45 祭壇
アシの言葉のとおり、その光景は神への祭壇のようだった。
麓へと続く緑の斜面の中に、岩山がそびえている。
垂直に切り立った岩壁。その頂上は平らで緑の森と霧に覆われて、緑と岩の間から白い糸のような水の流れが、幾筋も流れ落ちていっている。
ここが特別な場所と、その異形で主張していた。
「中央に見える泉が、天鼓の泉です。大霊会の最後の儀式では、あの場所でその年最高とされる楽師の演奏が奉納されるのです。マダール殿、ぜひ奉納奏者になってくださいね」
「…自信、なくなってきました…あんな、すごい場所で演奏できるかな…」
マダールが、珍しく気弱な言葉を零しながら両腕を抱えた。多分、鳥肌が立っているのだろう。
ハルンツも、その光景を見た途端に背筋に冷たい緊張が走っていた。おそらく、玄徳も同じ光景を見ているんだろう。覗き見た瞳は、いつかのように青い蛍火がついている。
「ここが、天に近づける場所というのは、本当だ…」
泉から、光の柱が空へそそり立っている。常人には、見る事の出来ない光。それでも、マダールは感じ取った。それほどの強い光。どんな闇も照らす、白く輝く光の柱。その柱の周りで、風の精霊達が踊っている。あの光の先には、人は近づけないという、確信。あの光の柱自体が、天界への扉なのかもしれない。
「神苑の前に、大きな建物があるでしょう。白い漆喰の壁の建物。あれが、宮です」
ハルンツ達は、神苑の迫力に息を飲んでいるが、アシは変わらぬ口調で案内を始める。やはり、ここで生まれ育った故に、絶景も日常の光景のようだ。
その示す先には、神苑の前に立ちそびえる巨大な建物がある。まるで、低い岩山が、神苑の威光を守るように建っているようだ。よく見れば、小さな窓が無数に開けられ、彩り鮮やかな朱色の入った瓦の屋根があり、人工の建物と判る。
「右手の赤い窓枠が使われている方は、行政府。左手の青い窓枠側が、族長の私的な空間で雲上殿。今は、主に大霊会へ参列される各国の貴賓殿になってます。殿下も多分、あちらへ案内されると思います」
「…そうか…」
「では、屋敷へ参りましょう。下屋敷ゆえ、質素なものですが。あぁ、御簾を降ろしましょう。ここから降下します」
アシの言葉に、玄徳とマダールが無言で目を合わせて、視線を外した。
息が、詰まった。ワケは判らないまま、ハルンツは視線を窓の外へ移す。
ようやく、クマリへ着いた。里から、必死の思いで旅を続けて、ここまでたどり着いた。
世界が見たいと思っていた。全てを知りたいと思っていた。力を手に入れようと思っていた。
でも、なんて遠いんだろう。理解できないものが多すぎる。
人に気持ちも、想いも、不可思議な事ばかりで。
クマリへ着いた。でも、ボクは、これからどうしたらいいんだろう。
「よう眠れましたか? 」
「おかげさまで。ありがとうございます。あ、布団ぐらい自分で片付けます」
「お客様がそんな事せんで。お嬢様の『大切な客人』が、あれまぁ…」
「あたしも。このぐらい出来ますから」
ハルンツは、年寄りに弱い。皺くちゃの顔や手、曲がった腰のおばあちゃんが、布団を片付けるなんて許せない。マダールもてきぱきと畳んでいきく。
質素な下屋敷…とアシはいっていたが、京の南方の端に立つ屋敷は広大な敷地に立てられていた。山の斜面を上手く活用しているので見晴らしもよく、辺り一面の田んぼの上を通った涼しい風が屋敷中を巡っている。
そして李薗と違い、裸足で過ごすのがクマリ風。磨かれ黒光りする板間はどこも清潔で、室内の調度品も華美ではないが、植物を中心とした意匠が統一されて趣味がよい。
この広大な屋敷は、アシを『お嬢様』と呼ぶ老夫婦が管理しているらしい。他にも人手はあるようだが、表に出てくるのは彼らだけだ。
そして昼食後で昼寝をしてしまった一行に、丁寧に起き掛けに冷えた茶と果物まで用意してくれていた。あまりの待遇のよさに、申し訳ないほどだ。
「ハルンツちゃん、元気になったみたいね。あら、野苺だわ。美味しそう! 」
「玄徳達も呼んでこようか」
三つの布団を抱えたリリスが、おばあちゃんのもってきた盆を見て微笑む。
リリスの容貌と声の落差に、一瞬おばあちゃんは目を見開いたが、そこは昴家の下屋敷を管理する玄人。少し間をおいて、何事もなかったように「よう冷えとりますよ」と返事をする。
なんだかんだと広い板間の布団を片付けた頃、別室で休んでいた玄徳と義仁がやってくる。
「窓際で食べなさるといいですよ。夕刻にかけて、良い風が吹きますからね」
おじいちゃんが、手際よく茶を注ぎ玄徳に差し出す。何も告げていないが、玄徳の地位を察しているのだろう。さりげなく上座を勧めて茶と果物を前に用意する。
「おや、美味しそう。私も頂きましょう」
「お嬢様! お帰りなさいまし」
「宮はどうでした? 」
「相変わらず。兄上も忙しそうだ」
駆け寄ったおばあちゃんに、腰の太刀と烏帽子を渡して部屋へ入ってくる。昨晩の水干姿ではなく、直衣姿で颯爽と歩いてくる姿は、姫というより皇子のようだ。
首下を緩め、頭を下げかかったハルンツ達を手で制して座に入る。その行為は自然な流れだった。
「どうですか? 少しは休まれましたか? 」
「旅の疲れも落とせました。心のこもったもてなし、ありがとうございます」
「こちらこそ。普段は私だけなので、おじぃとおばぁの二人で充分ですが。至らぬ点があると思いますが、なにとぞご容赦を」
「え! こんな広い屋敷にアシさま一人?! 兄上の…っ」
兄の『昴 ジクメ』は一緒に住んでいないのか。そういいかけたハルンツの背中に激痛がはしる。隣のリリスが、アシから見えない角度でつねったのだ。
思わずリリスを睨みつけるが、リリスはにっこり笑って囁く。
「後でね」
たった一言に凄みを感じ、ハルンツは野苺の砂糖漬けに手を伸ばす。
親指の爪ほどの野苺を、砂糖に一晩ほど漬けて、食べやすいように二つ三つで串に刺してある。野趣あふれるようで、高価な砂糖をふんだんに使った水菓子だ。
「そ、そういえば姫様こそ、ずっと動いてますが大丈夫ですか? 」
絶妙なタイミングで、マダールがアシに話しかける。僅かに漂った緊迫した空気に、アシが気付いたかどうか、判らない。
品の良い穏やかな笑顔で、茶碗を手に取りながら答える。
「大丈夫。私は慣れております。ある程度共生能力の高い大連の者は交代で宿直を務めています。先ほど引き継ぎを終えてきましたし、後は次の宿直まで休むだけです」