50 劉浩芳(りゅうこうほう)の手紙
空は赤味を交えながら東から深い夜の帳を落としつつある。気の早い一番星が瞬き始めた。
見渡すクマリの大地には、夕刻独特の忙しい営みの音や光が満ちてくる。出来るだけ陽の光が在るうちに、済ませねばならない用事がある。
立ち上がったハルンツは、借り物の狩衣の懐中に忍ばせた手紙を、そうぅっと撫でる。指先に伝わる上等な布地の心地よさが、罪悪感をかきたてる。
ふと顔を上がれば、玄徳が頷き掛けてくれる。
「こちらの席へ来い。今宵の宴は、そなたが主役でもある」
「いや、全くその通り。殿下はよく話が判る方と聞いていましたが、本当のようで安心致した。ハルンツ殿、こちらへ」
この場で最もエライ二人に言われて、逆らえない。
リリスに突付かれ移動すると、控えていたおばぁさんが素早く前にお膳を用意し、堅い植物の繊維を編みこんだ円形の敷物が、ひんやりとしてきた床に置かれる。
「座れ」と無言の圧力。ハルンツは溜息をついて、玄徳の横に座る。
「無礼講ですから、緊張されずもよい。覗き見して転落した私がいうのだから、気を楽にしてくだされ」
自分の醜態を笑い話にするようにジクメが豪快に笑う。
もう、これ以上、判らない。あの手紙を何時出すべきか、判らない。
「あ、あの、これ、ジクメ様に手紙を預かってきました!」
とたん、場が静まる。手紙の事を知っている玄徳達の息を飲む気配。そして、その様子を探るジクメとアシの気配。
「劉浩芳様に恩になり、手紙を昴家の方に渡すよう言われ、ボクはクマリにやってきました」
懐中に手を入れ、擦り切れた手紙を差し出す。指先が振るえ、小さく震えだす。
怖い。これで、どうなるか、怖い。考えたくない。このまま、時間が止まればよい。この先の事なんて、知りたくない。
なのに、進んでいく。ボクは、最善の未来へ舵をとるために、喋らなければいけない。自分の気持ちを。決意を。
ジクメの大きな手が手紙を受け取り、封を切り、紙をめくる音が聞こえる。
ボクは、磨き光る黒い床を睨みながら、喋る。
頭と口、心が、バラバラに動いていく。
「浩芳様には、大変お世話になりました。その上で、玄徳殿下と旅をした事に不愉快に感じる点があるかもしれません。ですが、ボクは、国の事は何も知りません」
心臓が、止まりそう。走り走り悲鳴を上げる胸を押さえ、顔を上げる。
「今、はっきりと言います。ボクは、どこの国に味方する事はありません。ただ、玄徳殿下はボクの友です。マダールも、リリスも、義仁さんも。もし、彼らを傷付けるのなら、ボクは……」
「ハルンツ! そこまでだ! これ以上言う事は許されぬ! そんな事は争いの種になりかねぬ! 」
「いや、よう判りました」
床に手を打ち止める玄徳に、やんわりとジクメが声をかけた。
「殿下の気持ちも、ハルンツ殿の気持ちも、判っています。いや、参った。こうされるとは、想像以上ですな。アシ、読んでみなさい」
長々とした手紙を軽くまとめ、側に控えたアシに渡すと、ジクメは狩衣の上からでも判る骨太な肩を鳴らした。
「これは……先に届いた浩芳おじ様の手紙と、殆ど同じですね」
「そういう事だ。いや、参った。殿下も読んでみなされ。ハルンツ殿も読まずに渡されたようだから、読んでみなされ」
夕闇で読みにくい中、玄徳とハルンツが頭をくっつけて渡された手紙を覗き込む。
海南道で出会ったハルンツの事。そこでの白楊燕、伎妃との術比べの事、里の人々が旅立ち、ハルンツが一人で旅に出た事。そして、その身の保護の依頼。各国から身を隠す事、くれぐれもクマリの政治的な利用をしない事、深淵で学ぶ意思があるのなら充分に助け神殿まで送り届ける事。全てに関し、金銭的にも人的にも援助を惜しまない事。
読んでいて浩芳の笑顔が浮かんできた。どうしようもなく、涙が浮かんでくる。
「よほど、ハルンツ殿が気に入ったんでしょうな。おじ上は何事にも淡白ですが、急に手紙が来たと思ったら、ソンツェ様直系の子どもが私の手紙を携えて昴家にやってくるから保護を頼むと、長々とした手紙が届きましてね」
何度も袖で顔を抑えるハルンツに、玄徳が懐中から懐紙を差し出す。これで、何度目か。柔らかい紙に、顔を押し付ける。
