48 ここにいるよ
「もう少し、髪の手入れしたほうが良いわよ」
「ご、ごめんなさいっ」
「袖を通します。右手から…はい、左手も…そっちではなく、やや上向き…はい」
「すみません、すみません! 」
あれから半刻後、義仁とリリスにされるがままに着付けられている。
手触りがよく、上等と判る布をふんだんに使用した萌黄の狩衣。事情を話してアシの古着を貸してもらったのだが、渡されても着方がさっぱり判らない。
困りきったハルンツを見かね、義仁とリリスが手伝っている、という構図になった。
とにかく、義仁は手際よく着付けていく。幾分アシより長くなった丈を、裾あげしながら形よく着せていく。李薗とは幾つか違う点があるとぼやいているが、器用に皺を脇に寄せたり見栄えよく着付けていく事には慣れたものだ。
リリスは、その義仁の手助けをしながらも、髪を纏めていく。
いままで荒縄で結っていた髪は,手入れなどしたことない。ここ最近、ようやく朝晩に櫛をいれるのが習慣になったところなのだから。
香油を刷り込ませ、馴染ませ、香油を零すことなく大きな手を器用に動かしながら、頭頂部に結い上げてまとめる。
「よし、と。こっちは完成」
「まぁ…こんなものでしょう。きつくありませんか? 」
「き、きついです…重いです…頭、痛いです…」
「狩衣で文句言ってんじゃないの。こんなんでどうかしら」
とにかく、今までこんなに衣を重ねた事はなく、帯できっちりしめた事もなく、髪を結い上げた事もない。体中が訴える不快感を示すと義仁は苦笑しながら鏡を取り出す。
「初めてで慣れていないと変かもしれませんが、じきに慣れますよ。苦しくはないですか?」
「わ、わかりません。何か、変です…」
「まぁ…大丈夫でしょう。あまりにきついようなら、一言断ってから首下のこの紐を外せば、幾分か息がしやすいですよ」
「は、はい…」
帯の締まり具合を確認すると、義仁はあっさり「大丈夫」と自分の着付けに太鼓判を押してしまう。
絶対、首下を緩めよう。そう、決心しながら鏡の前に立つ。
そこに立っていたのは、年若い貴族の少年。
「あぁ、やはりソンツェ様に似てますね。立ち姿など、そっくりです」
「ほんに、ようお似合いで。お嬢様の弟君のようですね」
「可愛い! 自信もって顔上げてみてよ。うん、大丈夫だよ」
部屋にやって来たアシとおばぁちゃんとマダールが、ハルンツの姿を見て感想を零す。
決してお世辞ではない。そのことは判っていても、全身の不快感から軽く頭を下げるのが、精一杯だ。
「私達も支度をしますから。少々、待っていてくださいね」
「だから、せめて屋敷では貴婦人としての装束をお召しくださいと、おばばは言っていたのですよ」
「動きづらいから苦手なのです…。すみません。もう少し時間がかかりますが」
時間がかかる。その言葉に、僅かに血の気が引いていく。
こんなに苦しいのに、待たなければいけない。しかたないけど。
ハルンツは振り返って、納得する。結局、あのリリスの悪戯で、玄徳が落ち着く時間を使い、義仁に着付けを手伝ってもらった。
自分が一人では着られなかったからだ。あとは、みんなが着替えるのを待つしかない。
「は、はい。待ってます。みなさん、ありがとうございます」
あらためて頭を下げる。肩がこりそうだ。どこか風の通る心地よい場所で待ってようか。
「あぁ、マダール。あなたも着替えるのですよね。出来るだけ、慎み深い格好でお願いいたします」
「え、でも……そんなに他の衣装がないし」
「クマリ風でよろしければ、私のを貸しますよ」
戸惑うマダールに、アシが微笑む。どうしようか、困惑したマダールに、義仁が畳み掛けるように急き立てる。
「おう、これは有り難きお言葉。ささ、マダール、ぜひ好意を受けて。よいですか、くれぐれも慎み深い淑女のような格好でお願いしますよ」
これは天の采配。なんたる幸運。
そう叫びそうな義仁の笑顔。 何も知らないマダールは勢いに飲まれたまま、楽しげなアシに手を引かれるままに去っていく。
「やられたわ。きー! つまんないっ」
「貴方の暇つぶしに、殿の純情を使わないでください。まったく。さぁ、仕事仕事」
別室で待たせた玄徳の着替えの為に、憂いの晴れた義仁が小走りにかけていく。その後姿を見ながらリリスが肩を回すと、盛大に音が鳴る。
「まったく。政なんか背負う人は大変ね。さぁて、私も着替えよ。ハルンツちゃん、私の裸、見る?」
「いっ、そ、外の風に当たりに行ってきますっ」
「あら、そう?じゃあ、そこの突き当たりを右に入った階段を上るといいわ。見晴らしの良い舞台みたいな所があるの。宴は、そこでやるのかもしれないわねぇ。先に三線持っていってってよ。私、また玄徳イジって遊ぶわ」
「……義仁さんに怒られますよ」
「いいのよ。大事なマダール、取ってったんだから……」
鋭く尖った言葉が、リリスの中から飛び出した。いつも、冗談ばかり軽く話す口から覗いた刃は、悲しいほどの毒々しい光をハルンツに見せた。
何も言えず、リリスを見上げれば僅かに口元に微笑みを浮かべている。紫の瞳だけは、まっすぐに玄徳の控えた部屋の方を見据え、堅く目をつぶった。
「じゃ、着替えてくるわ」
僅かな間を置いてさらりと呟き、聞いた事のない鼻歌と妙なリズムのステップを取りながら廊下の角を曲がっていく。
ゆらりゆらりと揺れる金色の髪を見送りながら、見据えた紫の瞳を思い出す。
リリスは、マダールが大好きなんだろう。玄徳と違う『好き』という感情。どこか、ハルンツ自身がおばぁに持つような、慈しむような感情。だから、きっと、寂しいのだろう。
マダールと玄徳が、一緒にいたいと願っている。その傍らで、リリスは何も言わずに微笑んでいた。多分、これからも、傍らや後で微笑んでいくんだろう。軽い女言葉で誤魔化しながら、それでいいと、見守っていくんだろう。それも、幸せの形なんだろう。ただ、横にいられる幸せ。充分、かもしれない。