53 無謀な賭け
アシさまの言葉は、まるで雷のように衝撃を与えた。
ボクに女装しろと、そう言ったように聞こえた。
いや、きっと、気のせいだ。聞き間違い。勘違い。多分、いや、絶対に。
「なるほど。確かに少年という情報が流れれば、その年代のあらゆる男を捜すだろう。存在を隠すのではなく、誤魔化すのだな」
「女になれば、薄絹を被るのも不自然ではない。浄眼も隠せますね」
ジクメが頷き、玄徳は笑いまで浮かべだす。多分、女装した姿を浮かべたんだろう。
ちょっと待って。冗談でしょ!
ボクは口を開けたまま、頭の中が真っ白に回転していくのを感じた。
これは、なにか、冗談で……。
「さらに、私の推薦する楽師とすればどうでしょう? 彼らが屋敷に滞在する事も不自然ではなくなります。そうなれば、警護もしやすいですよ」
「いや、しかし、本当に奏者を目指すのならば、街中で演奏する事になる。人込みの中で」
「人込みの中では目も多く、まともな間諜なら手出しは出来ませぬ。危険なのは、呪術師や各王族の晒しとなる場でしょう。私は雲上殿や行政府よりも、下々の目が光る里が安心かと思います。警護は、かなりしやすくなります。大霊会に向けて、街中にも警備の兵は増強の予定でしょう? 昴家からの私兵が増えても誰も不審には思いませぬ」
女の楽師に変装する。それならば、安全ではないかと、アシは言っている。
そうすれば、ハルンツの身も安全だろうし、エリドゥとの策略も上手く潜り抜けるかもしれない。
なにより、奏者になれる機会をつくれるかもしれない。
マダールとリリスの夢を、共に叶えられるかもしれない。
その可能性の道が、今、アシによって、目の前に作られた。
そうなれば、答えは一つしかない。
「お願いします。女の装束でも着ます。化粧もします。大霊会まで、女になりましょう。感情も、抑えてみせます。ですから……」
ある意味、人生の岐路だ。
でも、何を迷う?
拳を握りしめ、頭を下げていた。
言葉は、微かに震えていたが、心は決めたぞ。
ボク一人が、嫌だと駄々をこねる訳にはいかないんだ。
「大霊会での奏者を目指させて下さい」
冷たい床を、額につけた。
これでいいのかと、もう一人の自分が問いかける。
危険はある。でも、隠れて恩を捨てる事はしたくない。
これで、大きな危険をジクメと玄徳に掛けるかもしれない。でも、これ以上の良策があるだろうか?
「これで、この決断を誤まれば、多くのものに危害がわたる事を考えているか?」
玄徳の静かな声が、頭の上からかけられた。
「お前の存在が判れば、エリドゥは確実にお前を手に入れようとする。荒事をしてでも、つまり、客として招かれたクマリの町を荒らしてでもだ。今、この時期この時勢では確実に戦に繋がるぞ。そうなれば、吾が李薗に住まう多くの民も無事では済まぬ。それを踏まえての言葉か」
「では、他に手がありますか? 良い手があるのならば,ご提示ください。ボクは、私は、最善の道を選ぶまで」
ボクは、自分の心が満足するだけの行為をしているかもしれない。
マダールとリリスへの恩を返すという、偽善を。
ボクは、子どもかもしれない。でも、他の考えが浮かばない。
今、出来る事をするしか、思いつかない。
「今出来る、精一杯の事をしたい。それしか、ボクは出来ない」
顔を上げて、ジッと玄徳の目を見つめた。僅かに、黒い瞳の視線が揺らいだ気がする。
「さて、困ったものだ。いかがしますかな」
ジクメが組んだ腕を解いて、顎をさする。少し伸びたヒゲの感触を楽しむように指先で頬をなぞり宙を睨んでいく。
「まさかハルンツ殿が大霊会の奏者を目指されているとは思わなかった。これも、不思議な縁か。が、まぁ……他の人もそう思うだろう」
そこまでいうと、唐突に玄徳に頭を下げた。
「妹の策だが、今はこれ以上の妙案が浮かばぬ。どうであろう? この奇策に賭けてみてくださらんか」
「兄上……」
「ジクメ殿、頭を上げてください! 」
「いや。玄徳殿の心配は、確かに国を統べる者の考え方。正しいと思う。だが、ソンツェ様の血を引く者が天鼓の泉に立つ姿を見てみたいのですよ」
予想外の言葉を述べるジクメが、微笑んでハルンツを見つめた。
厳つい顔が、遠い光景を思い出しているように見える。
「昴家の嫡男として生まれたソンツェ……いや、エアシュティマス様が何故エリドゥの地に行ったのか、様々な言い伝えがある。それこそ、天に導かれたとか予見をしたとか。しかし、私はなんとなく判るのですよ。ただ、新しい族長の障りになりたくなかったのでしょうね」
不意に、空を見上げた。つられて、この場にいる者達も見上げていく。
雲ひとつなく真っ暗になった夜空。深い深い藍色の天頂に、白い点が円を描くように動いている。彼方、空高く飛んでいる白い点。
離れていても、ハルンツには判った。
「ぬし……さま? 」
「おう、ハルンツ殿は主様にお会いになりましたか。では、気付かれたでしょう。御覧なされよ、天頂高く飛んでいるあの鷹こそ、クマリの護り星の聖獣です。私は、あの御方の許しなくば、族長として立つ事許されませぬ。天からの雫に、この身を委ねています。天地に気を感じて生きるクマリ族なら当然の事。だからこそ、エアシュティマス様はこの地を去ったのでしょう」
吸い込まれそうな深い夜空をたった一羽で飛び続ける姿は、とても神々しい。美しい。
「圧倒的な共生能力を持ちながらも、族長に選ばれなかった事は衝撃だったはず。何故かと、天を恨んだやもしれません。そして、御方なら気付いたはずです。自らの力がある限り、クマリが崩される恐れがある事を。彼の力を掲げて一つの勢力になろうとした者達がいたはずですからね。今の斗家がまさにそうだ。軍事力にモノ言わすエリドゥ王国と手を組むことで、新しい立場を主張し始めているのだから。おそらく御方がこの地を去ったのは、クマリの地と民を戦から護る為だったのやもしれぬ。そう思えてならん」
そんな事があったのかもしれない。もう、誰も知らないし、彼も言わない昔の事。
でも、五百年たって新族長を祝う大霊会での斗家の裏切り、エアシュティマス様の復活。もしかしたら、すべては偶然ではないのか?
