43 困惑の目覚め
「喉から手が出そうな光景だな」
玄徳の声に、ハルンツの意識が上昇する。
鼻に、芳しく甘い穀物の香りが漂ってくる。その香りで、一気に目が覚めてくるが、体が鉛のように重い。目蓋も糊で貼り付けたように、剥がれない。
全身の疲労感で自分がやった事を思い出しつつ、まだうたた寝させてもらおうと、深く息を吸い込んで吐き出す。
体の気だるさと、甘い香りは、大祓が成功した事をしめしている。もう少しゆっくりしても、悪くない。
「朝焼けに光る数十もの繭玉。もうすぐ、玉獣として生まれ変わっって出てくるんだろう?全部でいくらになるのだ…一頭ぐらい、李薗に連れ帰りたい」
「…。お気持ちは判りますが」
「そーいうのを、世間では泥棒っていうのよ」
「お姫様に頼んでみたら? そういえば、まだ帰ってこないね。大祓の一件を伝えに京へ飛んでったんだよね」
リズムにのった心地よい軽口の会話。この平和な雰囲気に、全てが成功した事と夢でない事を確信する。
いつの間にか、外套をかけられているのに気付き、手探りで手繰り寄せて寝返りをうつ。
声の聞こえる土間に背を向け、うっすらと目蓋を開けてみる。白い朝焼けで、部屋は明るくなってきている。
「しかし、クマリはどうなっているのだ…。これだけの妖獣が出てくるなど、ただ事ではない。アシ殿の様子を見れば、妖星は頻繁に出ているようだ。昴家が内政を掌握して国内は安定したのではないのだろうか」
「どーいう事よ。今は族長がいないから、妖がでるんでしょ」
「族長の不在なら、今まで何度かあった。それでも、国境が封鎖寸前まで妖が発生した記憶は吾にはない。そのような記録、義仁が見た事があるか? 」
しばらくの沈黙の後に、義仁の静かな声が否定する。
「エアシュティマス様なら、詳しいでしょう。しかし、今は消えてしまいましたから、尋ねられませんね」
その言葉に、ハルンツは目を見開く。それでも、成り行きで盗み聞きしている罪悪感で、動けない。
「それよ…。エアシュティマス様も、何を考えてらっしゃるのか。ただ、昨日の言葉で理由がありハルンツと共にしている事は感ずいたが」
「そうですね。用もないのに、あれだけの偉業を成し遂げた方が蘇る事はないでしょうし」
「よくわかんないけど…また大陸を統一するの? 悪い人じゃないみたいだけど」
「ともあれ…ハルンツは訳アリな事を知っているのかしら。でも、知ってなさそうよね? 」
「であろうな。父のように慕っていると言っていた。そこまで信頼しているのに、何も言わずに頭を下げられたからな」
玄徳達の会話で、昨晩の様子が思い出される。妖獣を退治してくれるように頼んだハルンツに、ダショーは頭を初めて下げた。
「今ココで、術を使う事は出来ない」「ここに存在できなくなる」「何のために蘇ったのか」
いくつもの言葉が思い出され、ハルンツの頭の中を駆け巡る。
「ハルンツは、これからどうなるんであろうな」
「それをどうにかする為に、あなた方はついてきたんでしょう? 李薗帝国に害を及ぼさないようにする為に」
リリスの言葉に、戸口が音を立てる。玄徳が身じろぎをしたらしい。やや重い足音が続き、床に座った振動がハルンツまで伝わる。
息は、止めていた。ばれませんように。起きてると、気付かれませんように。
「…リリスは、いつ気付いた? 」
「最初からよ。だいたい、李薗の皇子様が旅に引っ付いてくるって事が異常事態よ。裏があるに決まってるじゃない。聞けば、ハルンツちゃんは只者じゃないし」
「そっか。そうか」
「全然気付かなかったよー」と、明るく続けたマダールの声が、何故か悲しい。
まるでハルンツの代わりの声のようで、思わず堅く唇をかみ締めていた。
「マダール…でも、玄徳達はハルンツに工作する気はないと思うわよ。そうでしょ」
「リリス、そなた策士だな」
再び立ち上がったのか、板間に足音が響き音もなく座る。僅かな振動に、ハルンツは外套の中で組み合わせた手を、堅く握り締める。
「マダールの前で、吾に否と言わせる気だったのか。だが、吾はハルンツに媚を売る気はない。最初は手なずけようかとも思ったが、ハルンツは誰かに手なずけられる器ではない。何にも考えてなさそうだが、ハルンツは、自分の心のみに正直なやつだ。誰かがとやかく言って操れるわけがない。類稀な共生者の力すら、無用な力と言い切る強情者だ。吾は、何もする事はない。おそらく、エリドゥ王国は必ず手を出してくるだろう。深淵の神殿群も、どう出てくるか判らぬ」
パキンと、薪が爆ぜる音が沈黙の間を埋めた。
「ただ、この大陸の未来がどうなるのか。ハルンツの背中を見ていくしかない。…出来れば、友として」
玄徳の溜息が、空気に染みていくように聞こえる。
「この話、ハルンツには」
「内緒ね。うん。エアシュティマス様の事もね」
「いらぬ心配、かけたくないものね。判ったわ」
「承知しました」
四人の声が、暫く消える。かみ締めた唇は、振るえる。堅く握った手から、力が抜けていく。見開いた目から、涙が零れていく。
衝撃と感謝。戸惑いと、微かな怒り。反対の気持ちがぶつかっていく。流れる涙を、外套の端でこっそりと拭く。
「さて、マダールの粥が出来たようだな。一杯頂こうか」
「…うんっ。ちょっと待ってね、山菜入れたら出来上がりだから」
「私、キノコも採ってきたのよ。ほら、これも入れてっ」
「殿、毒見します」
「ちょっと! 義仁、何言ってんのよっ。私のキノコが食べれないって言うの? 」
騒がしい会話が先の重い空気を吹き飛ばしていく。それが、意識して騒がしい事が、ハルンツの胸を刺していく。
小さなトゲは、ヒリヒリと痛む。
「ちょっと、そんなに騒いだらハルンツ起きちゃうよ!」
「…おはよう、ございます」
「あ〜ぁ。起きちゃったぁ」
のっそりと、起きよう。今、目覚めたような、怠慢な動きをしよう。そう思ったが、何も工夫する事はなかった。体はまだ重く、気だるい。
涙の跡を見えないようにと、目を擦り伸びをする。
土間の竈の前では、キノコを盛ったザルを奪い合うリリスと義仁がいる。
囲炉裏では、湯気の立つお椀を渡し微笑みあう玄徳とマダールの姿。二人が仲むつまじい事になったのを除けば、いつもの旅の朝の光景だ。
「陳さん達は?」
「念の為に塀の外を見回ってます。朝食を食べたら交代しましょう」
「その前に、顔洗ってらっしゃい。すごいわよ。外に繭玉がゴロゴロしてるの。ハルンツちゃん、体はまだしんどい? 」
「…うん…」
キノコ攻防戦を繰り広げながら、義仁が手拭いを投げよこしてくる。リリスは素早くハルンツの顔を覗き込んでくる。
鼻先まで迫った白い肌と金髪を避けて、土間から外へと出る。
空気が違う。昨日と違う。新緑の輝きで溢れた森が見えるのに、ハルンツは手の中の手拭いを握り締める。
ボクは、何も知らなかった。知ってしまった。これから、どうすれば、いいんだろう。