をかしげた。
「世間知らずだから、その手の事にもオクテだと思っていたんだけど。何で気付いたの? 」
「占いを代金を頂くと、父さんは町に行って酒を買って、女の人を抱いていたんです。帰ってきた朝は、いつも父さんから安酒と白粉の臭いがしていたから。……さっきは、マダールがいつも使っていた香が玄徳さんからして、それで」
余計な事は聞かなくても、それがどういう事か肌で感じていた。
お金で買うものは、どことなく汚い。ましてや、それが人となれば、格別に。
すえた体臭と安酒と安物の白粉の臭いが、記憶の底から一瞬だけ蘇った。