エアシュティマス様は、ダジョー様は、知っているんだろうか?
「色んな想いを残したまま、エリドゥの地へと旅立ったのでしょうな。ならば、その血を継いだハルンツ殿には天鼓の泉に立って頂きたい。それが、なによりの供養になるような気がするのですよ。勝手だとは、重々承知。玄徳殿下、ハルンツ殿と楽師達の願いを聞き届けて下さらぬか。女楽師として、身を隠す事を許されて下さらぬか」
ジクメが、あらためて玄徳に頭を下げた。
すべての視線が、玄徳に集まった。
玄徳は、目の前で頭を下げるジクメを、表情一つ変えずに見下ろしていた。
「確かに、奇策。相手の考えの裏を突いているでしょう。雲上殿や行政府ならば、確実に正体を見破られる。里ならば、身を隠しやすいですが相手側が開き直り戦でも仕掛けてくれば、ひとたまりもありませんよ。本当に、女楽師になるだけで身を隠せるのでしょうか? この策を立てるのなら、警備を考えなおさねばならぬ。あと、事が明らかになった時を考えて味方を多く作っておくべきでしょう。ハルンツを政治利用しないにこした事はありませぬが、いざとなれば旗頭に立たせるぐらい公約に匂わせます。そうすれば、確実に他の国々も味方につくでしょうし。まぁ、詳しくはもうじきやってくる官僚達に考えさせましょう。吾の頭ではこれ以上は無理だ」
「では、殿下……」
「吾は、支配者としては失格だな。民達に危険があるやもと思っていても、非情には成り切れぬ。やはり、皇子で充分だ」
苦笑して、大きく溜息をついた。
もう一度、ハルンツを見つめた。まっすぐな黒い瞳で。
「よいか、絶対に正体を悟られるな。女になりきれ。戦を避ける手を考えるまででよい。絶対にだぞ」
「じゃあ、じゃあ、奏者を目指して、いい? 」
「目指すのなら、いっそ奏者になってみるがよい」
「ありがとう!! 」
思わず、玄徳の大きな手を掴んでいた。力いっぱい、握り締める。
必ず、隠し通してみせよう。皆の足を引っ張らないように、全てを完璧にやりこなしてみせよう。
その上で、奏者になってみせよう。
あの地で演奏できるのなら、全てを叶えるために払うべき代償なら、どんな重い罪でも背負ってみせる。
「マダール、ほら、しっかりしなさいよ! 奏者目指せるわよ! 」
リリスの声に顔を上げると、板間の片隅で平伏したままのマダールにリリスが駆け寄っていた。
ハチミツ色の髪に覆われた顔の表情は見えない。でも、小さな肩は小刻みに震えていた。
「姫様と殿下達にお礼を申し上げなさい。マダール、ほら」
側のリリスに促されたマダールは、声もあげられず再び深く平伏した。
一瞬、月明かりで見えた顔は、大粒の涙が幾筋も流れている。想いの分だけ、溢れ出ていた。
「ありがとう、ございます……この御恩、一生忘れません……」
「マダール」
二人は互いを見つめたまま、静かに微笑みあった。
互いに腕を差し出し、支え合うように抱き合ったように、ハルンツには見えた。
玄徳がマダールに何か囁きかけてる。声は聞こえない視線の言葉だけど、それは、きっと穏やかな言葉。慈しむ言葉。
なんだか気恥ずかしくて、視線をそらした先の夜空には、半月。綺麗な、穏やかな光を放っている。
心の中に二人の感情だろう、互いや己に向けた様々な想いが流れこんできた。
奏者を目指せる嬉しさ。危険を冒してまで決断してくれた想い人への感謝と喜び。反面、大きな責任と重荷を背負わせてしまった悲しさ。自分の虚しさ。
目指していた夢を諦めさせようとした、自分への嫌悪。背負う重圧に上げる悲鳴。反面、決断を決める場に自分が居合わせられた幸運と立場に喜びと感謝。
どうしようもないほどの、温かい感情の渦。
自分を責める、鋭い刃のような感情。
「あぁ……」
相手を思いやるのは、どうしてこうも、辛いんだろう。
でも、なんでこんなに好きなんだろう。尽くしてしまうのだろう。
流れ込む感情の勢いのまま、ハルンツは三線を構えていた。
「ほう……極楽の旋律ですな。アシよ、酒を注いでくれ。今は、この音を楽しもうぞ」
「はい、兄上」
指が、音を紡いでいた。
せめて、この今だけでも穏やかに。
二人の想いが、世の流れで奪われないように。
全ての策が、上手くいきますように。
誰も、傷つきませんように。
女装という言葉がはいりましたが,詳しく描写するつもりは,針の先程もありません。
これからの話を動かす上で必要にはなりましたが,作者にそういうものに萌える趣味はありませんので。