52 叶えたい
緋色の銚子を握り締め、アシが叫ぶ。子リスは驚き、髪の中へ逃げる。
耳元で叫ばれた玄徳は目を見開き固まり、ジクメは慣れているのかその手から銚子を奪い取った。
「まったく。落ち着きのない。申し訳ない、殿下。私の手酌で」
「え、あ、どうも……」
勝手に杯に酒を満たしていく二人に、ハルンツはもちろんリリスとマダールも、手が止まっていた。この記念すべき瞬間にあわせ、楽を奏でようかと思っていた矢先の叫び。気が削がれたのが正直なところ。だが、アシの動揺した姿に楽器を下ろした。
「兄上、早乙女祭です! すっかり忘れていました! 」
アシの泣きそうな声に、ジクメが杯を膳に戻す。
「今年はまだだったか? 」
「三日後です。もう、触れは出してしまって……取り消しますか? 」
「それは駄目だ。かえって疑われる。堂々と、開放的にした方がよい。しかし、うむ。殿下、ハルンツ殿、申し訳ない。実は、三日後に祭りが行われるのをだが……困ったことがありましてな」
玄徳も杯を膳に戻して姿勢を正す。そして、ハルンツも隣で真似て背筋を伸ばした。
「早乙女祭といって、田植えが終わった頃に苗が無事に育つように祭りをするのです。これは、その地域ごとに人々が信仰する祠の前に集まって行う、いわば村祭りです。この地域の祠は、下屋敷の敷地のはずれにあります。毎年、敷地を解放して地域の民にささやかな宴を催す慣例になっていて、その」
「なるほど。この屋敷を探りやすくなる、と」
「その通りです。申し訳ない。特にハルンツ殿を匿わねばならぬ時に。いやはや」
「ジクメ殿の仰るとおり、今年も行うべきでしょう。私の雲上殿への参内の時にハルンツも動きましょうか」
「えぇ! やだよ。それじゃあ、大霊会の奏者はどうなるの! 」
三線を取り出し、棹を握り締める。何のためにクマリに来たかと言われれば、もちろん『世界を見て』『呪術を学んで』『里の皆と自分の身を護る』目的で来た。
でも、国境で困った時にマダールとリリスに出会えた。手を差し伸べてくれた。
国境を越えるときは、玄徳を共に旅をすることを決めた。けど、道を開いて希望をくれたのは、彼ら。恩がある。
その恩を忘れて玄徳と隠れる気はない。
そして何より、今は奏者になって、天鼓の泉で演奏をしてみたい。
音楽を奏でる者として、最高峰を目指してみたい。
これは、もう自分自身の欲になっていた。自分が、目指したいんだ。
「ほう。ハルンツ殿は奏者を目指していましたか。興味深いですな」
「……お前、まだ奏者の事を考えていたのか? 」
「まだって何さ。ボクはマダールとリリスと約束したんだ。それに、ボク自身があの天鼓の泉で演奏したい」
「今の話を聞いてなかったのか? 今、それどころじゃない話をしていただろう? 戦が起こるやもしれぬのだぞ? お前の存在を隠さねばならぬのに、表に出てはいけないだろう」
玄徳が、マダールに視線を投げつけた。
『何とか、言い含めてくれ』
そんな気配がして、思わず玄徳の瞳を凝視する。
まさか、奏者の夢を諦めさせるのか? 二人とも後宮の楽師という名誉を捨てて、危険な旅をしてまで、大霊会を目指してきたのに。
怒りが一瞬で湧き上がる。
「まぁ、落ち着きなされ。風が鳴ってきましたぞ、ハルンツ殿」
ジクメがそう言い肩を叩いた。
気付けば、淡く青い炎が風とともに辺りを飛んでいる。
これじゃあ、関所の時と同じだ。怒りに任せて、部屋を傷付けたあの瞬間を思い出した途端、背筋に悪寒が走った。
自分の感情で、周りの精霊を惑わしてしまう時がある。怒りの感情は禁物だと、学んだはずなのに、過ちを繰り返してしまった。
酷い、嫌悪感。成長がない自分にうんざりする。
「奏者ですか。興味深いですが、今はハルンツ殿の存在こそ、この争乱の鍵となる危うさがある」