浩芳に、他意はなかった。そこにあったのは、真心だった。
疑ってしまった後悔が、胸の良心を針となって突付いていく。
「玄徳殿下と共にとは、想像していませんでした。そこで、カマをかけさせていただいたのですよ。玄徳殿下は、ハルンツ殿を隠すか否か。いや、李薗のモノにするか否かと。いや、しかし、お二人とも見事。どうか、お二人を試した私を許してくだされ」
「それで……今宵の宴だったのですか」
深く長い溜息を零し、玄徳が目を瞑った。僅かに、安堵の色が混じっている。
とりあえず一つの問題は、無事に終わったようだ。ハルンツの体から、どっと力が抜けていく。
「しかし、まだ解せぬ点があります。何故、そこまで手の内をみせなさる? ここまでご存知ならば、吾とハルンツが共にいる事を逆に利用することもできたはずだ。李薗に謀略の影ありと吹聴する事もできたはず。なぜ、こうも話されるのですか?」
ハルンツの力が李薗にあるとすれば、それは外交上に有利だ。しかし、それが本心であろうがなかろうが、その事を取り上げて李薗が戦をする準備を進めているという噂も流せる。
「ご存知のとおり、吾が李薗は,広大で屈強。いかなる噂を流されても動じませぬが」
「もちろん存じておりますよ。李薗は東の大国だ。そして、次期皇太子もはずの朱雀家 白楊燕殿下ではなく、玄武家の玄徳殿下が帝名代としての行幸された。それが何故かも存じてますよ」
途端、玄徳と義仁が息を飲んだ。
今の李薗は、帝が病に倒れ皇太子の朱雀も倒れかけ、通常の状態ではない。その事を知っているとジクメは言ったのだ。公式には、高齢の為となっていたはずなのに。
李薗は強い。だが、通常の体制でない時に戦をするのは危険だ。いくら兵力があろうとも内部が脆くては、砂の城と同じだ。あっけなく国は傾くだろう。
「ジクメ殿、何を言いたい」
「なに、クマリも似たようなもので困っているのですよ」
両手を袖に入れ、背にした欄干の向こうに視線を投げる。
「ご覧の通り、クマリは豊かです。聖地である天鼓の泉もある。宝である玉獣も生まれる。我等は全てを貴い授かり物と思っているが、悲しいかな、天からの授かり物を金で換算しようという輩がいる」
いつの間にか、辺りは夕刻の赤味ではなく漆黒の闇の気配を漂わしていた。
稲の葉が風になびく小波のような音が、真っ暗な大地に流れていく。
星のように、家々に明かりが点されていく。
その一つ一つの下で、家族がささやかに夕餉を囲んでいるのだろう。
音も立てず階段を上がってきたおじぃさんが、明かりを点した蝋燭で燭台に火をつけていく。溶けた蝋の甘い香りが、漂いだす。
「確かに我等は玉獣を送り、その礼にと金品を受け取る。だが、それは形式的なこと。金が欲しくて送っているのではない。どの国にも、神苑の恵があるべきだという考えの下で行っている事だ。どのような大国にも、小国にも、その規模に合わせた数を送っている」
「そうですね。その采配、李薗の官僚の間でも公平の見本とされています」
玄徳の言葉に、口元を僅かに緩ませて頭を下げた。が、一瞬でその柔らかさは消えた。
「ですが、金を得ようと、玉獣を物として流す輩がいる……恥すべき行為だ」
人語をある程度理解し、空を翔る玉獣は、権力の象徴として見られる。そして、権力を欲しがる輩は何処にでもいる。
「先代の末頃から、そのような噂が流れていたので、厳しく取り締まってきました。どうも……大連の中でその動きがあったのですよ」
「おおむらじ……」
「クマリの政を行う家々です。古くは神苑を護っていた守人の家だったそうです。昔は二十八家あったそうですが、今は室、井、柳、斗、わが昴の五家のみです。クマリを動かすのは族長と思われているようですが、正確には、大連五家の総意なくては動きません」
ポカンとしたハルンツに対し、アシが説明を足した。
「族長というのは、あくまで天からの気を受け継いだ聖獣と至宝『大黒丸』を扱える事が許された者です。まぁ、大抵は支障がない人物なら、政に参加します。族長は大抵、大連の血を引くものが多いですから。もちろん、例外はあります。まったく、なんで兄上に聖獣が現れたのか、今でも疑問です」
アシがさりげなく、最後に厳しい一言を加えた。