44 クマリへ
「すごい…っ。緑がすごくキレイ!」
マダールの言葉が、全てを表している。
あれから、ハルンツと玄徳の疲れを考えて結局はアシが連れて来た星輿に乗ってクマリへ向かっている。眼下に広がる森に、街道が一筋まっすぐに西の峠に向かい伸びている。一枚一枚の葉が見えない程の高さを風で出来た道を、玉獣が装飾された箱のような輿を担いで駆け抜けていく。本来は窓につけられた御簾を下げるそうだが、あまりの景色の素晴らしさと神苑の上空ですれ違う恐れもない為に、御簾を上げて景色を堪能していた。こちらには、玄徳とマダールと義仁とハルンツ。もう一つの輿には、リリスと警備の三人。かなり、リリスは不服そうだったが。
「丁度、クマリは新緑の季節なんです。良い時期にいらっしゃいました。我々クマリ族が、神苑が最も美しいと讃える時季なのですよ」
「納得だ。本当に、素晴らしい。この時季に来れるとは、吾は幸せだな」
「アシさま、あの山もクマリのですか?」
視界に飛び込んできた白い頂をもつ大きな山の連なりに、思わずハルンツが割り込んでしまう。しまった…と思ったが、アシは微笑んで頷く。
「えぇ。あれがシュミ山で聖なる大地母神の山です。もうじき、京が見えますよ…ほら」
峠を越えたその途端、視界が広がりまた違う緑の世界が広がった。
見守るように京の北にそびえるシュミ山。その麓からの新緑の緑の山々に囲まれた人里が扇のように広がり、遠く南に反射する海まで点在する里と街道が続いている。茶色の茅葺き屋根が広がる中にも、多くの緑が点在している。山からのびる青い空を映した川は、運河となって都市中を巡って光り輝いている。上空からも判るほどの活気溢れる営みに、息を飲む。
「なんと…クマリがこれほどの京とは…。李薗の春陽にも負けぬ…」
「お褒めにあずかり、光栄にございます」
「大地が、ほとんど田を耕せる農地とは…なんと豊かな」
「シュミ山より豊富な雪解け水が流れてきています。クマリは玉獣を扱う猛者に思われてますが、国の基盤は農業で大半の民は農民です。もちろん、その血の共生能力を使い玉獣を扱ったり、他国へ調教へ出かけたりもしますが。基本は、ご覧の通りです。地味な国ですよ」
アシはそう微笑むが、玄徳と義仁は眼下の緑の光景に釘付けになっていた。
思えば、ハルンツの育った海南道に田んぼなど、殆どなかった。淡水の水はとても貴重だった。とても米を作る余裕などない土地で、食べられるモノは芋か、雑穀。李薗は広大だが、その大部分は荒野だ。だからこそ、視界に収まるほどの小さなクマリの領土であっても、緑に溢れている光景は豊かな証拠だ。
「では、お米が沢山食べれるんですね。誰も、空腹ではないのですね」
「えぇ。クマリには、飢餓という言葉はありませんから」
アシの返事にハルンツの腹の虫が答える。
あまりの唐突さに、その場が一瞬の静寂に包まれてから、笑い声が爆発する。
「さっき朝食を食べたばかりでろう! 」
「いいよいいよ、育ち盛りなのよね…ぷっ」
「そんなに笑わなくてもっ…あ、義仁さん、背中向けて笑っているんでしょう! 」
「…っ、いえ、そんな、し、失礼なこと…っ」
そう否定しながらも、義仁の肩が小刻みに震えている。窓枠を握りしめた手の甲には、血管が浮き出ている。
「下屋敷に着きましたら、すぐに膳を用意させましょう。ゆるりと寛いでくださいね」
目尻の涙を水干の袖口でふき取りながら、アシが答える。その言葉に、玄徳と義仁とマダールが振り返った。
「玄徳殿下の今のお召し物では、宮へ立ち入る時に時間がかかるやもしれませぬ。よろしければ、私の屋敷に立ち寄って頂ければと思いまして」
「それは…願ってもない事。しかし、このように好意に甘えてよいのですか」
「こちらこそ。先程、李薗の皇子とソンツェ様の子孫が、神苑の妖獣を浄化し、かかえの楽師殿は妖星を浄化したと報告した時の兄上の顔は見物でした。これほどの方々をお迎えできる機会があるなんて、私は幸せです。ですから是非、屋敷へ来てはいただけませんか? マダール殿は、大霊会の奏者を目指してこられたのでしょう? あれほどの腕ですもの、出来れば私に指南していただけないでしょうか」
アシは、その色白の頬を僅かに薄桃色に染めて喋り続ける。まるで、小さな女の子が砂糖細工の菓子を見て飛び跳ねているように、嬉しそうに話し続ける。
この人には、他意はない。純粋に、本心のみを口にする。きっと、言葉の力をよく知っているのだろう。これは、本能のような仕草。
ハルンツは、そのアシの様子に神苑の空気を感じていた。言葉ではいえない、感覚。幻のような清清しい清涼感。でも、目を閉じれば掴める確信。彼女は、信じてもいい。
「玄徳さん、お邪魔しましょう」
「ハ、ハルンツ、そんな勝手な」
「アシさまは、本当に望んでいるようです。そうですよね」
「はい! あっ…私としたことが…勝手を申しましてすみませぬ。殿下の都合がおありなのでしたら」
「いや、予定はあってないようなものだ。そうだな義仁」
「えぇ。姫君の申し出、勿体無いほど有り難きお言葉。確かに殿下の身支度もございます故、一間でも借りられるのであれば、大変助かります」
「では、決まりですね! 」
そのまま立ち上がりそうな勢いのアシに、全員が微笑む。まだ若い姫は、さっそく同じ世代のマダールに「鼓の稽古をしてほしい」と頼みだす。女同士の華やかな雰囲気に包まれたその様子に、残されたハルンツ達が顔を見合わせて苦笑いする。とても、あの中には入れない。そんな顔だ。
「おう、見えてきた。そろそろ噂に聞くクマリの宮の辺りであろうか」
身の置き所に困った玄徳とハルンツが、景色を堪能しだすと、再び大きく景観が変わっていた。
眼下に広がっていた緑が、聳え立つ緑になっていく。いつの間にか、高度を下げて北に回っていたらしい。シュミ山から広がる山々の連なりが、窓の外に広がっている。手を伸ばせば、葉の茂みに届きそうなほどだ。
「いえ、ここが神苑の近くです。確かに昨晩の十二番宿場も神苑の森ですが、私達の言う神苑は天鼓の泉を示します。もう少し、高度を上げて神苑をご覧になって頂きましょう」
アシが身軽な動きで立ち上がり、輿の前方にある小窓を叩いて外の御者へ合図を送る。
僅かな間の後に、急な浮遊感に襲われる。体は床の上だが、ふんわりと浮き上がる感覚に、思わずつかまるモノを探してしまう。マダールは玄徳の腕を掴んで、玄徳はそのまま肩を軽く抱いて、向かいの義仁が目を剥いている。
「まるで、神の為の祭壇のようでしょう。中央に、光る水場があるのが見えますか? あれが天鼓の泉です」