ジクメの言葉はその通りだと思う。それでも、納得できない。
ハルンツは、蝋燭の明かりがかろうじて届いているマダールとリリスを見た。
薄明かりの中、口を堅く閉ざしたリリスの顔が見える。俯いたマダールの髪が、波打って光っている。
やっぱり、納得できない。
せっかく、ここまで来たのに、仲間になれたのに、幾つもの曲を教えてもらったのに。
ココで終わりだなんて。こんなのは、嫌だ。
「兄上は、ハルンツ殿の演奏を聴いていないからあっさり言えるんです」
アシの声が、重たい沈黙を破った。
「考えてください。古典も流行も、曲の要となる三線を、稀代の魔術師の力を濃く引き継いだハルンツ殿が担当するのですよ。三線は、天と地を繋げる糸モノの楽器。天地の軸を揃える奏者に、彼らほど相応しい楽師はおりませぬ」
マダールが、顔をあげる。淡い光が、マダールの頬に流れていた涙を照らした。
リリスの顔は、ますます強張っていく。強く握り締めた拳は、より白くなっている。
その場にいる全員が、アシの言葉を聞き入っていた。結果が、良か否か、判らぬままに。
「ハルンツ殿を、玄徳殿下の従者と紛らわせて雲上殿に連れていっても危険ではないでしょうか? それこそ今の雲上殿は、各国の王族や専属の呪術師が多くいます。まだ自分の能力を抑えられないハルンツ殿が、先のように感情を荒立て精霊の風炎を立てないとは言い切れません。そうなれば、全てが明らかになってしまします」
風は、こちら側に吹いてきているのか?
そっと、ジクメの背に語りかけるアシを見つめた。
「アシの言い分も、もっともだ。では、聞こう。そなたには良い手があるのか?」
袖の中で腕を組み、膳の上においた杯を睨んだまま先を促す。杯の中に浮かんだ月が、揺れている。
「先日の神苑の騒ぎで、各国はハルンツ殿の存在に気付いているやもしれません。失礼ながら、深淵の神殿に留学経験がある殿下ならば、殿下のその力量をよくご存知の方が各王家にいらっしゃるでしょう」
気遣わしげにアシが玄徳に視線を送ると、玄徳は深く頷く。
「深淵の神殿は、幼い次期権力者達が集まる場でもある。共に修行や学問に励むうちに、互いの力量をも察する事は多い。そうですね。私が一人で妖星を浄化したなんて、誰も思わないでしょう。特にエリドゥ王家は」
苦々しげに吐出した最後の言葉。本当に恨みのような感情が混ざっていて、ハルンツは思わず玄徳を覗き見た。
玄徳とエリドゥ王家、ケンカでもしたんだろうか?
「ではやはり、各国ともハルンツ殿の存在に気付いている、または時間の問題だと考えましょう。幸い、騒動で殿下達一行に触れたのは星輿で案内した4名のみ。もちろん、昴家の息の強い者達を選びました。顔を直接知った者は僅かです。それでも情報は漏れるものです。各国の諜報が暗躍しだしたら、年と性別、背格好ぐらいは知られるでしょう」
「そうだな。そう考えた方が無難だ。で? 」
「それを逆手に取るのですよ、兄上」
何故か楽しげに笑ったアシに、ジクメは器用に太い右眉を上げた。
「稀代の魔術師の子孫ですよ。皆、様々な想像をするでしょう。逞しい少年、理知的な少年、容姿端麗な少年、様々に。まぁ、想像力が勝っていくでしょうが」
確かにボクは貧弱な体、食い意地だけはった頭、ボサボサな髪に擦れた服しか持ってない自分。何一つ、当てはまっていない。コレなら、大丈夫な気がする。
でも、無情に悲しくなってきた。うーん。
アシさま、結構、キツイな……。
「それでも、ハルンツ殿の最大の特徴を隠せません。青の入った浄眼。その能力。性別。でも、その中の一つでも変えれたら? 」
アシの瞳がキラキラ光りだす。何か、最高に楽しい遊びを思いついた幼子のような声色を、理性で抑えている。
「その中で変えられると言ったら……まさか、アシ、ハルンツ殿に女装せよというのか……?」